夜。
寺の中は、すっかり静まり返っていた。
子供たちは眠っている。
悲鳴嶼行冥も、いつものように静かに座禅を組んでいる。
そして――。
「…………」
獪岳は一人、縁側に座っていた。
月を見上げる。
数日前までなら、この時間が嫌いだった。
夜になると、どうしても思い出してしまう。
原作の未来。
寺。
鬼。
子供たちの死。
悲鳴嶼への疑念。
そして――自分自身の裏切り。
「……俺は」
獪岳は拳を握った。
「本当に、あんな未来になるのか?」
答えは分かっている。
なる。
何もしなければ。
自分が何も変えなければ。
原作の獪岳は、寺を出る。
そして鬼殺隊へ。
善逸と出会い。
やがて――。
鬼になる。
「……ふざけんな」
低く呟く。
「そんな未来、絶対に認めねぇ」
だが。
問題は未来だけではない。
自分自身だ。
「俺は……獪岳だ」
前世の記憶を持っている。
朝比奈珀空亜として生きた記憶。
その理性がある。
だからこそ。
今までの自分とは違う。
――そう思っていた。
けれど。
時々。
胸の奥から、獪岳本来の感情が湧き上がる。
負けたくない。
認められたい。
自分だけが損をするのは嫌だ。
他人より上に立ちたい。
「……やっぱり」
獪岳は苦笑した。
「根っこは変わってねぇな」
だったら。
どうする?
「…………」
答えは決まっている。
変える。
自分自身を。
その時。
「眠れないのか?」
背後から声がした。
「……悲鳴嶼さん」
悲鳴嶼が隣に座る。
「何か悩みがあるようだな」
「…………」
獪岳は少し迷った。
だが。
「……俺」
口を開く。
「俺、昔の自分が嫌いです」
悲鳴嶼は黙って聞いている。
「すぐ怒るし」
「…………」
「負けるのが嫌で」
「…………」
「人に認められたくて」
「…………」
「自分が損するのが嫌で……」
獪岳は俯いた。
「そのまま行ったら、いつか……大切な奴まで裏切りそうで」
悲鳴嶼の表情が変わる。
「獪岳」
「はい」
「お前は、既に変わり始めている」
「……でも」
「それでも不安か?」
「……はい」
獪岳は正直に答えた。
「怖いんです」
「何が?」
「俺自身が」
悲鳴嶼は静かに数珠を握った。
「ならば」
「……?」
「約束をすればいい」
「約束?」
「ああ」
悲鳴嶼は獪岳を見る。
「自分自身に」
獪岳は黙った。
「誰かを裏切りそうになった時」
「…………」
「思い出せ」
悲鳴嶼は寺の中を指差した。
「ここにいる者たちを」
「…………」
「お前を兄と慕う子供たちを」
「…………」
「お前を信じる私を」
「…………」
「そして」
悲鳴嶼は獪岳の胸を指した。
「自分自身を」
獪岳は息を呑んだ。
「自分を……?」
「ああ」
「俺自身を?」
「お前が自分自身を裏切れば、誰かを守ることもできなくなる」
獪岳は黙っていた。
そして。
ゆっくり立ち上がった。
「……分かりました」
「何をする?」
獪岳は夜空を見る。
「誓います」
拳を握る。
「俺は、もう誰も裏切らない」
その声は。
小さい。
だが。
迷いはなかった。
「寺の皆を裏切らない」
一つ。
「悲鳴嶼さんを裏切らない」
二つ。
「いつか出会う仲間を裏切らない」
三つ。
「善逸を裏切らない」
四つ。
まだ会っていない。
けれど。
必ず出会う。
「そして――」
獪岳は胸に手を当てた。
「俺自身も裏切らない」
悲鳴嶼は目を閉じた。
「南無阿弥陀仏……」
そして。
「良い誓いだ」
「……はい」
「だが」
「?」
「一つだけ付け加えよう」
悲鳴嶼は優しく言った。
「もし、過ちを犯した時は」
「…………」
「その時は、謝ればいい」
獪岳が目を見開く。
「……謝る?」
「ああ」
「俺が?」
「誰でも間違える」
「…………」
「裏切らないという誓いは、決して一度も間違えないという意味ではない」
悲鳴嶼は穏やかに続けた。
「間違えた時に、逃げずに向き合うということだ」
獪岳の胸に。
その言葉が深く染み込んだ。
「…………」
――そうか。
自分はずっと。
「絶対に失敗しない人間にならなきゃいけない」
と思っていた。
だから。
失敗した時。
それを認められなくなった。
負けた時。
誰かのせいにした。
そして。
最後には――。
鬼になった。
「……逃げない」
獪岳は呟く。
「間違えたら、認める」
「うむ」
「謝る」
「うむ」
「それでも駄目なら……」
獪岳は拳を握った。
「もう一度、やり直す」
悲鳴嶼が頷く。
「それでいい」
その時。
寺の奥から小さな声がした。
「……獪岳兄ちゃん?」
「!」
子供の一人が眠そうな顔で立っていた。
「どうした?」
「怖い夢……」
「……そうか」
獪岳は立ち上がる。
「こっち来い」
子供が近づく。
獪岳はしゃがみ込み、その頭を撫でる。
「もう大丈夫だ」
「……本当?」
「ああ」
「獪岳兄ちゃんがいる?」
「いる」
「悲鳴嶼さんも?」
「いる」
「……じゃあ、寝る」
「ああ。おやすみ」
子供を布団へ戻す。
戻ってきた獪岳に、悲鳴嶼が声をかける。
「優しいな」
「……やめてください」
「何故だ?」
「恥ずかしい」
「そうか」
悲鳴嶼は微笑む。
獪岳も小さく笑った。
そして。
もう一度、夜空を見上げる。
「俺は、もう誰も裏切らない」
それは。
過去の自分への決別。
そして。
未来の自分への約束だった。
――数年後。
獪岳は鬼殺隊に入り。
善逸と出会い。
仲間たちと戦い。
胡蝶しのぶと出会う。
その全ての根っこに。
この夜の誓いがあった。
「……今度こそ」
獪岳は呟く。
「最後まで、人間として生きてやる」
月明かりが。
少年の横顔を静かに照らしていた。
【大正コソコソ噂話】
「俺は、もう誰も裏切らない」と誓った翌日。
獪岳は朝食の席で、子供の一人から饅頭を一つもらった。
「獪岳兄ちゃん、あげる!」
「……俺に?」
「うん!」
「じゃあもらう」
ところが。
別の子供がやって来た。
「獪岳兄ちゃん、僕にも半分ちょうだい!」
「…………」
獪岳は饅頭を見る。
子供を見る。
そして。
「……仕方ねぇな」
半分に割る。
「ほら」
「ありがとう!」
さらに別の子供。
「僕にも!」
「お前もかよ!」
結局。
一個の饅頭を五人で分けることになった。
獪岳は最後に残った小さな欠片を食べながら、
「……俺、柱になる前に餓死するんじゃねぇか?」
と呟いた。
その様子を見ていた悲鳴嶼は、
「南無阿弥陀仏……」
と、静かに笑っていたという。
――大正コソコソ噂話・終。