蝶屋敷。
朝。
「おはようございます、鳴柱様!」
「……ああ」
廊下を歩く獪岳に、若い隊士が頭を下げる。
「おはようございます!」
「おはようございます、獪岳様!」
「……」
獪岳は少し困惑していた。
以前なら。
自分が廊下を歩けば、隊士たちは道を開けるだけだった。
だが、今は違う。
「鳴柱様、お身体の調子はいかがですか?」
「問題ない」
「それならよかったです!」
「……」
また一人。
「獪岳様!」
「何だ」
「この前教えていただいた足運び、実戦で使えました!」
「そうか」
「ありがとうございます!」
「礼を言うほどのことじゃない」
「いえ! 凄く助かりました!」
隊士は嬉しそうに去っていく。
獪岳はその背中を見つめた。
「……妙な感じだな」
そこへ。
「獪岳さん」
しのぶがやってくる。
「何だ」
「最近、隊士たちに随分慕われていますね」
「俺が?」
「はい」
しのぶは微笑む。
「以前は近づくだけで怯えられていたのに」
「……余計なことを言うな」
「ふふ」
その時。
「獪岳様!」
遠くから隊士が走ってくる。
「何だ?」
「お願いがあります!」
「言ってみろ」
「雷の呼吸の足運びを、もう一度教えてください!」
「……」
「お願いします!」
獪岳はため息をつく。
「仕方ないな」
「ありがとうございます!」
訓練場。
十数人の隊士が獪岳を囲んでいる。
「まず、雷の呼吸は速さだけを求めるな」
獪岳が言う。
「重要なのは踏み込みだ」
「はい!」
「足の位置が崩れれば、どれだけ速くても意味がない」
「はい!」
「そして――」
獪岳が一歩踏み込む。
――バチッ!
小さな雷光が弾ける。
「こうだ」
隊士たちの目が輝く。
「すげぇ……」
「今の一歩だけで……」
「鳴柱様はやっぱり凄い……!」
獪岳は少し眉をひそめる。
「見ているだけじゃ身につかん」
「実際にやれ」
「はい!」
隊士たちが一斉に構える。
「もっと腰を落とせ!」
「はい!」
「右足が遅い!」
「はい!」
「踏み込みすぎるな!」
「はい!」
獪岳の指導は厳しかった。
だが。
誰一人、嫌そうな顔をしない。
むしろ。
「もう一回お願いします!」
「今の動き、もう一度見せてください!」
「俺にもお願いします!」
「順番に来い!」
獪岳が叫ぶ。
「一度に全員見ることはできん!」
「はい!」
そこへ炭治郎がやってくる。
「獪岳さん、凄いですね」
「何がだ」
「みんな獪岳さんに教えてもらいたくて仕方ないみたいです」
「……」
獪岳は周囲を見る。
隊士たちが真剣な表情で自分を見ている。
かつての自分なら。
「弱い奴に教えることなどない」
そう言っていただろう。
だが。
今は違う。
「……分かった」
獪岳は再び口を開く。
「次は二人ずつ来い」
「はい!」
隊士たちが嬉しそうに返事をする。
その様子を見ていた村田が呟いた。
「獪岳様、すっかり教官みたいになってるな」
善逸も頷く。
「そうなんだよ」
「善逸?」
「兄貴って、ああ見えて面倒見いいんだよ」
「……お前、よく分かってるな」
「そりゃ兄弟弟子だからね」
善逸は少し誇らしげに胸を張る。
「まあ、怒ると怖いけど」
「それは否定できない」
その瞬間。
「おい、我妻」
「ひっ!」
獪岳が振り返っていた。
「何を話している?」
「な、何でもありません!」
「そうか」
獪岳はため息をつく。
「なら鍛錬しろ」
「はい!」
善逸が慌てて走り出す。
その様子を見ていた伊之助が笑う。
「おい雷男!」
「誰が雷男だ」
「俺と勝負しろ!」
「断る」
「逃げるな!」
「お前は少し落ち着け!」
訓練場が笑いに包まれる。
獪岳は呆れながらも。
その光景を嫌ってはいなかった。
夕方。
鍛錬を終えた隊士たちが、獪岳の前に並ぶ。
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
「明日もお願いします!」
「……ああ」
一人の隊士が帰り際に振り返る。
「獪岳様」
「何だ」
「俺……もっと強くなって、いつか柱を助けられる隊士になります!」
獪岳は少し驚いた。
「……そうか」
「はい!」
「なら、まず生き残れ」
「はい!」
隊士が去っていく。
獪岳は静かに空を見上げる。
「……」
そこへしのぶが近づく。
「嬉しそうですね」
「そう見えるか?」
「はい」
「……そうか」
獪岳は否定しなかった。
「昔の俺は――」
ぽつりと呟く。
「自分一人が強くなれば、それでいいと思っていた」
「……」
「だが今は違う」
しのぶを見る。
「強くなる奴が増えれば、救える命も増える」
「ええ」
「だから教える」
しのぶは微笑んだ。
「素敵ですね」
「……」
「獪岳さんは、もう立派な柱ですよ」
「柱だから教えているだけだ」
「違います」
しのぶは首を振る。
「あなたが優しい人だからです」
「……優しい、か」
獪岳は照れくさそうに顔を逸らす。
「柄じゃない」
「そんなことありませんよ」
その時。
訓練場の向こうから声が響く。
「獪岳様ー!」
「明日もよろしくお願いします!」
「おう!」
獪岳が返事をする。
その声を聞いたしのぶが微笑む。
かつて。
誰にも心を開かなかった少年。
強さだけを求めていた男。
それが今では。
多くの隊士たちに慕われ。
頼られ。
「この人の背中を追いたい」
そう思われる柱になっていた。
獪岳は最後にもう一度、訓練場を振り返る。
「……悪くないな」
その呟きは。
夕暮れの風に静かに溶けていった。