あと地の文の書き方を変えてみました
アンケートも用意しているのでよかったらお願いします。
第六回:津和野の冬
津和野に来てから二か月ほどの時が流れ、あれから周りの季節は大きく姿を変えていた。山口を出た頃にはまだ夏の暑さが残る時期だったというのに、今では朝晩になると吐く息が真っ白くなり、周囲の山の木々もすっかり葉を落としている。津和野の町をぐるりと囲む山々には早くも雪が積もり始め、朝になれば屋根や庭の隅が白く染まっているのが常だった。そして俺はというと、暖かい布団の中で丸くなりながら「……寒い」と一人呟いていた。
寒い。
本当に、心底寒い。
山口にも冬はあったし、雪だって降ったことがあれば朝晩に冷え込むことだって当然あった。けれど、ここ津和野の冬は何かが根本的に違っていた。身体の表面が寒いというよりは、布団の隙間から滑り込んできた冷気がそのまま身体の中まで侵入してくるような、芯から冷やされる感覚がするのだ。
俺は寒さに耐えかねて、布団を鼻の辺りまでぐっと引き上げた。外へ出たくないという気持ちが胸を満たしていく。今日は一日中、ここに潜んでいたとしても誰も文句は言わないのではないだろうか。別に何かしなければならない急ぎの用事があるわけでもないのだから、暖かい布団の中で一日を過ごしたところで罰は当たらないはずだ、と自分に都合よく言い聞かせる。
「若」
部屋の入口の方から、聞き慣れた声が聞こえてきた。俺は聞こえなかったことにしようと、そのままじっと身を潜めた。
「若」
もう一度、念を押すように声が重なる。それでも俺は黙ったまま動かなかった。
「起きろ」
「……嫌だ」
「起きろって」
「寒い」
「知るか」
容赦のない手つきで、布団の端が掴まれた。
「ちょっと待って」
「朝飯が冷めるぞ」
「……」
それは非常に困る。温かい朝飯は食べたいのだが、それでも布団から抜け出すのはやはり嫌だった。俺は布団を抱きしめるようにして、必死の抵抗を試みた。
「天狗」
「なんだ」
「朝飯、ここに持ってきて」
「嫌だ」
「なんで?」
「お前が出てくりゃ済む話だからだ」
「でも寒い」
「俺だって寒いんだよ」
「天狗は山で暮らしてたんでしょ?」
「だから何だ」
「寒さに強いんじゃないの?」
「強いのと、寒くないのは別だ」
「そうなの?」
「そうだ」
なるほど、確かに言われてみればその通りかもしれないと俺は納得した。しかし俺がそうやって感心している間に、天狗は容赦なく布団をさらに強く引っ張った。
「ほら、起きろ」
「嫌だ!」
「若!」
「寒い!」
「ったく……」
天狗が大きく溜め息を吐いた次の瞬間、俺は布団ごと冷たい畳の上へ引きずり出されてしまった。
「うわっ!」
畳から伝わる冷たさに思わず声を上げる。布団の中とのあまりの温度差に全身が縮み上がり、俺は慌てて引き剥がされた布団を抱き直した。
「返して!」
「着替えろ」
「寒い!」
「火鉢にあたれ」
「動くのが寒い!」
「もう知らん」
天狗は呆れたように首を振りながら、部屋の隅に置かれていた火鉢へ炭を足してくれた。しばらくすると、赤くなった炭から少しずつじんわりとした暖かさが部屋の中に広がってくる。俺はその前まで這うようにして移動し、かじかんだ両手をかざした。
「……あったかい」
「最初からそうしてろ」
「天狗」
「なんだ」
「ありがとう」
「礼を言うくらいなら着替えろ」
「うん」
暖かさに包まれ、俺はようやく重い腰を上げて布団から出ることができた。冬の朝は本当に嫌いだが、こうして火鉢にあたりながら天狗とくだらない会話を交わしている時間は、不思議と嫌いではなかった。
山口にいた頃も、朝の風景はいつもこんな感じだった。もちろん津和野ほど厳しい寒さではなかったけれど、俺が布団から出たがらずに女中に怒られることくらいは日常茶飯事だったのだ。あの頃と今で違うのは、ただ俺が生きている場所だけだった。
❖
朝餉の膳には、小さな湯気が立ち上る温かい汁物が置かれていた。俺は椀を両手で包み込むように持ち、冷え切っていた指先へ椀から伝わってくる温もりをじんわりと感じ取った。一口含むと、温かさが身体の隅々にまで染み渡っていくような気がした。
「……おいしい」
「そうか」
向かいに座っていた天狗が短く答える。ここへ来たばかりの頃は、何を食べても味なんてほとんど分からなかったものだ。お腹が空いているのかどうかさえ自分では判別がつかず、食べものを口に運んだところで、それを美味しいと感じるような心の余裕など微塵もなかった。
けれど、今では随分と違っている。朝になれば自然とお腹が空き、昼になればまた空腹を感じ、夜になると素直に眠気が訪れる。毎日同じような生活を繰り返しているうちに、失われていた人間の当たり前の感覚が少しずつ元に戻ってきたようだった。それが良いことなのかどうかはまだうまく分からないけれど、腹が減り、飯を美味いと思えることは、それだけで決して悪いことではないのだろう。
「若君」
突然声をかけられて顔を上げると、部屋の入口に下瀬頼定が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「おはようございます」
「おはよう、頼定殿」
「今朝もお元気そうで何よりでございます」
頼定はそう言って嬉しそうに目を細めると、俺の手元にある膳へ視線を落とした。
「……よく召し上がるようになられましたな」
「そう?」
「はい。こちらへ来られたばかりの頃とは、ずいぶん違います」
俺は自分の膳を見つめ返した。言われてみれば、確かにあの頃とは比べものにならないくらいしっかりと食べている。
「お腹が空くから」
「それは何よりでございます」
頼定が満足そうに頷くのを見て、俺の心の中にもどこか誇らしいような嬉しい気持ちが芽生えた。
「今日は何をなされるおつもりですか?」
「今日は……」
俺は少し腕を組んで考え込んだ。特にこれといった予定が決まっているわけではない。勉強をするわけでもなければ、大人たちから何か仕事を任されているわけでもなかった。だったら、せっかくの冬景色なのだから、冬の津和野の町を見て回るのも面白いかもしれないと思いついた。
「津和野を見て回りたい」
「津和野を?」
「うん」
「この寒い中を、ですか?」
「うん」
「……若君は、本当にお元気になられましたな」
頼定が思わずといった様子で苦笑いを漏らす。
「どうして?」
「先ほどまで布団から出たくないと仰っていた方とは思えませんので」
「それは……」
俺は横にいる天狗へと視線を向けた。天狗は知らん顔で無言のまま汁を飲んでいる。
「……天狗が起こしたから」
「俺のせいにするな」
「だってそうじゃん」
「俺は悪くねぇ」
「まあまあ」
不毛な押し問答をする俺たちを見て、頼定が楽しそうに笑った。
「では、津和野へお出かけになるのでしたら、誰かお供をつけましょう」
「天狗がいるよ」
「俺?」
急に名前を挙げられた天狗が、怪訝そうな顔でパッと顔を上げた。
「嫌だぞ」
「なんで?」
「寒いからだ」
「またそれ?」
「何度でも言う」
「でも、天狗のほうが津和野に詳しいでしょ?」
「……」
「俺、まだ全然知らないし」
「……ったく」
天狗はしばらく俺の顔を凝視していたが、やがて勝てないと悟ったように大きな息を吐き出した。
「分かったよ」
「やった!」
「ただし、勝手にどっかへ行くなよ」
「分かってる」
「本当か?」
「たぶん」
「お前なぁ……」
天狗が呆れ果てたように自分の頭をガシガシと掻いた。俺はその姿を見て思わず吹き出してしまった。そのやり取りは、何から何まで昔と全く変わっていなかった。
❖
屋敷の重厚な門をくぐり抜けると、鋭い冷気を含んだ風が遠慮なく頬を吹き抜けていった。
「寒っ!」
「だから言っただろ」
隣を歩く天狗が、どこか誇らしげに鼻で笑う。
「……でも、ちょっと楽しみ」
「何がそんなに楽しみなんだ」
「冬の津和野を見るの」
俺は首を巡らせて辺りの景色をじっくりと見回した。かつて過ごした山口の町とは、雰囲気がまるで異なっている。山々に囲まれた小さな町はどこか独特の静けさを湛えており、至る所で冬支度に追われる人々の姿が見受けられた。軒先には高く薪が積まれ、店先では寒さを吹き飛ばすように威勢のいい声を張り上げる商人の姿があり、子供たちは寒そうに身を縮めながらも元気に通りを走り回っている。
そんな生き生きとした町の日常を眺めていると、俺の胸の中に不思議な感情が込み上げてきた。ここは山口ではない。建物も違えば道幅も違い、すれ違う人々の顔も知らない者ばかりだ。それなのに、こうして町を歩いているとなぜか無性に懐かしい気持ちになるのだ。人がいて、店があり、子供たちが走り回り、家々から暖かな生活の音が漏れ聞こえてくる。その営み自体は、山口と何も変わりはなかった。
「ねえ、天狗」
「なんだ?」
「津和野って、昔からこんな感じなの?」
「俺もずっとここにいたわけじゃねぇから、昔のことまでは知らん。ただ、吉見の本城がある町だからな。それなりに人も集まる」
「そうなんだ」
「それに、山に囲まれてるから冬は雪が多い」
「やっぱり多いんだ」
「ああ」
「山口より?」
「比べるまでもねぇ」
「……嫌だなぁ」
「朝から言ってただろ」
天狗が可笑しそうに笑い、俺もつられて微笑んだ。こうして他愛もない会話を交わしながら見知らぬ町を歩いていると、ほんの少しだけ山口にいた頃の自分に戻れたような錯覚を覚える。あの頃も、俺はこうして天狗を半ば強引に引っ張り回していたものだ。寺社へ参詣したり、賑やかな通りを歩き回ったり、俺が行きたいと言い出せば天狗は嫌そうな顔をしつつも絶対に側を離れずにいてくれた。
本当に昔と同じだ。決定的に違うのは、俺自身が帰るべき場所を完全に失ってしまったということだけだった。
「……」
その残酷な現実に思い至ると、胸の奥がキリキリと痛み出す。俺は何も言わず、ただぐっと唇を噛み締めて前を見つめた。今は余計なことを考える必要はない。せっかく外へ出てきたのだから、今日はこの冬の津和野をしっかりと目に焼き付けることに集中しようと心に決めた。
❖
街道をしばらく歩いていると、道の脇に小さくて古びた露店が出ているのが目に入った。どうやら香ばしく焼いた餅を売っているらしい。白い息を吐きながら店先に立つ老人が、小さな七輪の炭火の上で網に載せた餅を丁寧に返している。周囲には食欲をそそる香ばしい醤油と米の匂いが漂っていた。
「……」
俺は思わず足を止め、じっとその網の上を見つめた。異変に気づいた天狗が振り返る。
「どうした?」
「お腹空いた」
「さっき朝飯を食ったばかりだろ」
「でも、いい匂いする」
「……」
天狗は店を見つめ、次いで俺の顔を見つめ、最後にもう一度店へと視線を往復させた。
「一つだけだぞ」
「やった!」
俺たちは弾んだ足取りで店先へと歩み寄った。
「おや」
老人が顔を上げ、俺たちの姿を物珍しそうに眺めた。
「若い山伏さんに……若様ですかな?」
「若様?」
予想外の呼びかけに、俺は少し驚いて目を丸くした。
「吉見様のところへ来られた大内家の若君でしょう?」
「あ……うん」
「これは失礼を」
老人は持っていた竹トングを置き、丁寧にお辞儀をした。
「いいよ」
俺は慌てて首を振った。形式ばった挨拶よりも、今は目の前で膨らんでいる餅のほうが遥かに気になっていたのだ。
「これ、一つください」
「はいはい」
手際よく網から上げられた熱々の焼き餅を受け取る。紙越しにもその暖かさがじんわりと手に伝わってきた。
「熱いから気をつけな」
「うん」
フーフーと何度も息を吹きかけて冷ましてから、端の方を大きくかじりついた。
「……おいしい」
「そうかい」
老人が皺の刻まれた顔を綻ばせ、嬉しそうに微笑んだ。
「津和野の冬は寒いでしょう」
「うん」
「慣れるまで大変でしょうな」
「まだ慣れない」
俺が素直に答えると、横で腕を組んでいた天狗がククッと笑い声を上げた。
「こいつは寒さに弱いんでね」
「天狗だって寒いって言ってたじゃん」
「俺は我慢してるんだ」
「俺だって我慢してるよ」
「布団から出なかった奴が何を言ってやがる」
「……」
俺たちのやり取りを見て、老人が声を上げて大らかに笑った。俺もなんだか可笑しくなって一緒に笑った。受け取った餅はとても温かく、身体の表面だけでなく、冷え切っていた心の奥底まで優しく温めてくれるような気がした。
❖
餅を食べ終えて屋敷への帰り道を歩いている最中、空からちらちらと白いものが降り始めてきた。最初はごく僅かな量だった。灰色の空から、一粒、二粒と舞い落ちてくる。
俺は足を止めて空を仰ぎ見た。
「雪だ」
「そうだな」
天狗も足を止め、一緒に空を見上げる。雪は次第にその数を増し、空一面から舞い降りてくるようになった。俺はそっと手を差し出し、掌を空へと向けた。ひらひらと舞い落ちた一片の雪が肌に触れ、一瞬で溶けて消えた。
「……冷たい」
「当たり前だ」
「もっと降るかな」
「どうだろうな」
「積もる?」
「この調子なら、少しは積もるかもな」
それを聞いて、俺の目はパッと輝いた。
「じゃあ雪だるま作れる?」
「勝手にしろ」
「天狗も手伝って」
「嫌だ」
「なんで!」
「寒いからだ」
「またそれ!」
俺は大声で笑った。天狗もやれやれといった表情で呆れ笑いを浮かべている。
雪は止むどころか少しずつ勢いを増していった。瞬く間に白い幕が町全体を包み込んでいく。民家の黒い屋根が白く染まり、石畳の道が覆われ、遠くの山々も幻想的な白銀の世界へと姿を変えていく。津和野の町全体が、まるで別の世界へ塗り替えられていくかのように見えた。俺は何度も後ろを振り返りながら歩を進めた。この美しくも寂しげな風景を、忘れないようにしっかりと記憶に刻み込んでおきたかった。
❖
屋敷へ戻る頃には、庭一面にすっかり雪が積もっていた。俺は回廊から庭の真っ白な景色を眺めながら、しばらく思案した。そして決意を固めて口を開いた。
「天狗」
「嫌だ」
「まだ何も言ってないよ」
「どうせ雪だるまか雪合戦だろ」
「……」
どうしてこの男はこうも俺の考えを見抜いてしまうのだろう。
「雪合戦しよう」
「嫌だ」
「一回だけ」
「嫌だ」
「じゃあ俺一人でやる」
「風邪を引くぞ」
「大丈夫」
「その言葉を使うな」
制止する声を振り切って、結局俺は庭の雪の中へと飛び出した。天狗も文句を言いながら、しっかりとついてきてくれた。俺は屈み込んで新鮮な雪をすくい取り、両手でぎゅっと固く握りしめた。綺麗で丸い雪玉が一つ完成した。
「できた!」
満足気にそれを眺めていると、目の前に呆れ顔の天狗が立ち塞がっていた。
「……何だ」
「これ、投げていい?」
「誰に?」
「天狗」
「やめろ」
俺はためらうことなくそれを投げつけた。雪玉は吸い込まれるように天狗の胸元へ命中した。ぽすっ、という軽い音が響く。
「……」
天狗が無言になる。俺も思わず息を飲んで黙り込んだ。気まずい静寂が流れた後、天狗がゆっくりと口を開いた。
「若」
「はい」
「覚悟しろ」
「え?」
直後、猛烈な勢いで雪玉が飛んできた。
「うわっ!」
俺は悲鳴を上げて慌ててその場を逃げ出した。
「天狗! ずるい!」
「先に投げたのはお前だ!」
「俺は子供だぞ!」
「俺には関係ねぇ!」
「大人げない!」
「うるせぇ!」
次々と投擲される雪玉を必死で避けながら、俺も雪を引っかき集めて投げ返した。しかし狙いは大きく外れ、虚しく雪の上に落ちる。また焦って作り、投げるが、やはり当たらない。天狗の投擲術は恐ろしいほど精度が高かった。
「なんでそんなに当たるんだよ!」
「お前が下手なんだ」
「そんなことない!」
「なら当ててみろ」
「やってやる!」
俺はムキになって必死に両手で雪玉を押し固めた。そして全身の力を込めて投げつける。今度は見事に天狗の右肩へヒットした。
「……当たった!」
「……」
「やった!」
「調子に乗るなよ」
「勝った!」
「勝ってねぇ」
「勝った!」
「……若」
「何?」
「もう一発いくぞ」
「え?」
容赦ない追撃の雪玉が飛んできて、俺は慌てて庭を駆け回った。
「うわぁ!」
いつしか寒さも忘れ、夢中になって庭中を走り回っていた。楽しげな笑い声が白銀の庭に響き渡る。その騒がしさを聞きつけたのか、母屋の廊下から頼定が顔を覗かせた。
「若君、何をなされているのですか」
「雪合戦!」
「なるほど」
「頼定殿もやろう!」
「私は遠慮しておきます」
「なんで?」
「若君と天狗殿の勢いに巻き込まれれば、私まで雪まみれになりそうですので」
「大丈夫だよ!」
「その言葉が一番信用できませんな」
頼定が可笑しそうに笑い、俺も走りながら笑った。その瞬間、天狗の投げた雪玉が俺の耳かすめ、すぐ横を通り過ぎて頼定のすぐ近くの柱に激突した。
「天狗!」
「悪い」
「危ないよ!」
「当たってねぇだろ」
「そういう問題じゃない!」
頼定が参ったというように苦笑し、それを見て俺たちの笑い声はさらに大きくなった。静まり返っていた屋敷の庭に、明るい歓声が満ちていく。
しばらく遊んだ後、俺は肩で息を切りながらその場の雪の上へとどっかり座り込んだ。着物は湿り、身体も手足も凍えるように冷たくなっていたが、心の中は不思議な熱気で満たされていた。こんなにもお腹の底から笑ったのは、一体いつ以来だろうか。そう思った瞬間、脳裏にふと山口の風景がよぎった。
山口でも、こうして天狗と一緒に無邪気に遊んだことがあった。町を練り歩き、父上に見つかって厳しく怒られ、兄上たちに慰められ、毎日がただ楽しかった。あの頃は、そんな当たり前の日常が永遠に続いていくものだと信疑いもしなかったのだ。明日も明後日も、父上がいて、兄上がいて、姉上がいる。この幸せな世界が壊れることなんて絶対にないのだと。
「……」
俺は掌の中の雪をぐっと強く握りしめた。冷たい雪が体温で溶け、指の隙間からポタポタとこぼれ落ちていく。
「若君?」
様子の変化に気づいた頼定が心配そうに声をかけてきた。
「……何でもない」
俺は慌てて笑顔を作り、顔を上げた。
「もう一回やろう」
「まだやるのか?」
天狗が呆れたような、けれどどこか優しい眼差しを向けてくる。
「うん」
「お前、元気だな」
「だって楽しいから」
「……そうかい」
天狗は小さく口元を緩め、再び雪を拾い上げた。
❖
吉見正頼は、静かに廊下に立ちながら庭の様子を見つめていた。しんしんと降り続く雪の中、興童子が天狗と一緒になって泥だらけならぬ雪だらけになって騒いでいる。その無邪気な姿を目にしながら、正頼の胸中には複雑な思いが渦巻いていた。
二か月前、ここ津和野へ逃げ延びてきたばかりの頃の興童子は、およそ子供らしい元気など微塵もない状態だった。尊敬する父を失い、頼れる兄を失い、優しかった姉をも失った。そして、生まれてからずっと育ってきた故郷・山口という帰るべき場所さえも一度に奪い去られたのだ。
まだ幼い子供がそれほどの過酷な運命を背負わされればどうなってしまうのか、想像するだけでも胸が締め付けられる思いだった。実際、初期の興童子は表情を失い、食事すら喉を通らず、声をかけても消え入りそうな声で頷くだけの影のような存在だった。
けれど、津和野で二か月の時が過ぎた。今では朝になれば元気に腹を空かせ、昼には屋敷の中を駆け回り、時には天狗を引っ張って町へ繰り出そうとするまでに回復した。今日も朝から寒さに文句を言いながら外へ出かけ、今は庭で弾けるような笑顔を見せている。
「……少しずつ、戻ってきたのでしょうな」
隣に並んだ頼定が、しみじみとした心地で呟いた。
「そうだな」
正頼は短く頷いた。しかし、彼の胸の奥底から重い不安の影が消え去ったわけではなかった。興童子が笑顔を取り戻したこと自体は、心から喜ばしい。この子には、まだ政治や戦から遠ざけられた子供としての時間が必要なのだから。
だが、正頼は視線を庭の向こう、津和野を囲む険しい山々の先へと向けた。この町の外には、複雑に渦巻く情勢が存在している。周防、長門、安芸、そしてこの石見。先日の変において大内義隆が非業の死を遂げたことで、これまで西国を保っていた絶対的な秩序は完全に崩壊してしまった。
実権を握った陶隆房は山口を制圧し、既に豊後から大友晴英を新たな主君・大内義長として迎え入れた。聞いた話によれば、義隆派であった筑前守護代・杉興運も討伐され、各地で義隆派の大内重臣や有力国人が粛清されていった。
しかし、その強引な変革に誰もが納得しているわけではない。すでに大内家の内部には修復不可能な深い亀裂が生まれ始めていた。そして、その巨大な動乱の渦中において、吉見家に身を寄せる興童子という存在は、あまりにも大きすぎる政治的意味を帯びてしまっているのだ。
正頼には痛いほど分かっていた。この子を守り抜くということは、単に一人の甥を庇護するという私的な問題にとどまらない。正統な大内家の血を引く生き残りを掲げるという、極めて危険な政治的決断を意味しているのだ。これから先、吉見家がどれほど苛烈な立場に立たされるのか、考え始めればきりがなかった。
だが、正頼の心はすでに固まっていた。興童子を守る。何があろうと、それだけは絶対に揺るがない。たとえこの先にどれほどの苦難と血の雨が待ち受けていようとも、自分はこの幼い命を命懸けで守り抜くと誓っていた。
「殿」
頼定が静かな声で問いかけてきた。
「何だ」
「……若君には、まだ何も知らせぬので?」
「良いのだ、今は」
正頼は再び庭の景色へと視線を戻した。興童子が必死の形相で天狗へ雪玉を投げつけ、天狗がそれを軽々と交わしている。それを見て頼定が声を上げて笑い、周囲で見守る家臣たちも温かな笑みを浮かべていた。
「今は、あれでよい」
正頼は誰に聞かせるでもなく静かに呟いた。
「若君はまだ幼い。今は、大人の醜い事情まで背負わせる必要はないのだ」
「……はい」
頼定が重々しく頷く。降り続く雪が、子供たちの無邪気な笑い声を優しく包み込むように、津和野の町を静かに白く染め上げていった。
❖
夕刻。陽が傾いても雪は止むことなく降り続いていた。部屋に戻った俺は、火鉢の真ん前に座り込んで暖を取っていた。
「疲れた……」
「自業自得だ」
天狗が呆れたように横から言う。
「天狗だって遊んでたじゃん」
「俺はお前を追いかけてただけだ」
「一緒だよ」
「違う」
俺は可笑しくなって笑った。火鉢から伝わる温もりが、疲れた身体に心地よく染み渡っていく。はしゃぎ回ったせいで全身に心地よい脱力感があったが、決して不快な疲れではなかった。
ふと障子を開けて外を見る。庭には一面の銀世界が広がり、昼間に俺たちが激しく走り回った足跡や、転んだ跡、雪玉が崩れた跡がくっきりと残っていた。しかし明日になれば、新しい雪がそれらを綺麗に覆い隠して消してしまうのだろう。
「……明日も雪かな?」
「さあな」
「降ったら、また遊ぼう」
「嫌だ」
「なんで?」
「今日十分遊んだだろ」
「じゃあ明日はもっと遊ぼう」
「話を聞け」
天狗が心底参ったというように笑い、俺も声を上げて笑った。こうしてくだらない言葉を交わしているだけで、胸の奥がじんわりと安心感で満たされていく。山口にいた頃もずっとそうだった。天狗が側にいてくれさえすれば、どんな大変なことが起きても最終的には何とかなるような気がしていたのだ。
本当に何とかなるのかどうかは分からない。けれど、天狗がいて、頼定がいて、伯父上である吉見正頼がいる。ここには俺を命懸けで守ろうとしてくれる暖かい人たちが揃っている。そう思えるだけで、恐怖や不安は少しずつ消えていった。
「天狗」
「なんだ?」
「俺、ここにいてもいいのかな」
口に出してから、自分でも妙な問いかけをしてしまったと思った。けれど天狗は茶化すことも笑うこともせず、しばらく沈黙した後に静かな声で答えてくれた。
「吉見殿が、ここにいていいって言ったんだろ」
「うん」
「なら、いいんじゃねぇか」
「……そっか」
「ああ」
俺は大きく頷いた。津和野へ来たばかりの頃は、この場所がたまらなく嫌だった。見知らぬ景色、見知らぬ人々。早く山口へ帰りたくてたまらなかった。父上の元へ、兄上や姉上のいる暖かな我が家へ帰りたかった。今でも山口を恋しく思う気持ちが消えたわけではない。
それでも、ここで過ごした二か月という時間の中で、俺の中に新しい日々が確かに作られていた。朝起きて飯を食べ、天狗と喋り、頼定と笑い、町に出て、雪が降れば戯れる。そんな当たり前の毎日が、少しずつ自分にとっての日常になりつつあった。
「……津和野も」
俺は窓の外の雪景色を見つめながらぽつりと呟いた。
「悪くないかも」
「そうかい」
天狗が優しく目を細める。
「でも、山口のほうが好き」
「そりゃそうだろ」
「うん」
俺は微笑んだ。山口が好きだった。あの歴史ある美しい町並みが、温かな我が家が、威厳ある父上が、優しかった兄上や姉上が、そして天狗と共に駆け抜けた思い出の時間が大好きだった。もう二度とあの頃には戻れない。それでも、いつの日か再びあの懐かしい町を踏みしめることができる日が来るのだろうか。
「天狗」
「なんだ?」
「いつか、山口へ帰れるかな」
天狗はすぐには答えず、ただ静かに俺を見つめていた。俺も答えを急かすことなく待った。やがて天狗は大きな手を伸ばすと、俺の頭の上にそっと乗せた。
「……そのうちな」
「本当?」
「ああ」
「約束?」
「約束だ」
「……うん」
俺は強く頷いた。頭の上に載せられた手は、驚くほど温かかった。外ではしんしんと雪が降り続いている。津和野の厳しい冬は、まだ始まったばかりだった。
❖
夜。津和野の町は深い静寂に包まれていた。昼間の賑わいが嘘のように消え去り、日が落ちると町全体が雪の底へと沈み込んだようになる。聞こえてくるのはヒュウヒュウと鳴る風の音と、たまにどこかの民家から聞こえるかすかな生活の音だけだった。
吉見家の居城・三本松城の一角もまた、大半の部屋の灯りが落とされていた。しかし、その中で一室だけ、行灯の光がぽつりと灯り続けている部屋があった。吉見正頼は、密書を一通手に取って険しい表情で見つめていた。
「……」
書状に書かれた文面は短いものだったが、内容は極めて深刻だった。周辺の国々で不審な動きを見せる勢力があること。大内家の旧臣たちが密かに連絡を取り合い、陶打倒の機を窺っていること。そして何より、石見へ逃れた大内家の遺児——すなわち興童子の存在について、尾ひれがついた噂が急速に広まりつつあること。
正頼はゆっくりと書状を畳んだ。
「……やはりか」
「殿」
控えの間から頼定が静かに姿を現した。
「興童子様のことが、少しずつ知られているようです」
「ああ」
「陶方が動く可能性もございます」
「分かっている」
正頼の返答に迷いは一切なかった。すでに覚悟は決まっているのだ。興童子を守る。ただそれだけだ。たとえ陶隆房がこの事実を突きつけ、吉見家に大軍を送り込んできたとしても。あるいは大内家の旧義隆派の家臣たちが興童子を担ぎ上げて野心に利用しようとしたとしても。
あの子はまだあまりにも幼い。今日も雪の中で無邪気に天狗と駆け回り、何も知らずに笑っていたのだ。正頼の脳裏に、昼間の興童子の弾けるような笑顔が浮かんだ。
「……今はまだ」
正頼は窓の外の暗闇へと視線を向けた。しんしんと降り積もる雪の中、庭には昼間あの子たちが遊んだ足跡がうっすらと残っている。それを見つめていると、今夜だけはその無邪気な世界を守ってやりたいと思えた。しかし正頼は知っていた。この嵐の前の静けさが、いつまでも続くわけがないということを。大内家を巡る骨肉の争いは、まだ始まったばかりなのだから。
❖
その夜、懐かしい夢を見た。
暖かな日差しが差し込む山口の町を歩いている夢だった。夕暮れ時の美しい街並み、遠くの寺から聞こえる鐘の音、どこかの家から漂ってくる夕飯の匂い。見慣れた景色の中を歩いていると、通りの向こうから父上が歩いてくるのが見えた。
「興童子」
「父上!」
俺は嬉しさのあまり駆け寄った。父上は穏やかな顔で笑っている。その隣には兄上もいて、少し後ろには優しく微笑む姉上の姿もあった。みんなが揃っている。俺は嬉しくて、伝えたいことが山ほどあって声を張ろうとした。
けれど、なぜか声が出ない。
それどころか、父上たちの姿が徐々に霞み、遠ざかっていく。
「待って!」
俺は必死で追いかけようとした。けれど足が地面に張り付いたように動かない。
「待ってよ!」
必死に手を伸ばしたが、誰の手にも届かなかった。
その瞬間。
「若」
現実の声が耳に届き、俺はガバッと目を覚ました。暗い部屋の中、火鉢の炭がわずかに赤い光を放っている。
「……天狗?」
「寝言を言ってたぞ」
「……そう」
俺は眠気と寂しさが混ざった目で目を擦った。やはり夢だったのだ。父上も、兄上も、姉上も、どこにもいない。
「……山口へ帰りたい」
誰にも聞こえないような小さな声で呟く。天狗は何も言わなかったが、そっと俺の方へ寄ってきてくれた。俺は布団を頭まで引き上げた。
窓の外では、今も雪が静かに降り続けている。津和野の町を白く覆い尽くしながら、どこまでも静かに。明日になればまた新しい朝が来り、お腹が空けば美味しく飯を食べ、天狗や頼定と話し、雪が残っていればまた遊ぶのだろう。そんな当たり前の毎日が続いていくはずだった。
この時の俺は、まだ何も知らなかった。津和野で過ごす穏やかな日々の裏側で、巨大な歴史の歯車が静かに、だが確かに動き始めていたことを。大内家を巡る苛烈な争いが、やがてこの石見の地まで呑み込んでいくことを。そして俺自身が、その巨大な嵐の中心へ巻き込まれていくということを。
ただ、この雪の夜だけは。
何も起こらなかった。
しんしんと雪が降る津和野の町で、俺は久しぶりに静かで穏やかな眠りについたのだった。
おっきー:雪!冬!楽しい!
天狗:雪玉はほとんど頭を狙っています。これは天魔の仕業…
頼定:ほほえま~
正頼:興童子が儂が守る!!
オリジナル、二次創作問わず、歴史系の小説を書くために色々調べてて楽しいことはいろんなことを知れることだと思ってます。
今回登場した雪合戦。日本最古の雪合戦は天文四年(1535年)の越後の長尾為景と上杉定憲の争いにおいて、小出郷でも雪合戦の形を借りた戦いが行われた、というのがあるそうです。
今宵はここまでにいたしとうございまする。
読んでいただきありがとうございました。
地の文について(9月2日まで)
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今まで(第一回~第五回)と同じように
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第六回~のと同じように
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