冬の寒さは、年が明けても厳しいものであったが、厳しいながらも少しずつ和らぎ始めていた。朝になれば吐く息はまだ白く、庭の隅には溶け残った雪がところどころに残っている。それでも、少し前まで身体の芯まで凍りつくようだった寒さは幾分か和らぎ、昼間になれば日差しの当たる場所から雪がゆっくりと溶け始めるようになっていた。長かった津和野の冬も、どうやら終わりへ向かっているらしい。
そんな季節の変化とは関係なく、俺は今日も朝から庭に立っていた。冷たい空気の中で姿勢を整え、意を決して弓を構える。両足をしっかりと地面につけ、背筋を伸ばし、教えられた通りに弦を引き絞った。最初の頃は、弦を引くことすらできなかった。
どれだけ力を込めても腕が震えるばかりで、弦はほんの少ししか動かなかったのだが、それが今ではどうにか胸元まで引き寄せることができるようになっている。
もちろん、まだまだ頼定のようにはいかない。弓を構えたまま長く狙っていると腕が疲れてくるし、少し気を抜けば肩に力が入ってしまうのだった。それでも以前に比べればずっと楽に弓を扱えるようになっており、確実に自身の成長を感じていた。
「……っ」
すぐ横から頼定の静かな声が聞こえる。
「そのまま、焦らずに」
息を整えながら答えた。
「うん」
俺は小さく返事をして、目の前の的を見つめた。白い雪の残る庭の向こうに、丸い的がポツリと立っている。その中心にある黒い印へじっと狙いを定めた。
息を吸い、ゆっくりと吐き出し、そして矢を放った。ヒュッ、と乾いた音を立てながら矢が風を切って飛んでいく。次の瞬間、的から少し外れた場所に矢が勢いよく突き刺さった。
「……また外れた」
落胆する俺に対し、指導に立つ男は変わらぬ温かさで応じる。
「以前よりも、随分と良くなっております」
納得がいかない様子で言葉を返した。
「でも、真ん中じゃないよ」
相手は焦る必要はないのだと諭すように言った。
「初めから真ん中へ当てられる者など、そう多くはございません」
頼定はそう言って、的に刺さった矢を見ながら穏やかに微笑んだ。
「一歩ずつでよいのです。昨日より今日、今日より明日と、少しずつ上達なさればよろしい」
その温かい言葉に素直に応じる。
「……うん」
俺は弓を下ろしながら深く頷いた。頼定から弓を教わるようになってから、かなりの時間が経っていた。毎日のように弓を引いているうちに、最初はただ重いだけだった弓にも少しずつ慣れてきた。腕も前より強くなったし、狙いを定める時に身体がふらつくことも少なくなっている。
ほんの少しずつではあるけれど、確かに上手くなっていることが心底嬉しかった。
弓を引くということは、誰かに助けてもらうことができない厳しさがある。自分で弓を持ち、自分で弦を引き、自分で狙いを定め、自分で矢を放つしかないのだ。だからこそ、一本の矢が前よりも的へ近づくだけで、自分が少しだけ強くなったような気がしていた。
「もう一本、いい?」
師の頼もしさに意気込んで尋ねた。
「もちろんでございます」
頼定が頷き、俺が再び弓を構えようとしたその時だった。
「若」
庭の端から聞き覚えのある声が聞こえてきた。振り向くと、天狗が腕を組んでこちらをニヤニヤと見つめている。
「朝っぱらからよくやるな」
茶化すような姿勢に対抗して言い返す。
「だって、上手くなりたいから」
「そのうち腕が取れるぞ」
「取れないよ!」
「どうだかな」
「取れたら困るよ!」
俺がむっとして言い返すと、天狗は実に可笑しそうに大声で笑った。それを見ていた頼定も小さく口元を緩めているのに気づき、俺は少しだけ恥ずかしくなったのだった。
「笑わないでよ」
頼定はすまなそうに姿勢を正した。
「申し訳ございません」
頼定はそう言いながらも、まだ目の奥で笑っていた。こんなやり取りをすることも、いつの間にか当たり前の風景になっていた。
津和野へ逃げてきたばかりの頃は、何もかもが怖くて仕方がなかった。父上が死んだことも、兄上や姉上がいなくなったことも、山口を離れてしまったことも、これから自分がどうなるのかも何一つ分からなかったのだ。
けれど今は、こうして静かに弓を引いている。朝になれば天狗とくだらない話をして、頼定に弓を教えてもらう日々が続いていた。それが、いつの間にか俺の穏やかな日常になっていた。――けれど、俺の胸の奥には、以前とは違う新しい感情が芽生え始めていたのだった。
大内家を取り戻したい。それは以前に頼定へと思わず口にした言葉だった。あの時は、自分でもどうしてそんなことを言ったのかよく分かっていなかった。父上の家だから、兄上や姉上が生きていた場所だから、誰かに奪われたままなのが嫌だったから、たぶんそれだけの理由だったのだ。
でも最近は、弓を引きながら時々深い思考に沈む。
――本当に大内家を取り戻したいのなら、俺は一体何をすればいいのだろうか――
弓が上手くなればいい、強くなればいい、最初はただ単純にそう思っていたのだった。けれど、本当にそれだけでいいのだろうかという疑問が湧き上がる。その答えを、俺はまだ知らなかったのだった。
❖
その日の厳しい稽古が終わった後、片付けをしながら俺は気になっていた疑問を尋ねてみることにした。
「頼定殿」
「はい」
「頼定殿って、どうして弓が上手なの?」
頼定は手にしていた矢を丁寧に整えながら、少し考えるような表情を浮かべた。
「武士として必要であったからでしょう」
「武士だから?」
「はい」
「戦うため?」
「それもございます」
頼定はそう答えてから、俺の方へ視線を向けた。
「武士にとって弓は、敵を討つための武器であると同時に、自らの身を守るための術でもございます」
実戦での能力についてさらに問いかける。
「じゃあ、弓が上手だったら、戦では強いの?」
「弓の腕が優れていることは、決して悪いことではございません」
そこで頼定は少し言葉を止め、慎重に言葉を選ぶように続きを喋る。
「ですが、弓が上手いだけで戦に勝てるわけではございません」
思いがけない答えに首を傾げた。
「……そうなの?」
「はい」
その答えは、以前にも聞いたことがあったような気がしていた。けれど、俺はどうしてもその先が気になって仕方がなかったのだった。
「じゃあ、何が必要なの?」
頼定はすぐには答えず、静寂の漂う庭を見渡してから、ゆっくりと口を開いた。
「いろいろありますが、戦そのものに勝つにはという一点で申し上げれば人です」
「人?」
「はい。兵がおり、兵を率いる者がおります。兵糧を用意する者もいれば、武具を整える者もいる。城を守る者もいれば、領地を治める者もおります」
あまりの要素の多さに驚きを隠せない。
「……いっぱいだね」
「ええ、いっぱいです」
俺は少し頭を整理しようと考えを巡らせた。
「じゃあ、将って大変なんだね」
頼定は温かい眼差しで微笑んだ。
「大変でございます」
「頼定殿も将なの?」
「私は一人の武将に過ぎませぬ」
「でも、戦では人を率いるんでしょ?」
「時には」
「みんな、頼定殿の言うことを聞くの?」
「聞いていただけるよう、努めております」
当然の疑問として問いかけてみた。
「……命令すればいいんじゃないの?」
俺がそう尋ねると、頼定は少しだけ目を細めて寂しそうにした。
「命令だけで人が動くのであれば、戦は随分と簡単なものでございましょうな」
意外な現実に考え込まざるを得ない。
「違うの?」
「人は、命じられたからといって、必ず命を懸けてくれるわけではございません」
その重い言葉を聞いて、俺はただ黙り込むしかなかった。
「では、どうすればいいの?」
「信じていただくのです」
「信じてもらう?」
「はい」
頼定は静かだが芯のある強い声で話を続けた。
「この方のためならば戦える。この方についていきたい。この方ならば自分たちを守ってくださる。そう思っていただけるような人間になることが、将には必要なのです」
その境地の果てしない高さに吐息が漏れた。
「……難しいね」
「左様でございます」
頼定は穏やかに頷いた。
「敵を討つことよりも、難しいことかもしれませぬ」
俺は手元の古びた弓をじっと見つめた。
弓なら、何度も練習すれば確実に上手くなる。何度も何度も引いていれば、腕もそれに応じて強くなっていく。でも、人から信じてもらうというのは、弓のように何回練習すれば上手くなるという単純なものではないのだ。
俺には、それがとてつもなく難しく思えてならなかった。
「……頼定殿は、どうやって人に信じてもらったの?」
「私の場合は、ただ己の務めを果たしてきただけにございます」
「務め?」
「はい」
頼定はそう答えると、どこか遠い過去を思い出すかのように目を泳がせた。
「人に信じてもらうには、まず己が人を裏切らぬことです」
その言葉は、俺の幼い胸の奥に妙に深く残ったのだった。
❖
頼定は静かな足取りで庭を歩きながら、さらに話を続けてくれた。
「戦というものは、ただ敵と味方が向かい合って刀を振るうだけではございません。敵がどこにいるのか。何を狙っているのか。どこから攻めてくるのか。それを常に考えねばなりません」
俺の戦の捉え方に新たな視点が加わる。
「敵のことを考えるの?」
「はい」
「でも、敵なんだから倒せばいいんじゃないの?」
「敵もまた、こちらを倒そうと考えております」
「あ……」
言われてみれば、まさにその通りであった。自分たちだけが一方的に考えているわけではないのだ。相手もまたこちらを鋭い眼光で見つめ、勝とうと必死に策を巡らせている。
「ならば、こちらも相手の考えを読まねばなりません」
「どうやって?」
「それは、その時々によって違います」
頼定はそう言って、遠くの景色へと視線を向けた。
「地形を見る。敵の動きを見る。味方の動きを見る。そして、敵がこちらをどう見ているのかを多角的に考えるのです」
その果てしない思考の作業に唸り声を上げた。
「……いっぱい考えるんだね」
「戦とは、そういうものでございます」
俺は少しだけ頭を抱えて唸った。弓を引くことだけでもこれほど難しいのに、その上で敵の思考まで読まなければならないとは。
「頼定殿も、そういうことをしたの?」
「ええ」
「どんな戦?」
俺が興味津々で尋ねると、頼定はしばらく沈黙を守っていたが、やがて静かな声で語り始めた。
「以前、益田の軍勢が吉見領へ攻め寄せてきたことがございました」
「益田?益田って石見国人の?」
「ご存じでしたか、その通りにございます」
「敵だったの?」
「今も、我らの敵でございます」
頼定は言った。石見国最大の勢力を誇る有力国人である益田氏と吉見氏はかねてから争いを繰り返しており、特に現当主の益田藤兼と俺の義伯父である吉見正頼は犬猿の仲ともいえる間柄であると。そして、藤兼はせんだっての大寧寺の変で陶に与同した謀反人の一人でもあること。
そして、頼定は続けた。
「敵が能登呂山城へ攻め寄せ。陣を置いた時、こちらが正面から無謀にぶつかるだけが戦ではありませんでした」
「どうしたの?」
「夜を待ちました」
「夜?」
「敵が昼の戦を想定しているならば、夜に動くこともできるのです」
その鮮やかな展開に、俺は思わず目を輝かせた。
「夜に攻めたの?」
「はい」
「すごい!」
思わず感動の声を上げてしまった。暗い夜陰に紛れて敵の陣へ忍び寄り、相手が気づかないうちに奇襲をかけるなんて、まるで物語に出てくる忍者みたいで最高に格好いいと思ってしまったのだ。
「それなら、強い敵にも勝てる?」
「勝てることもございます」
「じゃあ、夜に攻めればいいんじゃない?」
勢いに任せてそう口にすると、頼定は困ったように苦笑した。
「それほど簡単ではございません」
「どうして?」
「夜襲をすること自体が大切なのではないからです」
「……?」
「敵が何を考えているのかを深く考え、その隙を突く。そこが最も重要なところでございます」
俺は黙って頼定の顔を見つめ返した。ただ闇雲に夜に攻めればいいわけではないのだ。相手がどう動き、何を考えているのかを観察し、その裏をかくことこそが本質だという。戦というものの姿が、少しだけ今までと違って見えてきたような気がした。
「じゃあ、戦っている時って、ずっと考えてるの?」
「はい」
「疲れそう」
「疲れますな」
頼定が楽しそうに笑い、俺も思わず一緒になって笑ってしまった。
❖
だが、頼定の教えはそれだけで終わるような生半可なものではなかった。
「そして、敵は必ずしも戦場だけで戦うわけではございません」
「どういうこと?」
「敵がこちらの兵を減らす方法は、刀や槍といった武具だけではないということでございます」
物理的な攻撃以外の戦術に疑問を抱く。
「……どうやって?」
「人をこちらから引き離すのです」
不可解な言葉に首を傾げざるを得なかった。
「人?」
「地侍や領民へ声をかけることもございます。こちらに味方するより、敵へ味方した方が得だと思わせるのです」
「そんなことできるの?」
「できます」
頼定の声が、少しだけ重く低くなった。
「こちらの家臣へ甘い言葉をかける。領民へ都合のよい約束をする。『こちらへ味方すれば助ける』と密かに囁くのです」
「……戦ってないのに?」
「それも立派な戦でございます」
俺はあまりの衝撃に言葉を失い、完全に黙り込んだ。刀も槍も使わずに、言葉一つで味方を減らしてしまうなんて、そんな恐ろしい戦い方があるなんて想像もしていなかったのだ。
「じゃあ、どうすればいいの?」
「普段から、人に信じていただくのです」
またしても、あの言葉へと行き着くのだった。
「敵がどれほど甘い言葉をかけても、吉見家についていきたいと思っていただけるなら、簡単には人は離れませぬ」
「……戦ってない時から?」
「はい」
頼定は深く静かに頷いた。
「だからこそ、領主や将には、戦のない平和に見える時にも果たすべき重い役目がございます」
「人を守ること?」
「それも大切な一つでございます」
俺は腕を組んでじっくりと考え込んだ。今まで俺は、将というものは戦場で圧倒的な強さを見せて敵をなぎ倒す人だと思い込んでいたのだ。強い武器を持ち、強い兵を従えて、敵をやっつける格好いい存在こそが将なのだと。
しかし、頼定が語る将の姿はそれとは大きく異なっていた。戦っていない平時であっても人を守り、人の声に耳を傾け、人から深く信じてもらい、敵の裏の裏まで考え抜く。それら全てを一身に背負う者こそが、本当の将なのだと理解し始めていた。
「……大変だね」
「はい」
頼定は苦笑いを浮かべた。
「大変でございます」
❖
太陽が頭上に上り、昼を過ぎた頃、俺は一人で城の中をあてもなく歩いていた。頼定から聞かされた重厚な話が頭から離れず、ぐるぐると渦巻いていたのだ。
人を信じること、人に信じてもらうこと、そして将としての本当の役目。そんな難しい課題について考えながら廊下を進んでいると、少し先から荒々しく言い争う声が聞こえてきた。
「だから、これ以上は渡せぬ!」
「こちらも必要なのだ!」
思わず足を止め、事態を確かめるべく声のする方へそっと近づいてみる。そこには城で働いている男と、山口から着の身着のままで逃れてきたと思われる男が、互いに危険な眼差しで睨み合っていた。二人とも般若のような険しい顔つきをしている。
「どうしたの?」
俺が思い切って声をかけると、二人はハッと息を呑んでこちらを振り返った。
「若君……」
「何を喧嘩してるの?」
二人は気まずそうに顔を見合わせた後、城の男が諦めたように口を開いた。
「薪のことでございます」
「薪?」
「はい」
冬の寒さが極めて厳しい津和野の地では、薪は文字通り命繋ぎの品であった。暖を取るためにも必要だし、日々の飯を炊くためにも絶対に欠かせない。ところが、俺や天狗のように山口のある周防・長門から避難してきた人々が急増したことで、想定以上に薪が不足する事態に陥っていたのだった。
「我らとて寒さを凌がねばならぬ」
「分かっている。だが、城の備えにも限りがあるのだ」
「こちらだって好きで使っているわけではない!」
「こちらだって好きで減らしているわけではない!」
再び二人の声が高らかに荒立ち、激しくぶつかり合う。俺は二人の気迫に押され、少し怖くなってしまった。どう解決すればいいのか、さっぱり分からない。昨日までの俺なら、きっと何も考えずに間に入って適当な裁定を下そうとしていたかもしれない。
でも、今日の俺は違っていた。頼定の教えが、頭の中に鮮明に浮かんできたのだ。
――まず、人の話を聞くこと。
俺は二人の苦しそうな顔を交互に見つめ直した。
「……二人とも、寒いんだよね?」
「はい」
「でも、薪は足りない?」
「左様でございます」
「どっちも必要なんだ」
二人は口を揃えて黙って頷いたのを見て、俺は一生懸命に頭を働かせた。半分ずつ分け合えばいいのではないかと最初は思ったが、それではどちらにとっても量が少なすぎてあともう少しは続くであろう冬の寒さを乗り越えられない。では薪を増やせばいいのかと考えたが、積もる雪の中で簡単に集められるはずもなかった。俺の頭では、どうにも判断がつかなかったのだ。
「……うーん」
腕を組んで唸っていると、二人から視線を感じて顔を上げた。
「若君?」
「……ごめん」
「何がでございますか?」
「俺、どうすればいいのか分からない」
素直に己の無力を認めると、二人は顔を見合わせた。その時、廊下の奥から重々しい足音が近づいてきた。
「若君」
振り返ると、城の奉行方の重鎮である家臣が穏やかな表情で歩いてきていた。
「これは私どもにお任せくださいませ」
「でも……」
「若君が双方のお話を聞いてくださったこと、それだけでもありがたいことでございます」
その言葉に包まれ、俺はホッと胸を撫で下ろした。
「でも、どうやって決めるの?」
「城の備蓄がどれほど残っているのか、今後どれほどの薪が必要になるのか、それらを総合的に考えねばなりませぬ」
俺は思わず黙り込んだ。薪を配分するという目の前の問題一つをとっても、現状の把握と将来の予測、双方の事情といったあまりにも多くの要素を計算しなければならないのだ。今の自分には、あまりにも遠い世界の話に思えた。
それとともに見識不足にも関わらず首を突っ込もうとした自分を恥じた。
「若君、どうかご心配なさらず」
家臣は深々と頭を下げて言った。
「我らにできることは、我らがいたします」
「……うん」
俺は素直に頷いた。二人の男も表情を和らげ、俺に向かって深々と頭を下げる。
「若君、ありがとうございました」
感謝の言葉を残して立ち去る彼らの背中を、俺はただぼんやりと見送り続けた。自分は具体的な解決策など何も提示できなかったのに、なぜお礼を言われたのだろうかという不思議な気持ちが残っていた。
❖
「若君」
背後から静かな足取りで頼定が近づいてきた。
「……頼定殿」
「何やら、難しい顔をされておりますな」
「俺、何もできなかった」
「そうでしょうか」
「だって、どうすればいいのか分からなかった」
俺は自分の不甲斐なさに小さく俯いてしまった。
「将なら、ちゃんと答えを出さないといけないんじゃないの?」
頼定はすぐには返事をせず、静かに俺の隣へと並び立った。
「若君」
「うん」
「将とて、何もかも一人で決めるものではございません」
「……え?」
「先ほどのようなことも、必要であれば人に尋ねればよいのです」
「でも、それじゃあ将じゃないんじゃない?」
「なぜでしょう?」
「だって、将はみんなを率いるんでしょ?」
「はい」
「だったら、自分で全部できないと……」
途切れ途切れに話す俺に対し、頼定は慈愛に満ちた笑顔を向けたのだった。
「それは、将というものを少し誤解されておりますな」
「……そうなの?」
「はい」
頼定は中庭の美しい景色へ視線を送った。
「将とは、己一人で何もかも成し遂げる者ではございません」
「じゃあ、何をするの?」
「誰に任せるべきかを考えるのです」
新しい将の概念に、俺は耳を傾けた。
「自分より詳しい者がおれば、その者に尋ねる。自分より優れた者がおれば、その力を借りる。そして最後に、自らが決めるのです」
「……それも将の仕事?」
「はい」
その言葉によって、自分がいかに狭い視野で物事を考えていたかを痛感させられた。ただ腕力を鍛えて強くなることだけが全てではないのだと。
「頼定殿も?」
「私もでございます」
「頼定殿でも、人に頼るの?」
「もちろん」
頼定は隠すことなく苦笑してみせた。
「私一人で戦をすることなどできませぬ」
「……そっか」
――できそうと思ったことは頼定に内緒にしておこう――
そんなことを内心に抱きながら、俺は頼定に耳を傾ける。
「兵がおり、兵を率いる者がおり、兵糧を用意する者がおり、情報を集める者がおります。皆が己の役目を果たして、初めて戦が成り立つのです」
俺は深く、何度も頷いた。一人で全てを抱え込む必要はないのだと知り、肩の荷が少し軽くなったような気がした。
「じゃあ、頼定殿も誰かを頼るんだね」
「はい」
「ちょっと意外」
「そうでしょうか」
「うん」
俺が笑顔を見せると、頼定も優しく微笑み返してくれた。
❖
「では、もう一つお話ししましょう」
頼定はそう言うと、背筋を正して表情を引き締めた。
「先ほどの能登呂山城の戦いについてです」
「うん」
「夜に敵陣へ仕掛けることができたのも、私一人の力ではございません」
「そうなの?」
「当然でございます」
頼定は謙虚な姿勢で続けた。
「敵の様子を探る者がおりました。道を知る者がおりました。知識と経験を持った者がおり、そして私とともに命を懸けて動く兵がおりました」
「……みんなでやったんだ」
「はい」
「頼定殿が一人で考えて、一人で夜襲したんじゃないんだね」
「そのようなことをすれば、ただの無謀な者でございます」
頼定の言葉には確かな重みがあった。
「戦場では、一人の力などたかが知れております」
「……そうなんだ」
「だからこそ、己以外の者の力を正しく知ることが重要なのです」
「人の力を?」
「はい」
頼定は俺の目をまっすぐに見つめ返した。
「弓が得意な者には弓を任せる。足の速い者には使いを任せる。地形に詳しい者には道を尋ねる。それぞれの者に、それぞれの適した役目がございます」
「じゃあ、将はみんなのことを知らないといけない?」
「はい」
「どんな人なのか」
「はい」
「何が得意なのか」
「はい」
「何が苦手なのかも?」
「もちろん」
その果てしない観察の必要性に、俺は思わず頭を抱えてしまった。
「……やっぱり難しい」
頼定は愉快そうに笑った。
「それは否定いたしませぬ」
「弓の方が簡単だよ」
「弓も十分難しゅうございますが」
「でも、弓は練習すればいいもん」
「人を知るには、もっと長い時が必要でしょうな」
俺は未来を見据えるようにじっくりと考えた。確かに人を知るには長い時間がかかるだろう。けれど、幸いなことに俺にはまだ時間があるのだ。焦らずに、少しずつ周りの人々を知っていけばいいのだと自分に言い聞かせたのだった。
❖
夕方になり、俺は城の最も高い場所へ上り、津和野の町を一望していた。山々に囲まれた割と大きな町のあちこちの家々から夕飯の煙が立ち上っている。
人々が行き交い、それぞれの営みを一生懸命に続けているのが見えた。この町に生きる一人一人が、お互いに支え合って生きているのだ。
「……大内家を取り戻すなら」
風に乗せるように、小さな呟きが漏れた。
「俺一人じゃ、できることなんてたかが知れてる…」
握りしめた弓の感触を確かめる。頭の中には頼定の教えてくれた言葉が、絶え間なく巡っていた。兵が必要で、家臣が必要で、もっと多くの味方が必要で、そして何より自分を心から信じてくれる存在が必要不可欠なのだ。
大内家を取り戻したいという思いは、もはや昔のような子供っぽい単純なものではなくなっていた。ただ故郷の山口へ帰りたいというだけではない。父上が守ってきた場所を、兄上や姉上が生きていた誇りある場所を取り戻し、いつか自分の足で胸を張って帰りたいのだ。そのためには、自分が人として、将として成長しなければならないのだと痛感していた。
「……どうしたら、そんな人になれるんだろう」
沈みゆく夕日を見つめても、明確な答えは出なかった。いまの幼い俺には、まだ何も分からないのが当然だった。
けれど、一つだけはっきりと悟ったことがある。強くなるというのは、単に弓を上手く射られるようになることではないのだ。人の話に耳を傾け、人というものを深いレベルで理解し、時には素直に他人の力を借り、自分自身も相手から信頼される人間になること。それら全てを体現することこそが、本当の将の姿なのだと。
❖
翌朝、冷たい空気が満ちる庭に出ると、頼定がすでに弓を準備して待ってくれていた。
「おはようございます、若君」
「おはよう、頼定殿」
「すこし、すっきりされた顔になりましたな」
「そうかな」
差し出された弓を受け取る。手に伝わるずっしりとした重みが、以前よりも少しだけ軽く感じられたのは気のせいではないはずだった。自分の腕と心が、確実に鍛えられてきているのだ。
「今日は、何を意識して射られますかな?」
頼定からの問いかけに、俺は少し考えてから答えた。
「……強くなること」
「それは結構」
「でも、弓だけじゃなくて」
頼定が意外そうに俺を見つめる。
「人のことも、ちゃんと考えられるようになりたい」
頼定は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに最高に温かい笑顔へと変わった。
「お立派なお考えでございます」
「そうかな」
「はい」
俺は少し照れくさくなりながら笑みを返した。そして、教え込まれた通りの美しいフォームで弓を構える。足を開き、背筋をピンと伸ばし、矢をつがえて弦を力強く引き絞った。以前の自分とは比べものにならないほど、滑らかに引くことができるようになっている。
的の中心にある黒い点をじっと見据える。けれど今日の俺は、ただ的を狙うことだけを考えているわけではなかった。
いつか自分を信じて戦ってくれる人々が現れた時、その人たちを死なせず守り抜けるような自分になりたい。自分の背中を追いかけてくれる人がいるなら、その信頼に全責任を持って応えられる人間になりたいのだ。
「……っ」
全身の力を集中させ、弦を限界まで引き絞ってから一気に解き放った。矢は鋭い風切り音を立てて一直線に飛んでいき、的に力強く突き刺さった。昨日よりも明らかに中心に近い場所へ着弾していた。
「お見事です、若君」
感嘆の混じった頼定の声が響く。
「……まだまだだね」
「はい」
「もっと上手くならないと」
「その心意気でございます」
俺は弓を強く握り直した。今はまだ、この小さな弓一本しか持たない頼りない子供に過ぎない。けれど、いつか本当に大内家を取り戻すための戦いに身を投じる時が来たなら、その時には誰よりも強くて深い人間になっていたいのだ。
空を見上げると、冬の厳しい寒さの中に、微かな春の兆しが感じられた。遠くの山々には未だ白い雪が残っているが、その下では着実に新しい生命が芽吹き始めている。
俺もまた、この厳しくも温かい津和野の地で、いつか大きな花を咲かせるために静かに牙を研ぐ芽なのかもしれなかった。
今はまだ小さな芽に過ぎない。けれど、いつか大きくなれるように。いつか自分の手で未来を切り拓くために、俺はもう一度、未来を見据えて力強く弓を構えたのだった。
❖
そして季節は巡り、山陰山陽を大波乱に巻き込む嵐が京の幕府によりもたらされた。
その嵐をもたらした報せとは――
出雲守護・尼子晴久が八ヶ国守護職に補任されたという報せであった。
おっきー:おっきーは将の心得(入門)を習得した!
頼定:天狗殿ではカバーできないところをお教えします(ところで“カバー”ってなんです?)
天狗:最近出番少ない人
正頼:ついに今回セリフもなかった人
晴久:尼子動きます
次回は幕間!山陰山陽に嵐を呼ぶ男・尼子晴久!
原作に登場したあの姉妹もちょっとだけ登場!
お楽しみに!
今宵はここまでにいたしとうございまする。
読んでいただきありがとうございました。
地の文について(9月2日まで)
-
今まで(第一回~第五回)と同じように
-
第六回~のと同じように
-
うるせぇ!毎日投稿継続しろ!