それでは本編どうぞ
目を覚ました時、俺はしばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
見慣れない天井だった。
山口の館でもない。あの暗い山の中でもない。柔らかな布団に身体を包まれていることだけは分かったが、身体はまだ重く、喉もひどく痛かった。頭の中にも薄い霧がかかったようで、目を開けているのに、何もはっきりとは考えられない。
俺はしばらく天井を眺めていた。
静かな部屋だった。
遠くから、誰かが歩く音が聞こえる。襖の向こうから小さな話し声もする。山の中で聞いていた風の音や鳥の声とは違う、人が暮らしている場所の音だった。
その音を聞いているうちに、少しずつ昨日のことを思い出した。
父上。
兄上。
姉上。
胸の奥が、また痛くなった。
夢だったのならよかった。
目を覚ませば、父上がいる。いつものように優しく笑って、俺の頭を撫でてくれる。兄上もいて、姉上もいる。昨日までと何も変わらない朝が始まる。
そう思いたかった。
けれど、昨日聞いた言葉は消えてくれなかった。
――御屋形様は、大寧寺にて御自害あそばされました。
――義尊様は……。
――珠光様も……。
「……父上」
小さな声が漏れた。
返事はない。
俺は布団を握りしめた。
「……兄上」
やはり、返事はない。
「姉上……」
静かな部屋には、俺の声だけが残った。
布団の中で身体を丸める。泣きたかった。昨日あれだけ泣いたせいか、もう涙すら出てこなかった。ただ胸の中だけが、ぽっかりと空いてしまったようだった。
山口を出てから、俺はずっと石見へ行けば助かると思っていた。
天狗の背中にしがみつきながら、何度もそう考えた。
石見へ行けば、伯父上がいる。
伯父上に会えば、きっと父上たちともまた会える。
だから、どれほど山が険しくても歩けた。足が痛くても、腹が減っても、眠くても、石見へ行くことだけを考えていた。
けれど、石見へ着いた先で待っていたのは、父上たちがいないという知らせだった。
俺は、何のためにここまで来たのだろう。
そんな考えが浮かんだ。
その時、襖の向こうから声がした。
「若君。お目覚めでございますか?」
俺は答えなかった。
声を出そうとしても、喉の奥が詰まってしまう。
しばらくして、襖が静かに開いた。
入ってきたのは女房だった。俺の顔を見ると、ほっとしたように小さく息を吐き、それから丁寧に頭を下げる。
「お身体はいかがでございますか?」
「……分からない」
自分でも情けないくらい、かすれた声だった。
「まだお辛いようでございますね。お食事をお持ちいたしましょう。少しでも召し上がれば、お身体も――」
「いらない」
「ですが……」
「いらない」
女房は困ったように黙った。
俺も、それ以上は何も言えなかった。
腹が減っていないわけではない。むしろ、山の中でまともに食べられなかったせいで、腹は空いているはずだった。
それでも、食べる気にはなれなかった。
昨日までなら、腹が減ったと言えば天狗が何かを探してくれた。水が欲しいと言えば、水を飲ませてくれた。疲れたと言えば、何も言わずに背負ってくれた。
けれど、今ここに天狗はいない。
そのことに気づいた途端、急に心細くなった。
「……天狗は?」
「天狗……?」
女房が首を傾げる。
「えっと、……あの山伏、俺をここまで連れてきた……」
「ああ。あの御方でしたら、こちらでお休みになっております」
「いるの?」
「はい。ただ、若君がお目覚めになるまでは、しばらくお休みになるよう申し上げております」
「……そっか」
それを聞いて、少しだけ安心した。
天狗もここにいる。
それだけで、胸の奥にあった不安がほんの少しだけ薄くなった。
けれど、次に浮かんだのは別の顔だった。
「……伯父上は?」
「殿でございますか?」
「うん」
女房は少しだけ姿勢を正した。
「お会いになられますか?」
俺は返事をするまで、少し時間がかかった。
吉見正頼。
父上の姉上が嫁いだ家の当主で、俺にとっては義理の伯父にあたる人だ。
山口を出る時から、ずっとその人のところへ行けば助かると思っていた。
伯父上なら、父上のことを知っている。
伯父上なら、俺を見捨てたりはしない。
そう思っていた。
でも、実際に会うとなると怖かった。
父上が死んだことを知った今、俺は伯父上の前で何を言えばいいのだろう。
父上のことを尋ねれば、またあの言葉を聞かされるかもしれない。
それでも、会わなければならないと思った。
「……会いたい」
「かしこまりました」
女房が深く頭を下げる。
その姿を見て、俺は布団の中で小さく息を吐いた。
ここには、自分を知っている人がいる。
父上のことを知っている人がいる。
そして、父上が俺を託した場所でもある。
それだけが、今の俺にとって唯一の頼りだった。
❖
「若君がお目覚めになりました」
その報告を受けた吉見正頼は、顔を上げた。
「そうか」
正頼は手にしていた書状から目を離した。
目の前には、昨夜から何度も読み返している一通の書状がある。大内義隆から送られてきたものだった。
書状を持ってきたのは、あの山伏だった。
天狗と名乗る男。
正頼は、未だにあの男の素性を完全には掴めていなかった。どこの山伏なのか、なぜ義隆から命を受けていたのか、そしてどのような経緯で義隆と繋がったのか。尋ねたいことはいくらでもある。
だが、今の正頼にとって、それらは二の次だった。
一つだけ確かなことがある。
あの男は、義隆の命を受けて興童子をここまで連れてきた。そして、追手の目を掻い潜りながら、その役目を果たしたのだ。
「……御屋形様」
正頼は、手元の書状へ視線を落とした。
つい先日まで、大内家の当主として山口にいた男だった。
自分にとっては義弟であり、同時に長年仕えてきた主君でもある。
その人が、もういない。
頭では分かっている。
大寧寺で義隆が自害したことも、義尊や珠光もまた命を落としたことも、すでに聞かされていた。
それでも、こうして義隆の直筆を前にすると、まだ現実の出来事とは思えなかった。
書状の中にいる義隆は、いつもと変わらない。
いつものように自分へ言葉を寄せ、いつものように頼み事を託している。
まるで、明日にでもまた山口から使者が来るかのようだった。
しかし、感傷に浸っている暇はない。
正頼は書状を静かに畳んだ。
「殿」
横に控えていた下瀬頼定が声をかける。
「分かっておる」
正頼は立ち上がった。
「若君に会おう」
「はっ」
二人は部屋を出た。
廊下を進みながら、頼定はしばらく口を閉ざしていた。やがて周囲に人の姿がないことを確かめると、声を落として口を開く。
「殿」
「なんじゃ」
「昨日のことですが……」
正頼は足を止めなかった。
「益田の件か」
「はい」
その名を聞いた途端、正頼の表情からわずかな緩みが消えた。
「やはり、気がかりです」
「あれだけ早く動いてきたのだ。気にならぬ方がおかしい」
昨日、益田勢が吉見領へ攻め込んできた。
それだけなら、正頼もここまで警戒はしなかっただろう。
益田氏と吉見氏は、以前から石見の土地を巡って争ってきた間柄である。境を接する領地の中には、山や田畑だけでなく、水利や街道に関わる場所も少なくない。互いに一歩も譲れぬ土地を抱えている以上、衝突そのものは珍しいことではなかった。
だが、今回ばかりは事情が違う。
変が起こった、その直後だった。
義隆が討たれたという報せが石見へ届くよりも早く、益田は兵を動かしてきたのである。
そして吉見家は、それを迎え撃った。
正頼と頼定が自ら兵を指揮し、どうにか益田勢を追い返したものの、正頼の胸には一つの疑念が残っていた。
「益田は以前から我らと土地を争ってきた」
「はい」
「故に、隙があれば攻めてくること自体は不思議ではない」
「しかし……」
「早すぎる」
正頼は低く呟いた。
その一言に、頼定も黙り込む。
「御屋形様が大寧寺で自害あそばされた。その報が石見まで届くより先に、益田は兵を動かしている」
正頼は歩みを緩めた。
もし単なる領土争いなら、益田は義隆の死を知ってから動けばよかった。
それでも十分に間に合う。
ところが、実際には時を同じくして兵を動かしている。
つまり、益田は何らかの形で、事が起こることをあらかじめ知っていた可能性が高い。
「つまり――」
頼定が言葉を選ぶように呟いた。
「以前から、何かを知っていた」
「そういうことじゃ」
正頼は足を止めた。
頭の中で、いくつもの事柄が繋がり始めていた。
陶は益田とかねてよりから親類。陶と益田。
そして、大寧寺。
まだ全てが明らかになったわけではない。正しいともわからない。
だが、点と点を結んでいけば、そこに一つの形が浮かび上がってくる。
「……陶は、御屋形様を討った」
「はい」
「そして益田は、その直後に我らを攻めた」
「はい」
「ならば、考えられることは一つだ」
正頼は、ゆっくりと頼定を振り返った。
「益田は、陶と通じている」
頼定の顔が強張った。
「まさか……」
「まだ断定はできぬ」
正頼はそう言った。
だが、その声音にはすでに迷いがなかった。
「それでも、益田が何の見返りもなく陶に味方するとは思えぬ。あやつは欲が深い」
「……見返り」
「ああ」
正頼は再び歩き始めた。
益田藤兼。
石見でも最大級の勢力を持つ国人である。長年にわたって吉見家と境を争い、ときには刃を交えてきた相手だ。
そんな益田が、陶の謀反に加担する。
それだけの危険を冒す以上、何か得るものがなければおかしい。
「益田が欲しがっているものは何だ?」
問いかけられ、頼定はしばし考えた。
「我らの領地……」
「そうだ」
正頼は静かに答えた。
「ならば、陶はそれを餌にしたのではないか」
頼定が息を呑む。
「吉見の領地をくれてやる。その代わりに、益田は陶に味方する」
「……」
「そう考えれば、すべて辻褄が合う」
正頼の脳裏に、これまで益田と争ってきた土地が浮かんだ。
山。
田畑。
川筋。
どれも一つ一つは決して大きなものではない。だが、それらを積み重ねれば吉見家にとって決して無視できない領地となる。
益田にとっても同じだ。
長年争ってきた土地をまとめて手に入れられるのであれば、陶に与するだけの理由になる。
そして陶にとっても都合がいい。
大内家の勢力が崩れれば、各地の国人たちは自らの生き残りを考えて動き始める。その中で、石見最大の有力国人である益田を味方につけることができれば、陶にとって大きな力となる。
しかも、その代償として差し出すのは、自分の領地ではない。
親義隆の吉見家の土地なのだ。
「殿」
「なんだ」
「それでは、陶は……」
「大内家を倒しただけではない」
正頼は頼定の言葉を遮った。
「御屋形様を討ったその先まで、すでに考えている」
その声には、静かな怒りが滲んでいた。
陶晴賢が何を考えているのか、まだ全ては分からない。
だが、一つだけはっきりしたことがある。
陶は大内家を滅ぼして終わるつもりではない。
旧大内領の国人たちを、自らの側へ取り込もうとしている。
そのためには、国人同士の利害さえ利用する。
そして今回、その最初の標的として狙われたのが吉見家だったのだ。
「……厄介な男だ」
正頼は低く呟いた。
その時、頼定がふと足を緩めた。
「殿」
「なんだ」
「それでは、若君をここに置くということは……」
正頼は答えなかった。
廊下の先には、興童子が休んでいる部屋がある。
大内義隆の遺児。
まだ幼い子供だ。
しかし、その身に背負っているものは、あまりにも大きい。
興童子がここにいることを陶が知れば、吉見家が大内家の遺児を匿っていると知れば、何らかの手を打ってくるだろう。
益田との戦いが始まったばかりの今、その危険は決して小さくない。
吉見家そのものが狙われる可能性もある。
それでも――。
「それでも、若君を追い出すわけにはいかぬ」
正頼は、迷うことなく言った。
「……殿」
「頼定、これはむしろ好機じゃ」
「好機?」
正頼はニヤリと続けた。
「家中には若君を煩わしく思う者もおろうが、益田と陶がつながっておる以上、我らの周りは敵だらけ」
正頼はそれに――と続けて喋る
「陶はおそらくかつて御屋形様の養子となっていた大友の小僧を擁立するはずじゃ」
「殿、それはつまり…」
「遺児の若君は我らの許にある。あらゆる準備を整え、挙兵いたせばこちらに靡くものも少なからずいよう。陶はあれで敵の多い男じゃ」
分の悪い賭けであったが勝ち筋がないわけではない。少なくとも、正頼にとってはそれだけで十分だった。
それに――
「大恩ある御屋形様を裏切り、あまつさえ偽りの当主を据えようとする陶が率いる大内家が波風立たないわけがない。驕り高ぶる者の時代は長くは続かん」
正頼は廊下の先へ目を向けた。
「参ろう」
「はっ」
二人は再び歩き始めた。
その先にいるのは、まだ何も知らない幼い少年だった。
故郷を、家族を失ったばかりの少年。
そして同時に、大内家の家督を継ぐに値する血を引く唯一の幼い遺児でもある。
正頼には分かっていた。
この少年を守るということは、ただ一人の甥を守ることではない。
これから始まる戦いの中で、吉見家自身の命運をも背負うことになる。
それでも、足を止める理由にはならなかった。
❖
「伯父上……」
部屋に入ってきた正頼の姿を見つけると、興童子は布団の上で身体を起こした。まだ本調子ではないのだろう。その動きはどこか頼りなく、それでも幼いなりに姿勢を正そうとしているのが分かった。
正頼はその姿を見た瞬間、胸の奥を強く締めつけられるような感覚を覚えた。
あまりにも小さい。
つい先日まで、この子は大内家の御曹司として山口の館で暮らしていたはずだった。父である義隆に守られ、兄や姉に囲まれて、何の疑いもなく明日が来ると思っていたに違いない。
それが今は、父も兄も姉も失い、一人だけが遠く離れた石見まで逃れてきている。
正頼はそんな現実を改めて突きつけられたような気がした。
「若君」
正頼は静かに膝をついた。主君の遺児を前にして、軽々しく声をかける気にはなれなかった。
「お身体の具合はいかがですか」
「……大丈夫です」
小さな声だった。
正頼は、その返事にわずかに眉を下げた。とても大丈夫には見えない。顔色もまだ優れず、長い逃避行で身体はすっかり疲れ切っている。それでも、この子は自分を心配させまいとしているのだろう。
「それは何よりでございます」
そう答えながら、正頼はできるだけ穏やかな表情を作った。
だが、うまく笑うことができなかった。
「伯父上」
「はい」
興童子が正頼を見上げる。
その目には、まだ幼子らしいあどけなさが残っていた。けれど、その奥には昨夜までにはなかった影がある。
「父上は……」
そこまで口にして、興童子は言葉を止めた。
俯いたまま、小さな手を膝の上で握り締める。
正頼には、その先に何を尋ねたいのか分かっていた。
だからこそ、すぐには答えられなかった。
御屋形様。
義隆。
自分にとっては義弟であり、長年仕えてきた主君でもあった男。その死を、いったいどんな言葉でこの子に伝えればよいのか。
すでに昨日、頼定から伝えられている。
それでも正頼自身、まだその事実を受け入れきれてはいなかった。
「……はい」
しばらくして、正頼は静かに口を開いた。
「御屋形様は、お亡くなりになりました」
興童子の肩が、小さく震えた。
それでも泣き声は上げなかった。
「兄上も……姉上も……」
「……はい」
正頼は目を伏せた。
それ以上、飾った言葉を口にすることはできなかった。
「本当に?」
「……残念ながら」
その返事を聞くと、興童子は再び俯いた。
部屋の中に、重い沈黙が落ちる。
興童子は泣かなかった。
ただ、膝の上に置いた小さな手を強く握り締めている。その指先が白くなるほど力を込めているのを見て、正頼はかえって胸が痛んだ。
泣くことすらできないほど、悲しいのかもしれない。
あるいは、まだ本当の意味で父や兄や姉が死んだということを理解できていないのかもしれない。
正頼には、どちらなのか判断できなかった。
ただ一つだけ分かることがある。
この子は、もう帰る場所を失ったのだ。
「若君」
正頼が静かに声をかける。
「……はい」
「ここは吉見の領地でございます」
興童子が顔を上げた。
その目には、ほんのわずかな戸惑いが残っている。
「……はい」
「どうか、ご安心ください」
その言葉を聞いて、興童子はしばらく正頼を見つめた。
そして、ためらうように尋ねる。
「……ここにいても、よろしいのですか?」
正頼は一瞬も迷わなかった。
「もちろんでございます」
「陶の人は……来ないのですか?」
その問いに、正頼はわずかに言葉を詰まらせた。
陶。
その名を口にするだけで、昨夜の出来事が脳裏をよぎる。
大寧寺で義隆が討たれたこと。
その直後に益田勢が吉見領へ攻め込んできたこと。
そして今、この吉見領には大内義隆の遺児がいる。
陶がこのことを知れば、何も起こらないとは考えにくい。
だが、それをこの幼い子に語る必要はなかった。
正頼は迷いを表に出さず、興童子の目をまっすぐに見た。
「私が、お守りいたします」
「……伯父上が?」
「はい」
正頼は静かに頷いた。
「この吉見正頼の名に懸けて」
その言葉を聞いた興童子は、しばらく何も言わなかった。
やがて、その小さな顔にほんのわずかに安堵の色が浮かぶ。
そして、静かに頷いた。
「……ありがとうございます、伯父上」
その一言を聞いた瞬間、正頼は目を伏せた。
御屋形様。
心の中で、静かに義隆へ語りかける。
どうか、ご安心くだされ。
大恩ある御屋形様に託されたこの子を、決して見捨てはいたしません。
たとえ、この先に何が待っていようとも、若君は我らがお守りいたしまする。
❖
その頃、屋敷の外では天狗が荷物をまとめていた。
背負子に山伏の装束、わずかな食料と水。それに刀。山中を歩くために必要なものだけを選び、余計なものは一つも持たない。長い逃避行を終えたばかりだというのに、その手際には迷いがなかった。
「もう行かれるのですか」
背後から声をかけられ、天狗は手を止めた。
振り返ると、下瀬頼定が少し離れたところに立っている。
「……ああ」
天狗は短く答え、まとめた荷物を確認した。
「若君を置いて?」
「ここなら大丈夫だろ」
「そう思われますか」
頼定の問いに、天狗は肩をすくめた。
「少なくとも、俺が連れて歩くよりは安全だ」
それは事実だった。
吉見家には兵がいる。屋敷には人もいる。何より、ここには興童子を守ろうとする者がいる。山伏一人が幼子を背負って山中を逃げ続けるより、はるかに安全な場所であることは間違いない。
頼定はしばらく黙って天狗を見ていた。
やがて、静かに口を開く。
「御屋形様から命を受けていたのでしょう?」
「ああ」
「若君をここまで連れてくることが?」
「ああ」
「ならば、役目は終わったと?」
「そういうことだ」
天狗は背負子を肩に担いだ。重さを確かめるように一度だけ身体を揺らし、それから何でもないことのように言った。
「俺は山伏だ。山伏には山伏の暮らしがある」
その言葉に、頼定は何も返さなかった。
天狗も、それ以上は何も言わない。
やがて荷物を整え終えると、そのまま屋敷の門へ向かって歩き出した。
門を抜ければ、その先には山がある。
そこへ戻ればいい。
それだけのことだった。
義隆から受けた命は果たした。
興童子も生きて吉見領まで送り届けた。あとは吉見家に任せればいい。自分がここに残る理由など、どこにもない。
天狗はそう考えていた。
いや。
そう考えることにしていた。
門を出て、山へ続く道を歩く。
これで終わりだ。
そう思った。
――その時だった。
「天狗!」
背後から、幼い声が響いた。
天狗の足が止まる。
ゆっくりと振り返ると、屋敷の廊下から興童子がこちらを見ていた。
まだ顔には昨日の悲しみが残っている。父も兄も姉も失ったことを、幼い心でどう受け止めているのか。それでも、天狗の姿を見つけると、懸命にこちらへ声をかけている。
「……どうした」
天狗が尋ねると、興童子は廊下から身を乗り出すようにして尋ねた。
「どこへ行くの?」
「山だ」
「山に……戻るの?」
「ああ」
興童子の顔が曇った。
しばらく何かを考えるように黙っていたが、やがて小さな声で尋ねる。
「……もう、会えないの?」
その問いに、天狗は答えられなかった。
ただの子供の言葉だ。
それなのに、妙に胸へ引っかかった。
天狗は興童子から視線を外し、山の方へ目を向けた。
「さあな」
ようやく出てきたのは、そんな曖昧な言葉だった。
「まあ、達者でいろ」
それだけ告げると、天狗は再び背を向けた。
興童子の姿を見ていると、どうにも調子が狂う。
だから、これ以上何も言わない方がいい。
そう思った。
天狗は歩き出した。
門から離れ、山へ向かう道を進んでいく。
一歩。
二歩。
さらに数歩。
だが、その足は不意に止まった。
「……ったく」
天狗は小さく吐き捨てるように呟いた。
空を見上げる。
雲の切れ間から差し込む陽の光が、妙に眩しく感じられた。
「なんで俺が気にしなきゃならねぇんだ」
誰に聞かせるわけでもなく、独り言のように呟く。
興童子をここまで送り届けた。
それで十分だ。
義隆から受けた命令は果たした。あの子が無事に吉見家へ辿り着いた以上、自分の役目は終わったはずだった。
それなのに、どうにも気に入らない。
あの小さな子供を屋敷に置いて、自分だけ山へ戻る。
それが、なぜか引っかかる。
天狗は眉をひそめた。
思えば、自分はすでに一度、この件に首を突っ込んでいる。
義隆から命を受けた。
陶に追われる興童子を連れて山を越えた。
追手を避け、食料を切らしながらも、何とかここまで辿り着いた。
そこまでしておいて、最後だけ「後は知らねぇ」と手を引く。
それがどうにも、自分の性に合わなかった。
「……」
しばらく考え込んだ後、天狗はふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そういや……」
義隆と初めて仕事の話をした時のことだった。
命を受けた時には、あまりに急いでたもんだから報酬について細かな話などしていなかった。そもそも、こんな大事になるとは思ってもいなかった。
そして――。
「俺、御屋形様からまだ恩賞もらってねぇし」
天狗は真顔で呟いた。
もちろん、返事をする者はいない。
しばらく沈黙した後、天狗は少しだけ眉を寄せた。
「……死んじまったけど」
自分で言っておきながら、妙な気分になる。
天狗は腕を組んだ。
「いや、だからって別に若から貰うって話じゃねぇぞ」
誰に弁解しているのか、自分でも分からない。
「そもそも、若にそんな金があるわけねぇし」
そう言ってから、天狗は小さく息を吐いた。
馬鹿馬鹿しい。
恩賞など、今さらどうでもいい。
義隆はもういない。
そのことを考えると、胸の奥に重いものが沈んだ。
天狗はしばらく黙っていたが、やがて屋敷の方へ振り返った。
興童子がまだこちらを見ている。
その姿を見た瞬間、天狗はわずかに目を細めた。
あの子を置いていけば、吉見家が守る。
それでいい。
本当なら、それでいいはずだった。
だが、一度足を突っ込んでしまった。
ならば、最後まで見届けるくらいはしてもいい。
天狗は小さくため息をついた。
「……まあ」
そして、背負子を担ぎ直す。
「一度首突っ込んじまったんだ」
興童子の方へ向かって、少しだけ口元を緩めた。
「最後まで見届けるくらいは、してやるか」
その言葉が聞こえたのか、興童子の顔がほんの少しだけ明るくなった。
天狗はそれを見て、また小さく息を吐いた。
まったく。
これでは山伏に戻るどころではない。
そう思いながらも、今度は山へ向かうためではなく、屋敷へ戻るために足を踏み出した。
おっきー:パッパや姉兄が死んじゃって病んで、おじたんに勇気づけられてちょっと元気になったり天狗が出ていきそうになって内心闇堕ちしそうになったりやっぱ戻るってなって元気になったり情緒がジェットコースター
正頼:御屋形様死んじゃってまぢやむ、ぴえん。おっきーは死んでも守る
下瀬頼定:
天狗:いつか城の一つでも貰わんと割に合わねぇなこれ…。
今宵はここまでにいたしとうございまする。
読んでいただきありがとうございました。