それでは本編どうぞ
山口の町を離れてから、どれほど歩いたのか、もう分からなくなっていた。
天狗の背に負われたまま、俺は何度も眠りに落ちそうになっていた。けれど、眠ってしまってはいけないような気がして、重くなる瞼を必死に開けている。目を閉じれば、そのまま何か大切なものまで見失ってしまいそうだった。
山道は暗い。
月は出ているはずなのに、その光さえ生い茂った木々に遮られ、足元には黒い影が重なっている。どこに岩があり、どこが崖になっているのかも分からないような道なのに、天狗は迷うことなく歩き続けていた。
ただ、ずっと歩いているわけではなかった。
遠くから枝を踏む音が聞こえたり、獣とは違う気配を感じたりすると、天狗はすぐに足を止める。そして俺を抱え直すと、道から外れて藪の中へ身を潜めた。俺の身体を自分の胸へ引き寄せ、口元へそっと手を当てる。
――声を出すな。
言葉にされなくても、それだけは分かった。
俺も息を止める。
胸の中で心臓がどくどくと鳴っている。その音まで外へ聞こえてしまうような気がして、俺は必死に息を殺した。
しばらくすると、何も聞こえなくなる。
天狗はようやく周囲を確認し、それから何事もなかったように再び歩き始めた。
「……天狗」
「なんだ」
「まだ追ってきてるの?」
背中越しに尋ねると、天狗はすぐには答えなかった。
「分からねぇ」
「……そっか」
それだけ聞くと、俺も口を閉じた。
追ってきているのか、もう追ってきていないのか。
俺には分からない。
ただ、山口を出てからずっと胸の奥がざわついていた。さっきまで暮らしていた町が、今は自分たちを追ってくる者たちの手に落ちようとしている。そのことを考えると怖くて仕方がない。
それでも俺は、自分に言い聞かせるように考え続けた。
父上は大丈夫だ。
父上には大勢の家臣がいる。
兄上も一緒にいる。
姉上だっている。
きっと、また会える。
山口を離れたのは、ほんの一時のことなのだ。
そう思わなければ、怖くてたまらなかった。
けれど、俺のそんな考えを見透かしているのか、天狗は何も言わなかった。普段なら、俺が何か尋ねれば適当な冗談を返してくれることもあるのに、今夜の天狗は必要なこと以外ほとんど口を開かない。
その沈黙が、俺にはたまらなく不安だった。
「ねえ、天狗」
「ん?」
「俺たち、どこまで行くの?」
「遠くまでだ」
「どこ?」
「石見」
また、その答えだった。
石見。
その国の名なら、俺も知っている。
そこには吉見正頼殿がいる。
父上の姉君――つまり、俺にとっての伯母上が嫁いだ吉見家の当主であり、俺からすれば義理の伯父にあたる。
だからこそ、俺はその名前にすがるような気持ちになった。
「伯父上のところへ行けば……」
「ああ」
「父上も来る?」
その瞬間、天狗の足が止まった。
俺は背中で身体を起こし、天狗の横顔を覗き込もうとした。しかし、天狗は振り返らない。
「……どうかな」
その答えを聞いた途端、胸の奥が冷たくなった。
「兄上は?」
返事はない。
「……姉上も?」
やはり、天狗は黙ったままだった。
俺は天狗の顔を見ようとした。
けれど、暗い山道の中では、その表情さえよく見えない。
「若」
しばらくして、天狗が静かに言った。
「今は何も考えるな」
「でも……」
「生きることだけ考えろ」
その言葉が、妙に重かった。
俺は何も返せなくなった。
天狗の背中に顔を押しつける。着物越しに伝わってくる体温だけが、今の俺にとって確かなものだった。
生きる。
それだけを考えろと言われても、俺にはどうすればいいのか分からない。
父上もいる。
兄上もいる。
姉上もいる。
だからこそ、俺は何も心配しなくていいと思っていた。
なのに、どうして俺だけが山の中を逃げているのだろう。
どうして父上たちは一緒ではないのだろう。
どうして天狗は、俺が尋ねるたびに黙ってしまうのだろう。
幼い俺には、その答えを考えることさえ怖かった。
だから俺は、それ以上何も聞かず、ただ天狗の背中にしがみついた。
木々の間を抜ける風が冷たい。
足元では小石が何度も転がり、天狗の足が斜面を踏みしめるたび、身体が大きく揺れる。それでも天狗は俺を落とさないように片手でしっかりと支えながら、暗い山道をひたすら進んでいった。
山口は、もう見えない。
俺は目を閉じた。
眠るためではない。
ただ、今は何も見たくなかった。
❖
天狗の背に揺られていた俺は、いつの間にか重くなった瞼を何度もこすっていた。けれど、天狗のほうも決して楽ではないことは、子供の俺にも分かる。俺を背負ったまま険しい山道を歩き続けているせいか、時折その足取りが鈍くなり、肩で息をしているのが伝わってきた。
「天狗……」
「ん?」
「俺、歩くよ」
「歩けるのか?」
「……たぶん」
「たぶんじゃ困るんだがな」
そう言いながらも、天狗は少し笑った。
やがて道が比較的なだらかになったところで、俺は背中から降ろしてもらった。
地面に足をつけると、思っていた以上に身体が重かった。山口を出てからほとんど休んでいないせいだろう。足の裏は痛く、ふくらはぎも張っている。それでも、天狗が俺より疲れていることを思えば、弱音を吐く気にはなれなかった。
「ゆっくりでいい。俺の後ろを歩け」
「うん」
俺は天狗の背中を追って歩き始めた。
それから俺たちは、何度も歩いては休み、また歩いた。
天狗が先に進み、俺がその後ろをついていく。俺の足が止まれば天狗も立ち止まり、少し休んでからまた進む。道が険しくなれば、結局また背負ってもらった。
そうやって夜の山を進み続けているうちに、俺たちは山口の町からさらに離れていった。
宮野のあたりまで来た頃には、もう人家の明かりもほとんど見えなくなっていた。
普通の街道を使えば、もっと早く先へ進めるはずだった。
けれど、そこを通るわけにはいかなかった。
陶軍が山口へ迫っている。
街道には人がいる。人がいれば、誰かに見られる。村へ入れば、俺たちの姿を見た者が陶方へ知らせるかもしれない。
だから天狗は、街道から外れた。
それまで通ってきた山道よりも、さらに人の気配がない場所へと進んでいく。
「こっち、道なの?」
俺が尋ねると、天狗は振り返りもせずに答えた。
「ああ」
「でも、道なんて見えないよ」
「見えなくてもある」
「……?」
俺には、どう見ても獣が通った跡にしか見えなかった。
木々の間を縫うように細い踏み跡が続き、その先は崖なのか斜面なのかも分からないほど暗い。それなのに天狗は迷う様子もなく進んでいく。
後に聞いた話だが、この道は昔から山伏たちが修行のために使ってきた道なのだという。
人が暮らす場所と場所を結ぶ街道ではない。
山の中を歩き、峠を越え、谷を避け、別の修行場へ向かうための道。
そんな道を、天狗はまるで自分の庭であるかのように知っていた。
「どうしてこんなところ知ってるの?」
「山伏だからな」
「山伏って、みんなこんな道を歩くの?」
「歩く奴もいる」
「へえ……」
俺には、それ以上のことを聞く余裕はなかった。
山は思っていた以上に険しかった。
昼間ならまだ見えるはずの道も、夜になれば木々に覆われてほとんど分からない。月明かりは枝葉に遮られ、頼りになるのは天狗が持つわずかな明かりと、前を歩くその背中だけだった。
俺は慎重に足を運んだ。
けれど、疲れ切った身体は思うように動いてくれない。
「うっ……!」
何度目かの斜面を越えようとしたところで、足が滑った。
身体が後ろへ流れる。
「危ねぇ!」
すぐに天狗の手が伸び、俺の腕を掴んだ。
間一髪で引き戻される。
「ご、ごめん……」
「謝るな。怪我は?」
「大丈夫」
そう答えたものの、膝には鈍い痛みがあった。
見ると、袴が裂けている。そこから覗いた膝には擦り傷ができ、じわりと血が滲んでいた。
「……怪我してるじゃねぇか」
天狗は眉をひそめると、その場にしゃがみ込んだ。そして自分の布を裂き、手際よく俺の膝に巻いていく。
「これでいい」
「……ありがとう」
「歩けるか?」
「うん」
俺は立ち上がった。
大丈夫。
そう思って歩き出した。
けれど、二、三歩進んだところで、足に力が入らなくなった。
「……」
天狗は何も言わなかった。
ただ、俺の前に背を向けてしゃがみ込む。
「ほら」
「でも……」
「いいから乗れ」
「天狗も疲れてるんじゃ……」
「俺の心配はいい」
俺は少し迷った。
それでも結局、その背中に身体を預けた。
「……ごめん」
「だから謝るなって」
天狗は俺を背負い直すと、再び歩き始めた。
さっきよりも少しだけ息が荒い。
それでも、歩みを止めようとはしなかった。
道は進むほど険しくなっていった。
木の根が地面から突き出し、大きな岩が行く手を塞ぐ。時には道そのものが消えたように見える場所もあり、天狗は周囲を確かめながら、わずかな踏み跡を探して先へ進んだ。
やがて、斜面の端を通る場所へ出た。
木々の切れ目から、下が見える。
けれど、暗すぎて底がどこにあるのか分からない。
「……」
思わず下を覗き込んだ俺の身体が強張った。
「下を見るな」
すぐに天狗が言った。
「……うん」
「俺だけ掴んでろ」
俺は黙って天狗の肩に腕を回した。
怖かった。
少しでも手を離せば、そのまま暗闇の中へ落ちてしまいそうだった。
だから俺は、天狗の肩を必死に掴んだ。
でも、眠ってしまっても、すぐに目を覚ました。
眠れば身体は楽になる。
それくらいは分かっていた。
けれど、目を閉じるのが怖かった。
目を開けたとき、天狗がいなくなっているかもしれない。
あるいは、山口へ戻されてしまっているかもしれない。
そんな訳の分からない恐怖に追い立てられながら、俺は天狗の背中にしがみつき、ただひたすら暗い山道の先を目指していた。
❖
翌朝になっても、俺たちはまだ山の中にいた。
朝になれば、少しは楽になるのだと思っていた。けれど、木々の間から差し込む光を見ても、そこに山口へ続く道や人家があるわけではない。俺たちは相変わらず、人の気配がほとんどない山の中を歩いていた。
地福、生雲と山中を抜けても、天狗は村落へ下りようとはしなかった。わずかに残る人の足跡さえ警戒するように進んでいった。
徳佐方面へ下りれば、もっと早く先へ進めるらしいけれど、天狗はそちらへ向かおうとはしなかった。
「どうしてあっちへ行かないの?」
山の斜面を歩きながら尋ねると、天狗は前を向いたまま答えた。
「人が多いからだ」
「でも、早く行けるんでしょう?」
「ああ」
「じゃあ……」
「早い道が安全な道とは限らねぇ」
その言葉に、俺は黙った。
山を越えるのは苦しい。
足は痛いし、身体も重い。何度も転びそうになるし、少し歩いただけで息が上がる。それでも天狗は、俺を急かすことなく、ひたすら人のいない道を選び続けた。
どうやら俺たちは、普通の旅人が通る道を捨てて、山伏たちが修行に使うような道を繋ぎながら進んでいるらしい。
俺には、どこまで行けば石見なのかも分からない。
ただ、天狗だけは迷っていなかった。
「天狗……」
「なんだ?」
「本当にこっちで合ってるの?」
「ああ」
「迷ってない?」
すると天狗が、初めてこちらを振り返った。
「俺を誰だと思ってる」
口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
それを見て、俺も少しだけ安心した。
山口を出てから、ずっと張り詰めていた胸の中が、ほんの一瞬だけ緩む。
「……天狗なら大丈夫?」
「任せろ」
「本当に?」
「しつこいな。俺が迷子になると思うか?」
「……ちょっと思う」
「おい」
天狗が呆れたように笑う。
ほんの少しだけ、いつもの天狗が戻ってきたような気がした。
俺もつられて笑いかけた。
――その時だった。
天狗の表情が、一瞬で変わった。
「……!」
何かを聞き取ったらしい。
「どうしたの?」
俺が声をかけるより早く、天狗がこちらへ手を伸ばした。
「静かに」
口を塞がれる。
何が起きたのか分からないまま、俺は天狗に引き寄せられた。
耳を澄ます。
最初は、風の音にしか聞こえなかった。
けれど、やがて木々の向こうから、かすかな声が届いてきた。
「――この辺りを探せ!」
俺の身体が強張った。
人の声。
しかも、山へ入ってくる者たちの声だった。
天狗は俺を抱え、素早く道から外れた。大きな岩の陰へ身を滑り込ませると、そのまま俺を胸元へ抱き寄せ、自分の身体で覆うようにして隠す。
俺は何が起きているのか分からない。
ただ、天狗がこれほど必死に俺を隠そうとしていることだけは分かった。
「若君を見つけたら、必ず生け捕りにしろ!」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
若君。
それが誰のことなのか、考えるまでもなかった。
俺だ。
陶の兵が、俺を探している。
喉の奥から声が出そうになった。
怖い。
逃げたい。
けれど、天狗の手が俺の口をしっかり塞いでいる。
俺は必死に頷いた。
声を出さない。
それだけは分かった。
岩陰からわずかに外を見ると、木々の隙間を何人もの武士が歩いているのが見えた。刀を差し、武装した男たちだった。
「この辺りを探せ!」
「若君はこの山へ逃げ込んだはずだ!」
「こんな山を幼子が越えられるものか。どこかに隠れているはずだ」
俺は震えた。
幼子。
その言葉を聞いて、自分が追われているのだという現実が、急にはっきりした。
俺はただ、父上のところへ行きたかっただけだった。
兄上や姉上と一緒にいたかっただけだった。
なのに、どうして俺を捕まえようとしているのだろう。
捕まったら、どうなるのだろう。
その先を考えた瞬間、身体の震えが止まらなくなった。
天狗の腕が、さらに強く俺を抱き締める。
俺は目を閉じた。
お願いだから、行って。
早く、どこかへ行って。
そんなことを心の中で何度も繰り返す。
足音が近づいてきた。
ザッ、ザッ、と土を踏む音がする。
やがて、それは俺たちが隠れている岩のすぐ近くまで来た。
「……この辺りにはいないか」
「もう少し先を探そう」
「いや、待て。向こうの斜面も見ろ」
俺は息を止めた。
肺が苦しい。
息を吸いたい。
けれど、吸えば音が出るような気がした。
天狗の胸に押しつけられたまま、俺は必死に耐えた。
足音が岩の向こうを通り過ぎる。
一人。
二人。
三人。
まだいる。
まだ、離れていない。
俺は目を開けることもできなかった。
やがて、声が少しずつ遠ざかっていく。
「向こうを探せ!」
「分かった!」
枝を踏む音が、次第に小さくなる。
それでも天狗は動かなかった。
俺の口を塞いだまま、耳を澄ませている。
遠くで鳥が鳴いた。
風が木々を揺らした。
それ以外の音が何も聞こえなくなってから、ようやく天狗の手が俺の口から離れた。
「……もういい」
「……っ!」
堰を切ったように息が漏れた。
「はぁ……はぁ……」
苦しかった。
胸が痛い。
俺は何度も息を吸った。
「ゆっくりだ」
天狗が背中を撫でてくれる。
「声を出すなよ。まだ近くにいるかもしれねぇ」
「ご、ごめん……」
「謝るな」
天狗はそう言ってから、もう一度周囲を窺った。
しばらくして、ようやく立ち上がる。
「行くぞ」
「……うん」
差し出された背中を見る。
俺は黙ってそこへ身体を預けた。
天狗は俺を背負うと、再び山の奥へ向かって歩き始めた。
さっきまでと同じ山道だった。
木々が生い茂り、足元には岩が転がり、どこまでも山が続いている。
けれど、俺にはもう、同じ景色には見えなかった。
ついさっきまで、俺は「石見へ行けば安心できる」と思っていた。
吉見の伯父上のところへ行けば、きっと助けてもらえる。
父上も、兄上も、姉上も、きっと無事にいる。
そう思っていた。
けれど今、俺を探している人間が本当にいる。
もし見つかっていたら。
もし天狗がいなかったら。
もし、あの岩陰がなかったら。
そう考えるだけで、身体の奥が冷たくなった。
俺は天狗の肩に腕を回し、さっきよりも強くしがみついた。
初めてだった。
俺は、本当に殺されるかもしれないと思った。
❖
それからの逃避行は、もはや旅とは呼べないものだった。
朝になれば隠れ、夜になれば進む。
村を避け、水を汲める場所を探し、食べられるものを少しだけ口にする。
天狗が持っていた食料も、日に日に少なくなっていった。
俺は腹が減っていた。
喉も渇いていた。
足は傷だらけだった。
けれど、弱音を吐くことさえ怖かった。
俺が「疲れた」と言えば、天狗が困る。
俺が泣けば、声を聞かれる。
だから、なるべく我慢した。
「……天狗」
「ん?」
「俺、歩く」
「無理だろ」
「歩ける」
俺は天狗の背から降りた。
そして、自分の足で歩き始めた。
最初の数歩は大丈夫だった。
けれど、山道が急になるにつれて足が重くなる。
一歩。
また一歩。
それでも進む。
やがて足がもつれた。
「わっ……!」
転びそうになった俺を、天狗が抱き止める。
「だから言っただろ」
「……まだ歩ける」
「意地張るな」
「でも……」
「若」
天狗は俺の目を見た。
「生き残るためには、俺を頼れ」
俺は唇を噛んだ。
「……うん」
結局、また背負われた。
その頃には、俺自身も「石見へ行く」ということだけを考えるようになっていた。
石見へ行けば助かる。
伯父上のところへ行けばいい。
そこまで行けば、きっと父上たちも迎えに来てくれる。
そう思わなければ、歩けなかった。
❖
やがて俺たちは、高岳、十種ヶ峰へ連なる山系へ入った。
そこから先は、さらに険しかった。
山を下りれば街道へ出られる。
しかし天狗は下りなかった。
尾根を進む。
また尾根を進む。
左右には深い谷。
ところどころ岩場になっていて、足場もほとんどない。
風が強く吹きつけ、身体が煽られる。
「怖い……」
「俺を見るな。前だけ見ろ」
「落ちない?」
「落とさねぇよ」
「絶対?」
「ああ。絶対だ」
その言葉を信じて、俺は前を見た。
けれど、目に入るのは険しい山ばかりだった。
日を追うごとに身体の感覚もおかしくなっていた。
寒い。
暑い。
喉が渇く。
眠い。
腹が減る。
それなのに、眠ることもできない。
ある夜、俺はとうとう歩けなくなった。
「……天狗」
「どうした?」
「足……」
そこまで言ったところで、膝から力が抜けた。
天狗が抱き止める。
「若!」
「……ごめん」
「謝るなって言ってるだろ」
「でも……」
「もういい。休むぞ」
天狗は岩陰に俺を寝かせた。
懐から少しだけ水を取り出し、俺に飲ませる。
「ゆっくりだ」
「……うん」
水が喉を通る。
それだけで、泣きそうになった。
「天狗」
「なんだ?」
「石見……まだ?」
「ああ」
「もうすぐ?」
「……もうすぐだ」
天狗はそう答えた。
その声が、いつもより優しかった。
❖
その翌朝。
山の向こうに、これまでとは違う景色が見えた。
天狗が立ち止まる。
「……着いたぞ」
「え?」
「石見だ」
俺は天狗の背から顔を出した。
山の向こうに広がる景色。
そこには、これまで見てきた長門の山々とは違う土地が広がっていた。
俺には、それが何よりも嬉しかった。
「石見……」
「ああ」
「伯父上のところ?」
「そうだ」
俺は胸の奥から、ようやく力が抜けていくのを感じた。
助かった。
そう思った。
もう追われなくていい。
もう隠れなくていい。
父上たちとも、もうじき会える。
そう思っていた。
❖
吉見領へ辿り着いた俺たちは、そこでようやく保護された。
山伏姿の天狗と、その背に負われた幼子の俺。
最初は警戒されていたが、天狗が父上から託されたという書状を渡して俺の身元が大内家の三男・興童子であることが分かると、吉見家の者たちは驚きながらもすぐに奥へ通された。
俺は久しぶりに、まともな布団の上へ寝かされた。
温かい食事も出された。
湯も用意された。
それだけで、俺は泣きそうになった。
ようやく終わった。
本当に、そう思った。
「伯父上にお目通り願えますか?」
俺が尋ねると、家臣の下瀬頼定殿は少し困った顔をした。
「……若君」
「……何?」
「その前に、お伝えせねばならぬことがございます」
「何?」
頼定殿は答えなかった。
ただ、深く頭を下げた。
「まさか…」
嫌な予感がした。
あの山口を出た夜と同じだった。
胸の奥が、ざわりと震える。
「父上は?」
男は顔を上げない。
「……」
「父上は、ここへ来る?」
沈黙。
俺は立ち上がった。
「兄上は?」
返事がない。
「姉上は?」
それでも返事がない。
俺は頼定の袖を掴んだ。
「答えてよ」
ようやく男が口を開いた。
「……御屋形様、は」
そこで言葉が止まった。
俺は息を呑んだ。
「長門 大寧寺にて……御自害あそばされました」
「…………え?」
何を言っているのか分からなかった。
父上が?
自害?
どうして?
「嘘……」
声が出た。
「嘘だよね?」
「……」
「だって、父上は大丈夫だって……」
あの時の顔が浮かんだ。
山口の館で、俺が「陶殿が攻めてくるって、本当?」と尋ねた時。
父上は笑って言った。
――心配するな。
――大丈夫だ。
「……父上?」
その場にいた誰も答えなかった。
俺の頭の中が真っ白になった。
「兄上は……?」
男の顔が歪んだ。
「義尊様は……」
そこで一度、言葉を飲み込む。
「陶方に捕らえられ……その後……」
「やめて」
俺は耳を塞いだ。
「聞きたくない」
「若君……」
「聞きたくない!」
頭を振った。
これ以上聞いたら、本当に兄上がいなくなってしまう気がした。
だから、聞きたくなかった。
けれど――。
ふと、頭の中に姉上の顔が浮かんだ。
兄上が駄目だったとしても、姉上は。
姉上だけは、きっと無事なのではないか。
そんな都合のいい考えが、頭の隅に浮かんでしまった。
「……姉上は?」
自分でも、どうして尋ねたのか分からなかった。
聞きたくないと言ったばかりなのに。
それでも、聞かずにはいられなかった。
頼定は答えなかった。
その沈黙だけで、何となく分かってしまった。
「……姉上はどうしたの?」
「……珠光様も」
男の声が震えた。
「大寧寺にて……」
「……」
その言葉の先を、俺は聞きたくなかった。
なのに、もう遅かった。
父上。
兄上。
姉上。
三人とも。
みんな、死んだ。
「……いや」
俺は呟いた。
「いやだ」
息がうまく吸えなくなった。
「……っ、は……」
胸が苦しい。
喉が塞がる。
「若君!」
「はっ……はぁ……っ」
息を吸っているのに、全然足りない。
頭の中がぐるぐる回る。
山口。
父上。
兄上。
姉上。
大寧寺。
陶。
自害。
殺害。
言葉だけが頭の中を何度も駆け巡った。
「嘘だ……」
俺は呆然としたまま呟いた。
「そんなの……嘘だ……」
けれど、誰も「嘘だ」とは言ってくれなかった。
俺はその場から動けなくなり――
「若君!!」
やがて、意識が途絶えた
❖
次に目を開けた時、部屋は静かだった。
見慣れない天井。
見慣れない部屋。
俺はしばらく、それがどこなのか分からなかった。
そして、思い出した。
父上。
兄上。
姉上。
「……」
身体を起こそうとした。
けれど、力が入らない。
喉が痛い。
胸が苦しい。
それでも、俺は布団を握った。
「……う……」
声にならない嗚咽が漏れた。
泣き声だ。
けれど、大声で泣くことはできなかった。
まるで、まだ山の中にいるように。
声を出したら敵に見つかるような気がして。
俺は布団に顔を押しつけ、息を殺すように泣いた。
「ゔ……うぅ……」
肩が震える。
涙が止まらない。
「父上……」
声を押し殺す。
「兄上……」
もう一度、名前を呼ぶ。
「姉上……」
返事はない。
もう、どこにもいない。
帰る場所もない。
父上も。
兄上も。
姉上も。
布団の中で身体を丸めながら、俺はただ泣き続けた。
声を殺して。
誰にも聞こえないように。
まるで、あの山の中で陶軍から身を隠していた時のように。
ただ一つ違っていたのは――。
もう、逃げる先を探す必要はなかったことだった。
石見まで来た。
吉見様の領地まで辿り着いた。
だから、もう走らなくていい。
隠れなくてもいい。
それなのに。
俺の心だけは、あの夜の山口から、まだ一歩も動けずにいた。
語彙力がないので駄文ですがご了承ください。
永遠に長くなる文字数はうん…
次の話は17時17分に予約投稿していますので良ければ見てってくれると嬉しいです。
今宵はここまでにいたしとうございまする。
読んでいただきありがとうございました。