年の暮れに近づいてくる今日この頃ではあるが、津和野の冬はまだ終わりを見せていない。
朝になれば屋根や庭には薄っすらと雪が積もり、吐く息は相変わらず白い。日が昇れば雪は少しずつ溶けていくが、山の方へ目を向ければ、そこにはまだ白銀の景色が広がっていた。
俺はというと、そんな寒さにも少しずつ慣れ始めていた。もちろん寒いものは寒いし、朝になれば布団から出たくないうえ、火鉢の前から離れるのだって嫌だったが、それでも以前のように津和野という場所そのものに馴染めないという感覚はいつの間にか消えていた。朝起きて飯を食べ、天狗と話をして頼定殿に文字を教えてもらい、暇になれば町へ出るというそんな日々が、いつの間にか自分にとっての当たり前になっていたのだった。
今日も朝餉を終えた俺は、天狗と一緒に城内をゆっくりと歩いていた。
「ねえ、天狗」
ふと視界に入った光景に違和感を覚え、俺は隣を歩く連れに声をかけた。
「なんだ?」
天狗が億劫そうに返事を返してくる。
「あれ、何してるの?」
俺が指差した先では、数人の男たちが緊張した面持ちで武具を並べていた。刀や槍だけではなく弓や矢も置かれており、男たちは一つ一つ手に取って状態を確かめ、傷んでいるものがないか慎重に確認しているようだった。
「武具の手入れだ」
短く答える天狗の声を聞きながら、俺はその場に立ち止まったまましばらく彼らの手元を眺めていた。山口にいた頃にもこういう光景を見た記憶はあるし、大内家の館にも武士は大勢いて武具だって当然のように置かれていた。けれど、あの頃の俺にとって刀や槍や弓といったものは、あくまで武士という人々が使う道具という程度の認識しかなく、自分がそれを使うなんて先のこと過ぎて考えたこともなかった。
そもそも稽古もそれなりにすませて遊んでたし、父上や兄上がいて、頼もしい大内家の家臣たちが大勢いてくれたからこそ、何かあれば誰かが必ず守ってくれるのが当たり前の環境だったからあまり深く考えてなかった。
「最近、武具を触ってる人が多くない?」
胸の奥に湧いた疑問を何気なく尋ねてみる。
「そうか?」
天狗は一瞬だけ武具を手入れしている男たちへ目を向け、それからすぐに俺の方へと視線を戻した。
「うん」
はっきりと頷く俺に対し、天狗はそっけなく言葉を続けた。
「気のせいじゃねぇか」
「そうかな」
俺は首を傾げたものの、どうしても何となく納得しきれずにいた。武具を手入れしている者だけではなく、最近は城内を歩いていると家臣たちが何やら小声で深刻そうに話しているところを見かけることも増えていたからだ。俺が近づくと彼らは急に話を止め、俺がそこから離れるとまた何かをコソコソと話し始めるのだった。別に気にしていなかったと言えば嘘になるし、本当は少しだけ胸のざわつきを感じていたのだった。
❖
昼過ぎになり、俺は庭先で雪の残った冷たい地面を一人ぼんやりと眺めていた。先日の雪合戦で走り回った楽しさが残っているせいか、最近では雪を見ると何となくまた遊びたくなるような気持ちが湧いてくる。だが今日は天狗の姿が見当たらず、頼定も近くにいないため、一人で何をしようかと退屈に任せて考えていると、庭の向こうから風に乗って人の声が聞こえてきた。
「……そこです」
それは聞き覚えのある頼定の声だった。
「……」
気になった俺は声のする方へと吸い込まれるように歩いていった。
すると庭の一角で、頼定がキッと真剣な表情で弓を構えているのが目に入り、その姿は普段見せる穏やかな様子とは少し違っていた。
背筋をすっと伸ばして静かに呼吸を整えており、弓を持つ手にも無駄な力がまったく入っていないのが遠目からでも分かった。しばらくして静寂を切り裂くように弦を引き絞ると、たわんだ弓から解き放たれた矢が風を切る音を立てて真っ直ぐに飛んでいった。
少し離れた場所に置かれた的に向かって吸い込まれた矢は、乾いた音とともに深々と突き刺さった。
「……すごい」
感嘆のあまり思わず声が漏れ出ていた。
「若君」
声に気づいた頼定がこちらをゆっくりと振り向く。
「頼定殿、いつも長巻持ってたけど、弓も使えるんだ」
「武士のとして、弓馬の道に励むのは当然のことです」
「その……弓って、難しい?」
「簡単ではございませんな」
頼定はそう言って静かに弓を下ろすと、俺の目をまっすぐに見つめた。
「若君もお試しになりますか?」
「俺?」
「はい」
思いがけない提案に俺は少し驚いてしまった。
「やっていいの?」
「もちろんでございます」
頼定が手にしていた弓をこちらへ差し出してくるので、俺は恐る恐るその大きな木枠を受け取ってみた。両手で保持した弓は、思っていたよりもずっとズシリと手に重かった。
「……重い」
「まだ若君には少々大きいでしょうな」
「これ、どうやって使うの?」
「まずは構えからです」
そう言うと頼定が俺のすぐ横に立ち、手足の位置を一つ一つ丁寧に指導してくれた。指のかけ方や手の位置を直してくれ、足の開く向きや踏み込み方を細かく教えてくれるので、俺は言われた通りに必死で体を動かしてみた。
「こう?」
「はい。もう少し背筋を伸ばしてください」
「こう?」
「もう少し」
「……こう?」
「お見事です」
ようやく姿勢の合格をもらえて褒めてもらえたことで、俺は胸の奥が少し誇らしく嬉しくなった。
「じゃあ、矢をつがえてみましょう」
「うん」
頼定から細い矢を受け取り、教わった通りに弓につがえて弦を引き絞ろうと試みた。
「……っ」
しかし、弦は固く固着したようにぴくりとも動かない。
「重い……」
「無理に引かれてはいけません」
「でも……」
俺は全身の力を込めて弦を引っ張ろうとしたが、腕が激しく震えるばかりで弦はほとんど動いてくれなかった。
「……無理」
ついに諦めて弓を地面へと下ろすと、頼定が温かい眼差しで微笑みかけてきた。
「初めから上手くいく者などおりません」
「頼定殿は簡単そうにやってたのに」
「私と若君を比べてはいけません。私も若い頃には苦労いたしました」
「本当?」
「はい」
「じゃあ、俺もできるようになる?」
「努力なされば、きっと」
頼定の優しい言葉を聞いて、俺はもう一度手元の重い弓を見つめ直した。やっぱり大きくて重かったけれど、それでも自分もいつかこれを引き絞ってみたいという小さな憧れが芽生えていた。
❖
その日を境界にして、俺は頼定に毎日弓を教えてもらうようになった。最初は弦を引くことすらまともにできず、腕に無駄な力を入れすぎれば全体の姿勢が簡単に崩れてしまう有り様だった。
足の位置を気にすれば今度は弓を支える左手がグラグラと揺れてしまい、ようやく矢を解き放つところまで漕ぎ着けても的に当たらないどころか、的の近くへすら飛んでいかない日々が続いた。
「……また外れた」
「お気になさらず」
「でも、全然当たらない」
「まだ始めたばかりでございます」
「頼定殿は簡単そうにやってたのに」
「私と若君を比べてはいけません」
悔しがる俺に対して頼定は苦笑いを浮かべるばかりで、さらに俺が悔しそうな顔をしているのを横で見物していた天狗が、面白そうに声をあげて笑っていた。
「何笑ってるんだよ」
「いやなに。わりかしそつなくこなす若にも苦手なものがあるんだなと思ってな」
「天狗だって弓引けるの?」
「俺か?」
「うん」
「……」
天狗は一瞬だけ地面に置かれた弓に視線を落とし、それから面倒そうに俺を見つめ返した。
「俺は別に必要ねぇからな」
「逃げた」
「違ぇよ」
「じゃあやってみて」
「嫌だ」
「ほら」
「嫌だって言ってんだろ」
強張っていた俺の顔に笑いが戻り、天狗も呆れたように鼻で笑っていた。けれど、実際に弓を引いて的に向かい合っている間だけは、俺も笑ったりふざけたりする余裕は一切なかった。
何度繰り返しても全く上手くいかず指や腕が痛むばかりだったが、それでも「やめたい」と投げ出す気には不思議とならなかった。どうしてこんなに無我夢中で必死になっているのか自分でもよく分からなかったが、ただ弓を引き絞ろうと全神経を集中させている時だけは、頭の中に苦しい余計なことが何一つ浮かんでこないのだった。
父上のことも、兄上のことも、姉上のことも、そして燃えた山口の街のことも考えずに済み、ただ目の前にある丸い的だけを見つめていられる時間が、今の俺にとっては救いのように心地よかったのだった。
❖
ある日の夕刻、猛稽古を終えた俺は身体の重みに耐えかねて縁側に深く腰を下ろしていた。
何度も何度も愚直に弦を引き続けたせいで腕全体が重く痛んでおり、指先も赤く腫れ上がってジンジンと痺れていた。そこへ稽古を終えた頼定がやってきて、静かに俺の隣へと腰を下ろした。
「お疲れになりましたか?」
「ちょっと」
「今日はここまでにいたしましょう」
「うん」
それからしばらくの間、二人は言葉を交わさずに静寂の中に身を置いていた。庭にはまだ溶け残った白い雪が斑点のように残っており、冷たい風が吹き抜けるたびに木の枝に積もっていた雪がぱらぱらと音を立てて落ちていっていた。
「頼定殿」
「はい」
「最近、みんな忙しそうだよね」
俺の言葉を聞いた瞬間、頼定のいつもの穏やかな表情がほんの少しだけ硬く引き締まった。
「そうでしょうか」
「うん」
「何か気になることでも?」
「武具を手入れしてる人が増えたし、みんな小さい声で話してるし……俺が近づくと黙る」
頼定はすぐには返事をせず、じっと庭の雪を見つめながら沈黙を守っていた。やがて意を決したように重い口を開き、静かな声で言葉を紡いだ。
「この辺りも、いつ何が起きるか分からぬ情勢でございますから」
「……戦?」
その忌まわしい言葉を己の口から発した瞬間、胸の奥底が冷たい塊に押し潰されるようにざわついた。
「はい」
頼定は俺を子供扱いして誤魔化すことなく、はっきりとその事実を肯定した。
「戦になるの?」
「必ずそうなるとは限りません」
「でも、なるかもしれない?」
「……はい」
俺は視線を静まり返った庭へと向けた。積もった雪の向こうには厳めしい三本松城の建物が聳え立っており、周囲は気味が悪いほど静かだったが、その静寂の裏側では確実に不穏な何かが蠢いているのだと感じ取れた。
「大寧寺の時みたいに?」
頼定はその問いに対して言葉を返さず、ただ深く口を閉ざした。その重苦しい沈黙こそが俺にとっては十分すぎるほどの回答だった。俺は膝の上で小さな両手を強く握りしめた。あの惨劇の夜の出来事は、今でも暗闇の中で恐ろしい夢となって俺の眠りを脅かしていた。
真っ赤に燃え上がる建物と、夜空に響き渡る恐ろしい怒号、誰かに手首を強く引かれて夢中で夜道を走った記憶が鮮明に蘇る。
何が起こっているのかも分からないまま、ただひたすらに恐怖に怯え、逃げ回ることしかできなかった自分を思い出していた。
「……俺」
過去の恐怖と目の前の現実が交錯し、声が少しだけ震えてしまった。
「また、あんなことになるのかな」
「若君」
「もし戦になったら……」
俺は膝の上で震える自分の小さな手を見つめた。弓を持たせてもらっても未だにまともに弦を引くことすらできない不甲斐ない手だった。
「俺、また逃げるのかな」
頼定が悲しみを湛えた静かな瞳でこちらを見つめてくる。
「若君があの時、生きるために逃げられたことは恥ではございません」
「分かってる」
「それなら――」
「でも、嫌なんだ」
自分自身でも驚くほど、激しく強い声が口から飛び出していた。
「もう、何もできないのは嫌だ」
頼定は驚いたように黙って俺の顔を見つめている。俺は胸の中に溜まっていた熱い感情を抑えきれずに続けた。
「父上が死んだ時も、兄上が死んだ時も、姉上が死んだ時も……俺は何もできなかった。何も知らなかった」
抑えていた想いを言葉に変えると、胸の奥が引き裂かれるように痛んだ。
「逃げて、誰かに助けてもらって……それだけだった」
「それは――」
「だから」
俺は頼定の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「弓を教えて」
頼定は少し目を見開き、意外そうな顔をした。
「……本気でございますか?」
「うん」
「なぜ、弓なのでしょう」
尋ねられて俺は少しだけ頭を悩ませた。自分でもどうして刀や槍ではなく弓なのか、明確な理由はよく分からなかった。ただ、頼定が射て見せてくれた時に目の前にあったから、という単純な理由だったのかもしれなかった。けれど、自分の中にある一番大きな感情を探ってみると、一つの答えに辿り着いた。
「強くなりたいから」
それが今の俺にとって偽りのない一番近い答えだった。
「俺も、自分の身くらい自分で守れるようになりたい」
頼定殿は俺の瞳の奥にある覚悟を感じ取ったのか、静かに一度だけ頷いて見せた。
「承知いたしました」
❖
その日を境にして、弓の稽古の厳しさは一段と増していった。頼定は普段はとても優しい人だったが、弓を構えて稽古に向かい合う時だけは別人のように鋭い目つきになった。
「若君、腕ではなく背で引いてください」
「こう?」
「違います。肩に力が入りすぎています」
「……難しい」
「焦ってはいけません」
「うん」
同じ動作を何度も何度も愚直に繰り返した。弓を正しく構え、深く息を吸って呼吸を整え、全身の筋肉を使って弦を引き絞る。狙いを定めて解き放つが、矢は無情にも的を外れて地面に突き刺さる。汗を拭ってまた構え直し、また外れるという過程を繰り返したが、それでも稽古を重ねるうちに俺の体は少しずつ変化していった。
最初は引くことすら叶わなかった固い弦が、今ではどうにか自力で引き絞れるようになり、飛ばした矢も的のすぐ近くへと集まるようになってきた。目に見える成果はほんの少しだったが、確実に前へと進んでいる実感があった。
「上達なされましたな」
「本当?」
「はい」
「じゃあ、もうすぐ当たる?」
「それは若君次第でございます」
「じゃあ、当てる」
俺は固い決意とともに弓を構え直した。前方にある白い雪の景色の中に浮き上がる丸い的を見つめる。余計な雑念をすべて頭の中から追い出していく。父上のことも、失われた山口のことも、これから押し寄せるかもしれない戦の恐怖も、今は一切考えないようにした。
ただ一心に矢をあの中心へと飛ばすことだけを思考の全てで満たした。息を大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出す。そしてギリギリと音を立てて弦を引き絞った。腕が限界を迎えて細かく震えたが、それでも決して諦めずに弓を保持し続けた。
頼定に叩き込まれた通りに体幹を安定させ、狙いを一点に定めて指を離した。解き放たれた矢が空気を切り裂いて真っ直ぐに飛んでいき、やがてカッという乾いた心地よい音が響き渡った。
「……」
俺は信じられない思いで目を見開いた。飛ばした矢は見事に的に深々と刺さっていたのだった。中心からは程遠い端の方だったけれど、それでも確かに当たっていた。
「……当たった」
自分の手で成し遂げた事実が信じられなかった。
「当たった!」
俺は弓を持ったまま飛び上がるように頼定のもとに駆け寄った。
「頼定殿! 当たった!」
「はい」
頼定は温かい眼差しで穏やかに微笑んでくれていた。
「お見事です、若君」
「やった!」
歓喜の声が口から溢れ出た。たった一度、偶然にも近い形で的に当たっただけだったが、それでも胸の奥底から熱い情熱が込み上げてくるのを感じていた。
生きてきて初めて、誰かの力ではなく自分自身の力で何かを成し遂げたという確かな手応えを得た瞬間だった。
「……もう一回」
「今日は十分でございます」
「でも!」
「続ければ、腕を痛めます」
「……分かった」
俺は渋々といった様子で弓を地面に下ろしたものの、的に刺さっている一本の矢から目を離すことができず何度も振り返った。夕闇の中にぽつんと刺さる小さな一本の矢が、今の俺にとっては自分の未来を照らすとても大きな光のように思えたのだった。
❖
その日の夕方、稽古を終えた俺は頼定と並んで薄暗くなり始めた廊下を静かに歩いていた。
「頼定殿」
「はい」
「俺、もっと弓が上手くなりたい」
「きっと上達なされます」
「うん」
しばらく廊下を進んでから、俺は胸の中にずっと渦巻いていた問いを投げかけてみた。
「……頼定殿」
「何でしょう」
「俺が強くなったら、何ができるの?」
頼定殿はふっと足を止め、俺の方を振り返った。
「何が、とは?」
「戦になった時」
俺も足を止めて頼定殿を見上げた。
「弓が上手くなったら、戦える?」
頼定はすぐには答えを出さず、静かに言葉を選ぶようにしていた。
「弓が上手いだけで、戦に勝てるわけではございません」
「そうなの?」
「戦には多くの人がおります。武器を持つ者もいれば、兵を率いる者もいる。兵糧を用意する者もいれば、国を治める者もおります」
「……難しい」
「はい。戦とは、それほど簡単なものではございません」
頼定の重みのある言葉を、俺は黙って噛み締めながら聞いていた。
「ですが」
頼定が言葉を繋ぐ。
「自らの身を守る術を持つことは、決して無駄ではございません」
「……そっか」
俺は理解を示すように深く頷いた。そして、前々から気になっていた一番根底にある疑問を尋ねてみることにした。
「頼定殿」
「はい」
「俺って、大内家の人間なんだよね?」
その問いを聞いた瞬間、頼定の表情がわずかに強張るのを俺は見逃さなかった。
「……はい」
「父上が大内家の当主だったんだよね」
「はい」
「じゃあ、今の大内家はどうなってるの?」
今度は明確な答えがすぐに返ってこなかった。
「山口には、もう俺の家はないの?」
「……」
「父上のいたところには、別の人がいるの?」
頼定はしばらく悲しそうな目で沈黙を守っていたが、やがて絞り出すような静かな声で答えた。
「今の山口は、以前とは大きく変わっております」
「……そう」
「ですが、若君」
「うん」
「それは若君が必ずしも背負うべきことではございません」
優しさから出たはずのその言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥で何かが強く引っかかったのを感じた。
「……どうして?」
「若君はまだお若いからです」
「でも、俺が大内家の人間なら……」
俺はそこで言葉を詰まらせた。幼い自分には上手く言葉に表せないもどかしさがあったが、頭の中にははっきりとした熱い想いが芽生えていた。父上が先祖が代々命を懸けて守っていた家、父上や兄上、姉上。顔を合わせることは少なかったけど他の兄弟とともに笑い合って暮らしていた思い出の場所、それが今や誰か知らない者の手によって奪われているという事実を考えると、胸にじくじくと行きどころない痛みが走るのだ。
「……俺が取り戻すべきじゃ…ないのかな…?」
頼定殿は驚きのあまり目を見開いた。口に出した俺自身も自分の言葉に少し驚いていたが、「取り戻す」という言葉が妙に強く自分の心に突き刺さっていた。
「……若君」
「ご、ごめん。変なこと言った――」
「いいえ」
頼定はそう答えてくれたものの、その顔には悲しさと複雑な感情が混ざり合った複雑な表情が浮かんでいた。
「若君、その心意気はご立派です。ただ……今は、まだお考えになる必要はございません」
「でも」
俺は静まり返った庭の先にある空を見つめた。
「父上の家なんでしょ?」
「……はい」
「だったら」
俺は小さな拳を強く強く握りしめた。
「誰かに取られたままは嫌だ」
それは亡き家族を奪われた怒りだったのかもしれないし、理不尽に対する深い悲しみだったのかもしれない。
あるいは、ただ父親を恋しがる子供の我儘に過ぎなかったのかもしれない。自分でもその感情の正体はよく分からなかったけれど、ただ一つ言えるのは「山口へ帰りたい」という以前の消極的な想いとは全く違う何かに変化していたことだった。
誰かに守られてただ帰るのではなく、いつか自分の足で立ってあの場所へ戻り、自分の手で大切なものを取り戻したいという強い意志が、幼い胸の奥底で小さな産声を上げていたのだった。
❖
その夜、吉見正頼の執務部屋へ頼定が一人静かに訪れていた。
「若君が、弓を?」
「はい」
頼定は昼間に起きた若君とのやり取りや、弓の稽古での出来事を詳細に報告した。正頼は口を開かずにじっとその報告に耳を傾けていた。
「若君は、戦に備えたいと」
「……左様です」
「そうか」
正頼はしばらくの間、深い沈黙の中に身を置いた。行灯の揺らめく明かりが、重苦しい室内の静寂をぼんやりと照らし出していた。
「何か、申しておったか」
「……大内家について尋ねられました」
その言葉に正頼の厳しい眉がわずかに跳ね上がった。
「どこまで話した」
「今の山口が以前とは違うことだけを」
「それで?」
「若君は……」
頼定は一瞬だけ言葉を濁し、逡巡したものの、主君へ事実をありのまま伝えるべく意を決した。
「『大内家を自分が取り戻すべきではないのか』と」
部屋の中の空気がピーンと緊張で張りつめた。正頼は静かに両目を閉じた。
「……そうか」
「殿」
「まだ幼いと思っていたが、子供は聡いな」
正頼は深く息を吐き出し、ゆっくりと目を開けた。
「若君も、少しずつ己の立場を理解し始めているのだな」
「はい」
「本来ならば、まだ何も背負わせたくはない」
「私も同じ思いです」
正頼は苦しげに頷いた。
「だが……」
言葉を区切った正頼は、視線を暗い窓の外へと向けた。津和野の夜空は深く静まり返っており、積もった雪が闇の中でかすかに白く浮かび上がっていた。その白銀の山の向こうには周防と長門の国々があり、そこにはかつて大内家が誇った栄華の都・山口が存在している。
かつて大内義隆が長く治めていた豊かな土地は、今や謀反を起こした陶隆房が実権を握り、新たな御屋形を傀儡として迎えようとしていた。しかし、各地には未だに義隆を慕い、陶の反逆を許さない武士たちも数多く潜んでいる。このまま平穏に時が過ぎ去るはずがないことは、正頼自身が誰よりも重々理解していた。
「若君が自ら弓を取り始めたということは……」
「はい」
「いずれ、若君自身が己の運命と向き合う日が来るということかもしれんな」
「……」
頼定はかけるべき言葉を見つけられず、ただ黙って頭を下げた。正頼もそれ以上は語ろうとはしなかった。今はまだ、幼い子供が抱いた小さく儚い決意に過ぎないのかもしれない。
ただ一本の矢が的に刺さっただけのことであり、それで戦に勝てるわけでもなければ、国が動くわけでもない。けれど、激動の戦乱の中で奇跡的に生き残った幼子が、誰に強制されるでもなく己の意思で武器を手にしたという事実を、吉見家の当主として軽く片付けることなど決してできなかったのだった。
❖
翌朝、俺は誰に起こされるでもなく、いつもよりずっと早く目を覚ました。外はまだ薄暗く、部屋の火鉢の炭もわずかに赤い光を残して冷え込み始めていた。俺は防寒着を羽織って布団から起き上がると、昨日初めて的に矢が刺さった瞬間の光景を鮮明に思い返した。
的に矢が刺さった時の手応えと、胸が熱くなるようなあの嬉しさを思い出し、俺は力強く拳を握りしめた。
「……もっと上手くなろう」
まだまだ自分の力は足りていない。昨日は奇跡的に一本当たっただけだったが、それでも練習を重ねればもっと上手くなれるはずだった。自分自身の身を守れるくらいに、そして誰かを守れるくらいに強くなり、いつか山口へ胸を張って帰れるようになるために。
俺は寒さに身を縮めながら、遠い空に思いを馳せた。山口へ帰るということは、ただ懐かしい場所に逃げ帰ることではない。父上がいた場所へ、兄上や姉上が生きていたあの温かい大内家へ、自分たちの手で辿り着くことなのだ。
「……取り戻す」
誰もいない静かな部屋で、小さな声で言葉を漏らした。まだ幼い俺には、具体的に何をすればいいのかなどさっぱり分からなかった。兵をどうやって集めるのかも、戦でどう戦うのかも、国をどう治めるのかも知る由もない。けれど、いつか自分が大人になった時には、誰かに頼るのではなく自分自身の力で動かなければならないという予感だけは、確かなリアリティを持って胸に存在していた。
「若」
背後から突然声をかけられた。
「……天狗?」
「朝っぱらから何をぶつぶつ言ってやがる」
「弓」
「弓?」
「もっと上手くなりたい」
「そうかい」
「頼定殿に今日も教えてもらう」
「好きにしろ」
「うん」
冷たい空気の中で俺が笑うと、天狗も呆れたように少しだけ口元を緩めた。部屋を出て外の廊下へと出ると、冬の早朝の痛いほどの冷気が容赦なく頬を撫でていった。
庭の隅には昨日と変わらず雪が残っていたが、見上げた空は少しずつ明けてきていた。今日もきっと厳しい寒さになるだろうけれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
これから先の未来で自分がどうなっていくのか、また悲しい戦に巻き込まれて逃げ惑うことになるのかは分からなかったけれど、それでも今度は何もできないまま指をくわえて泣いているだけの自分ではいたくなかった。
その未来を変えるために、俺は今日も弓を引くのだ。
頼定(天才肌Ver.):若君!弓はこう、グゥーっとやってパッってすればあとはズドンッ!!ですよ!!
おっきー:いやわかるか
正頼:若君…大きくなって…(´;ω;`)
天狗:今回影薄かった人賞受賞者
連載が始まってすでに第七回だというのに姫武将の一人も出てこなければ織田信奈の野望原作に登場するキャラが一人も登場しない…。
今のところ登場した女性キャラはすでに故人…。
できるだけ早く織田信奈原作に登場したキャラを登場させられるよう頑張りますのでよろしくお願いします。
今宵はここまでにいたしとうございまする。
読んでいただきありがとうございました。
地の文について(9月2日まで)
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今まで(第一回~第五回)と同じように
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第六回~のと同じように
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うるせぇ!毎日投稿継続しろ!