蝶屋敷。
竈門炭治郎と我妻善逸が療養を続ける中、屋敷には新たな騒動が起きていた。
「――猪だ!」
「猪じゃない!」
廊下に響く大声。
「俺は嘴平伊之助様だ!」
「だから猪じゃないって言ってるじゃん!」
善逸が叫ぶ。
「頭に猪の皮を被ってる奴が何を言ってるんだよ!」
「うるせぇ!」
猪頭の少年が善逸へ飛びかかる。
「死ねぇ!」
「ぎゃああああ!」
その様子を、炭治郎が呆然と見ていた。
「伊之助、落ち着け!」
「俺は落ち着いてる!」
「どこが!?」
伊之助は胸を張る。
「俺は強い奴と戦いたいんだ!」
「だからって病み上がりの善逸を襲うな!」
「弱い奴が悪い!」
「伊之助!」
炭治郎が止めようとした、その時。
「……朝からうるさいな」
低い声が響いた。
「……!」
全員が振り返る。
廊下の奥。
漆黒の羽織を纏った男が立っていた。
鳴柱・獪岳。
「誰だ、お前!」
伊之助が身構える。
「俺か?」
獪岳は眉をひそめる。
「鬼殺隊の柱だ」
「柱ァ!?」
伊之助の目が輝く。
「つまり強いんだな!」
「……」
獪岳は嫌な予感がした。
「お前、名前は?」
「嘴平伊之助!」
「そうか」
獪岳は伊之助を観察する。
「獣の呼吸……」
「知ってるのか!」
「ああ」
「なら俺と戦え!」
「断る」
即答。
「何でだ!」
「朝から面倒だからだ」
「面倒だとォ!?」
伊之助が激昂する。
「俺様と戦うのが怖いのか!」
「……」
獪岳のこめかみに青筋が浮かぶ。
「お前」
「何だ!」
「柱を舐めるな」
次の瞬間。
――ドンッ!
獪岳が一歩踏み込んだ。
それだけで。
伊之助の身体が硬直する。
「……!」
本能が告げていた。
目の前の男は。
今まで戦ってきた誰よりも強い。
「これが……柱……」
伊之助が呟く。
獪岳は刀に手をかけることすらしない。
「お前の強さは悪くない」
「……!」
「身体能力も高い。感覚も鋭い」
伊之助が嬉しそうに笑う。
「そうだろ!」
「だが」
獪岳は続ける。
「戦い方が雑すぎる」
「なにィ!?」
「突っ込むだけ」
「……」
「相手の攻撃を見る前に動く」
「……」
「勝てる相手にはそれでいい」
獪岳の目が鋭くなる。
「だが、上弦には通用しない」
伊之助は黙り込んだ。
「……上弦?」
「ああ」
獪岳は炭治郎を見る。
「お前たちがこれから相手にする鬼は、今までの鬼とは違う」
「だからこそ」
刀の柄に手を置く。
「自分の強さを過信するな」
伊之助が拳を握る。
「……じゃあ」
顔を上げる。
「どうすればいい?」
獪岳は少しだけ驚いた。
先ほどまで喚いていた少年が。
今は真剣に自分を見ている。
「簡単だ」
獪岳は答える。
「考えろ」
「……考える?」
「お前は野生の感覚に頼りすぎている」
「……」
「その感覚に技術を加えろ」
伊之助の目が輝く。
「技術……!」
「そうだ」
獪岳は腰の刀を抜く。
「一度だけ見せてやる」
「!」
獪岳が構える。
雷の呼吸。
次の瞬間。
――バチィッ!
雷光が走った。
獪岳の姿が消える。
「……!」
伊之助の目でも追えない。
そして。
獪岳は伊之助の背後に立っていた。
「――こういうことだ」
「……!」
伊之助は振り返る。
「見えなかった……!」
「速さだけじゃない」
獪岳は刀を収める。
「相手が動く前に、動きを読む」
「……!」
伊之助は震えていた。
恐怖ではない。
興奮だった。
「すげぇ……!」
そして。
「俺もやる!」
「無理だ」
「何でだ!」
「今のお前では無理だからだ」
「ぐぬぬ……!」
伊之助が悔しそうに唸る。
炭治郎が笑う。
「伊之助」
「何だ!」
「獪岳さんに教えてもらえばいいんじゃないか?」
「……!」
伊之助が獪岳を見る。
「教えてくれ!」
「断る」
「何でだ!」
「俺は忙しい」
「なら俺が強くなったら教えろ!」
「……」
獪岳は少し考える。
「なら条件がある」
「何だ!」
「仲間を傷つけないこと」
「……?」
「強くなりたいからといって、味方に無意味な勝負を仕掛けるな」
伊之助は黙る。
「……」
そして。
「分かった!」
力強く頷いた。
「俺はもっと強くなる!」
「そうしろ」
「そして!」
伊之助が獪岳を指差す。
「いつか絶対、お前に勝つ!」
獪岳は鼻で笑う。
「十年早い」
「何だとォ!」
善逸が横から叫ぶ。
「伊之助、やめとけって!」
「うるせぇ!」
「鳴柱だぞ!」
「だから何だ!」
「いや怖くないの!?」
「怖くねぇ!」
「俺は怖いよぉ!」
「お前は黙ってろ!」
炭治郎は三人を見ながら笑った。
「……なんだか、賑やかになったな」
しのぶも廊下の奥から眺めている。
「本当に」
そして。
獪岳は騒がしい三人を見つめる。
炭治郎。
善逸。
伊之助。
性格も。
呼吸も。
生い立ちも。
何もかも違う。
だが。
「……悪くない」
小さく呟いた。
かつての獪岳なら。
他人を気にする余裕などなかった。
強さだけを求め。
弱い者を切り捨て。
自分一人で上へ行こうとしていた。
だが今は違う。
「守るべき仲間が増えたな」
その言葉を聞いたしのぶが、隣に立つ。
「そうですね」
「……」
「嬉しいですか?」
「別に」
「ふふ」
しのぶが笑う。
「顔に出ていますよ」
「出てない」
「出ています」
「……うるさい」
二人のやり取りを。
炭治郎は微笑ましそうに眺めていた。
伊之助はまだ獪岳に勝負を挑もうとしている。
善逸は必死に止めている。
蝶屋敷に、また新たな騒がしさが加わった。
そして――。
水の呼吸。
雷の呼吸。
獣の呼吸。
三人の少年たちと鳴柱の出会いは。
これから始まる鬼殺隊の大きな戦いにおいて、確かな意味を持つことになる。
「炭治郎!」
「何だ、伊之助?」
「俺たちは絶対に強くなるぞ!」
「ああ!」
「……俺も頑張るよ」
善逸が弱々しく手を上げる。
「お前はまず泣くのをやめろ」
獪岳が呆れた声で言う。
「無理ぃ!」
「……」
獪岳はため息をついた。
しかし。
その口元には。
ほんの僅かな笑みが浮かんでいた。