――無惨との死闘から、十年。
かつて鬼殺隊と鬼が生死を懸けて戦った時代は、もう遠い過去になっていた。
朝。
柔らかな陽射しが、静かな庭を照らしている。
「お父さーん!」
「こっちこっち!」
「待ってよー!」
庭を駆け回る子どもたちの声。
笑い声。
足音。
そして――。
「こら! 走るなら転ばないようにしなさい!」
縁側から声を飛ばす女性。
胡蝶しのぶ。
十年前と変わらぬ面影を残しながらも、その表情には戦場にいた頃にはなかった穏やかさがあった。
「大丈夫だよ、母さん!」
「そうそう!」
「僕たち、転ばないもん!」
「……その台詞を言う子ほど転ぶんですよ」
しのぶが苦笑する。
すると。
「ははは!」
庭の中央から笑い声が響いた。
「元気なのは良いことだ!」
「お父さん!」
子どもたちが一斉に駆け寄る。
そこにいたのは――。
かつて鳴柱と呼ばれた男。
獪岳。
十年の歳月を重ねた彼は、以前よりも落ち着いた雰囲気を纏っていた。
腰に刀はない。
柱の羽織もない。
ただの父親として、子どもたちと向き合っている。
「お父さん、今日は何して遊ぶ?」
「そうだな……」
獪岳は少し考える。
「鬼ごっこでもするか?」
「やった!」
「お父さん鬼ね!」
「なぜ俺が鬼なんだ」
「だって一番速いから!」
「……なるほど」
獪岳は苦笑した。
「なら、逃げ切ってみろ」
「うわー!」
子どもたちが一斉に走り出す。
「待て!」
獪岳も追いかける。
だが――。
「お父さん、遅い!」
「捕まらないよ!」
「ははは!」
獪岳はわざと速度を落としていた。
本気を出せば、一瞬で全員を捕まえられる。
かつてなら。
「もっと速く」
「もっと強く」
そればかりを考えていた。
だが。
今は違う。
子どもたちの笑い声を聞きながら走る。
それだけで良かった。
「捕まえた!」
獪岳が一人を抱き上げる。
「きゃー!」
「次はお前だ!」
「逃げろー!」
庭中に笑い声が響く。
縁側から見ていたしのぶは、目を細める。
「……ふふ」
「どうした?」
獪岳が子どもを抱えたまま振り返る。
「いえ」
しのぶは微笑む。
「昔のあなたからは、想像もできなかったなと思って」
「……俺もだ」
獪岳は子どもを降ろす。
「十年前の俺に、今の姿を見せても信じないだろうな」
「でしょうね」
「俺自身が一番驚いている」
二人は顔を見合わせる。
そして。
「でも――」
しのぶが静かに言う。
「私は、今のあなたが一番好きですよ」
「……」
獪岳が固まる。
「お父さん、顔赤い!」
子どもの声。
「うるさい!」
獪岳が慌てて顔を逸らす。
「ふふっ」
しのぶが笑う。
「十年経っても、そこは変わりませんね」
「……お前は意地が悪くなったな」
「あなたの妻ですから」
「それは関係ないだろ」
二人の間に、穏やかな笑いが広がった。
◆
昼下がり。
庭の木陰。
子どもたちは疲れて眠っている。
獪岳としのぶは並んで縁側に座っていた。
「静かですね」
「ああ」
「昔は……」
しのぶが空を見る。
「毎日、鬼の気配を探していましたね」
「そうだったな」
「夜が来るたび、誰かが死ぬかもしれないと思っていた」
獪岳は黙っている。
「今は……」
しのぶが眠る子どもたちを見る。
「夜になっても、この子たちが明日も笑っていると分かっている」
「……ああ」
獪岳の表情が柔らかくなる。
「それだけで十分だ」
しのぶが彼の手に、自分の手を重ねる。
「あなたが守った未来ですね」
「俺だけじゃない」
獪岳は首を振る。
「善逸も、炭治郎も、伊之助も……」
「カナエも」
「ああ」
「悲鳴嶼さんも」
「ああ」
「そして、たくさんの隊士たちも」
獪岳は頷く。
「皆で守った未来だ」
遠くで鳥が鳴く。
風が庭を通り抜ける。
木の葉が、さらさらと揺れる。
そこにはもう――。
戦場を切り裂く雷鳴はない。
「……」
獪岳は空を見上げる。
かつて。
自分の人生には、雷鳴ばかりが響いていた。
怒り。
恐怖。
焦り。
憎しみ。
そして戦い。
だが今は。
聞こえてくるのは。
子どもたちの寝息。
風の音。
妻の穏やかな呼吸。
「……静かだな」
獪岳が呟く。
「ええ」
しのぶが微笑む。
「でも――」
庭の向こうから。
「お父さーん!」
「起きてー!」
「遊ぼうよー!」
子どもたちが再び起き出した。
獪岳は思わず笑う。
「……静かでもないな」
「ふふっ」
しのぶも笑った。
◆
夕方。
庭には、子どもたちが描いた絵が並んでいた。
そこには。
大きな太陽。
青い空。
そして。
黄色い雷を纏った剣士。
「お父さん!」
「ん?」
「これ、お父さん!」
「……俺か?」
「うん!」
獪岳は絵を見る。
少し歪んだ剣。
大きな雷。
そして。
隣には紫色の蝶が描かれている。
「こっちは母さん!」
しのぶが覗き込む。
「まあ……上手ですね」
「でしょう!」
子どもたちは胸を張る。
獪岳は絵を見つめる。
「……雷と蝶か」
「どうしたんです?」
「いや」
獪岳は微笑んだ。
「昔の俺なら、雷しか見ていなかった」
「……」
「でも今は――」
隣にいるしのぶを見る。
「雷のそばに、蝶がいる」
しのぶは優しく微笑んだ。
「それなら、これからもずっと一緒ですね」
「ああ」
獪岳は頷く。
「ずっとな」
その瞬間。
子どもたちが二人の手を取る。
「お父さん!」
「お母さん!」
「夕飯まだー?」
「はいはい」
しのぶが立ち上がる。
「今日は何にしましょうか」
「俺が作る」
「まあ」
「子どもたちが腹を空かせてる」
「では、一緒に作りましょう」
「ああ」
二人が家の中へ入っていく。
庭には。
夕暮れの光だけが残る。
かつて戦場を駆け抜けた雷鳴は、もう聞こえない。
代わりに聞こえるのは――。
子どもたちの笑い声。
妻の笑い声。
そして。
穏やかな日々の音。
獪岳はもう、雷を恐れる必要もない。
雷を追いかける必要もない。
ただ。
大切な人たちと生きていく。
それだけでいい。
――雷鳴、止みし庭。
そこには今。
十年前には想像もできなかった、優しい時間が流れていた。