――数日後。
蝶屋敷。
「……ふぅ」
胡蝶カナエは縁側に座り、庭を眺めていた。
まだ本調子ではない。
童磨との戦いで受けた傷も、肺に残った冷気の影響も完全には消えていなかった。
それでも。
「こうして朝を迎えられるだけで……幸せですね」
柔らかな風が吹く。
その隣では、しのぶが薬を整理していた。
「お姉ちゃん、まだ無理は禁物ですよ」
「分かっています」
「本当に?」
「本当です」
「……怪しいですね」
「ふふ」
二人が笑い合う。
その時だった。
「失礼します!」
屋敷の外から、隊士の声が響いた。
「胡蝶様!」
しのぶが振り返る。
「何でしょう?」
「鎹鴉から連絡です! 負傷した隊士が一名、こちらへ運ばれてきます!」
「分かりました」
しのぶが立ち上がる。
「お姉ちゃんはここにいてください」
「はい」
だが。
カナエはふと、遠くから聞こえてくる足音に気づいた。
「……?」
妙な気配だった。
鬼ではない。
しかし。
ただの隊士とも少し違う。
「誰でしょうね」
しのぶと共に玄関へ向かう。
しばらくして。
「こちらです!」
隊士たちが、一人の少年を担いで運んできた。
額には包帯。
身体中にも傷。
そして、その背中には――。
「……!」
しのぶの表情が変わる。
少年が背負っている木箱。
その中から、微かな鬼の気配がした。
「しのぶ」
カナエが静かに呼ぶ。
「分かっています」
しのぶは少年へ近づく。
「あなた」
少年がゆっくり目を開ける。
「……ここは……?」
「蝶屋敷です」
しのぶが尋ねる。
「名前は?」
少年は苦しそうに答えた。
「竈門……炭治郎……です」
「竈門……」
カナエがその名を繰り返す。
炭治郎はゆっくり身体を起こそうとする。
「妹……禰豆子は……」
その瞬間。
木箱の中から。
「……」
小さな物音。
しのぶが箱を見る。
「妹さん、ですか?」
「はい……」
炭治郎は必死に答える。
「妹は……鬼になりました」
その言葉に。
周囲の隊士たちがざわめく。
「鬼……?」
「この少年、鬼を連れているのか?」
「まさか……!」
炭治郎は箱を抱きしめる。
「違います!」
「禰豆子は……人を食べません!」
「鬼が人を食べない?」
隊士の一人が刀へ手を伸ばす。
「そんな話、信じられるか!」
「やめてください!」
炭治郎が立ち上がる。
「禰豆子は俺の妹です!」
「鬼であっても――」
「人を傷つけさせない!」
その必死な声。
カナエは黙って少年を見つめていた。
「……」
その目には恐怖がない。
妹を守ろうとする強い意志だけがある。
「しのぶ」
「はい」
「その子の妹を、確認しましょう」
「お姉ちゃん?」
「少なくとも」
カナエは穏やかに言う。
「この子の話を聞く価値はあります」
炭治郎が顔を上げる。
「……!」
その時。
「何やってるんだ、お前ら」
低い声が響いた。
「……!」
全員が振り返る。
玄関に立っていたのは――。
鳴柱・獪岳。
「獪岳さん!」
カナエが声を上げる。
「帰ってきたんですね!」
「ああ」
獪岳は頷く。
「少し報告があってな」
そして。
炭治郎を見る。
「……そいつは?」
「竈門炭治郎さんです」
しのぶが答える。
「妹さんを鬼にされたそうです」
「……鬼?」
獪岳の視線が木箱へ移る。
炭治郎が身構える。
「……」
獪岳は何も言わない。
ただ、じっと箱を見つめている。
やがて。
「出してみろ」
「……!」
炭治郎が驚く。
「いいんですか?」
「俺がいいと言ったわけじゃない」
獪岳は淡々と言う。
「だが、話を聞く前から斬るほど俺は短気じゃない」
しのぶが小さく笑う。
「それ、十分短気ですよ」
「うるさい」
「ふふ」
炭治郎は恐る恐る箱を開ける。
「禰豆子……」
中から少女が顔を出す。
竹を咥えた鬼。
しかし。
獪岳の姿を見ても襲いかかることはない。
「……」
獪岳は目を細める。
「本当に人を襲わないのか?」
炭治郎は答える。
「はい!」
「なぜ分かる?」
「禰豆子は……俺の妹だからです」
「理由になっていない」
「それでも……!」
炭治郎は拳を握る。
「俺は信じています!」
獪岳は黙る。
そして。
「……そうか」
意外にも、それ以上追及しなかった。
「お前」
「はい!」
「強くなりたいか?」
「……!」
炭治郎は驚く。
「はい!」
即答だった。
「妹を人間に戻すために」
「鬼を斬る覚悟はあるか?」
「あります」
「自分が殺される覚悟は?」
「……」
炭治郎は一瞬だけ黙る。
そして。
「あります」
獪岳は炭治郎の目を見る。
真っ直ぐな目だった。
「……なら、生き残れ」
「え?」
「強くなりたければ、生き残れ」
獪岳は背を向ける。
「死んだら何も守れない」
炭治郎はその言葉を胸に刻む。
「……はい!」
その時。
カナエが微笑んだ。
「獪岳さん」
「何だ」
「少し昔のあなたに似ていますね」
「……俺が?」
「ええ」
カナエは炭治郎を見る。
「誰かを守るために、強くなろうとしているところが」
獪岳は少しだけ目を伏せる。
「……そうかもな」
炭治郎は二人を見つめる。
「あなたは……」
「鳴柱・獪岳だ」
「鳴柱……!」
炭治郎の目が輝く。
「柱なんですか!」
「そうだ」
「凄い……!」
「別に凄くない」
「でも!」
炭治郎は勢いよく頭を下げた。
「俺も強くなります!」
「そうか」
獪岳は短く答える。
そして。
「なら、まずは呼吸を覚えろ」
「呼吸……?」
「お前が使っている水の呼吸」
「……!」
「基礎から叩き直せ」
炭治郎は驚いた。
「俺の呼吸を知っているんですか?」
「見れば分かる」
獪岳は刀の柄に手を置く。
「鬼殺隊の剣士なら、自分の呼吸くらい極めろ」
「はい!」
その声に。
禰豆子が小さく顔を上げる。
獪岳は彼女を見る。
「……」
鬼。
それでも。
人を襲わない鬼。
そして。
その鬼を命懸けで守る少年。
「……面白い兄妹だな」
獪岳が呟く。
「獪岳さん?」
「何でもない」
カナエが微笑む。
「この子たちも、きっと変わりますね」
しのぶも頷く。
「ええ」
そして。
蝶屋敷に集まった三人の柱と一人の少年。
その出会いは。
後に鬼殺隊の歴史を大きく変えることになる。
竈門炭治郎。
鬼となった妹・禰豆子を守るために戦う少年。
そして。
そんな兄妹を救おうとする、鳴柱・獪岳。
「炭治郎」
獪岳が振り返る。
「はい!」
「強くなれ」
「はい!」
「そして――」
一瞬だけ、獪岳は笑った。
「妹を守り抜け」
「……!」
炭治郎は力強く頷く。
「必ず!」
こうして。
鳴柱・獪岳と竈門炭治郎。
二人の剣士の物語が――。
静かに始まった。