――それから、さらに長い年月が流れた。
鬼舞辻無惨が滅びたあの日から。
鬼殺隊がその役目を終えたあの日から。
そして。
一人の少年が「強くなりたい」と願い、一人の少女が「笑顔」を取り戻した、あの日から。
世界は、大きく変わった。
鬼はいない。
夜道を恐れる必要もない。
刀を握り、命を懸けて誰かを守る必要もない。
かつての鬼殺隊士たちが願い続けた未来は――確かに、そこにあった。
◆
現代。
澄み渡った青空。
雲一つない空を、一筋の飛行機雲が伸びている。
「――よーい!」
「待って、まだだから!」
「早くしろよ!」
公園を駆け抜ける子どもたち。
笑い声。
歓声。
その中に、一人の少年がいた。
「行くぞーっ!」
「負けないからな!」
少年は地面を蹴った。
――速い。
まるで。
一瞬だけ、雷が走ったようだった。
「うわっ、速っ!」
「ずるいぞ!」
少年は振り返り、笑う。
「ずるくない!」
その笑顔は、どこまでも明るい。
恐怖も。
憎しみも。
鬼も。
そこには存在しない。
ただ。
未来へ向かって走る子どもの姿がある。
◆
公園のベンチ。
そこには、一人の女性が座っていた。
「まあまあ」
優しい笑顔。
穏やかな紫色の瞳。
「またあの子、張り切っていますね」
隣に座る男性が笑う。
「元気なのはいいことだ」
「ええ」
二人は顔を見合わせる。
その姿は。
かつて鬼殺隊で戦った二人の面影を、どこかに残していた。
獪岳としのぶ。
二人の間に生まれた命。
そして、その命から受け継がれた命。
長い年月を越えて。
二人の想いは、今も続いている。
「……速いな」
男性が呟く。
「ええ」
女性が微笑む。
「まるで雷みたい」
少年がこちらへ駆けてくる。
「お父さん!」
「お母さん!」
「どうだった!?」
「一番だった!」
「そうか」
男性は少年の頭を撫でる。
「よく頑張ったな」
「へへっ!」
少年が笑う。
女性も、その頭を優しく撫でる。
「でも、転ばないようにしてくださいね」
「大丈夫!」
「その言葉、昔の誰かさんにも聞いたことがあります」
「……」
男性が固まる。
「俺か?」
「ええ」
女性がくすくす笑う。
「十年前から変わりませんね」
「……仕方ないだろ」
「ふふっ」
二人の間に、穏やかな笑い声が響く。
◆
その時。
少年が空を見上げた。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「雷って、怖い?」
男性は少しだけ黙った。
そして。
空を見上げる。
青い空。
穏やかな風。
遠くには白い雲。
「昔はな」
「昔?」
「ああ」
男性は静かに答えた。
「雷は、戦うためのものだった」
少年が首を傾げる。
「戦う?」
「ああ」
「誰と?」
男性は微笑んだ。
「大切な人たちを守るために、悪い鬼と戦っていたんだ」
「鬼?」
少年の目が輝く。
「本当に鬼がいたの!?」
「昔はな」
女性が笑う。
「でも、もういませんよ」
「どうして?」
男性は空を見上げる。
「たくさんの人たちが戦って、終わらせたからだ」
「誰が?」
「たくさんいる」
獪岳。
善逸。
炭治郎。
伊之助。
悲鳴嶼。
カナエ。
しのぶ。
そして。
名前すら残らなかった、数え切れない隊士たち。
誰もが命を懸けた。
誰もが未来を願った。
「みんなが頑張ったから――」
男性は少年の胸に、そっと手を置く。
「お前たちは、こうして笑っていられる」
「……」
少年は少し考える。
そして。
「じゃあ!」
満面の笑みを浮かべた。
「僕も頑張る!」
「何を?」
「みんなを笑わせる!」
「……」
男性は目を見開く。
女性も微笑む。
「それは、とても素敵なことですね」
「ああ」
男性は頷いた。
「それが一番だ」
◆
その瞬間。
空の彼方から。
――ゴロゴロ……。
小さな雷鳴が聞こえた。
少年が空を見る。
「雷!」
しかし。
怖がらない。
むしろ。
「綺麗!」
目を輝かせる。
雲の向こう。
一瞬だけ。
稲妻が走った。
――閃光。
それはまるで。
遠い昔。
一人の男が振るった刀から放たれた雷のようだった。
「……」
男性は静かに空を見る。
獪岳が歩んだ道。
その隣に寄り添ったしのぶ。
善逸と並び立った雷。
炭治郎たちと守った未来。
そして。
最後の戦いで浴びた、あの慈雨。
全てが。
今につながっている。
「……兄貴」
どこかから。
そんな声が聞こえたような気がした。
獪岳は微笑む。
「善逸……」
もちろん。
そこに誰もいない。
それでも。
不思議と、すぐそばにいるような気がした。
「みんな……」
しのぶが隣に立つ。
「どうしました?」
「いや」
獪岳は空を見る。
「……何でもない」
そして。
妻の手を握る。
しのぶも握り返す。
◆
公園では。
少年たちがまた走り始めていた。
「行くぞー!」
「待てー!」
「負けるな!」
笑い声が響く。
一人。
また一人。
未来へ向かって走っていく。
その姿を見つめながら。
獪岳は静かに呟いた。
「……雷は、もう戦わなくていい」
しのぶが微笑む。
「ええ」
「今は――」
少年が走る。
その姿に。
かつての自分たちの面影が重なる。
「未来を照らすために、躍ればいい」
しのぶは頷いた。
「素敵ですね」
空には。
もう恐怖はない。
ただ澄み渡る青。
そして。
その青空を切り裂くように。
一筋の稲妻が走った。
――轟ッ。
けれど。
それは誰かを傷つける雷ではない。
誰かを守るためだけの雷でもない。
ただ。
生きる者たちの未来を祝福するように。
自由に。
力強く。
空を駆ける雷。
少年が叫ぶ。
「お父さん!」
「ん?」
「僕も、あれみたいに速くなれるかな!」
獪岳は笑った。
「ああ」
「本当!?」
「ああ。ただし――」
獪岳は少年の肩に手を置く。
「速さより大事なものを忘れるな」
「大事なもの?」
「人を大切にする心だ」
少年は少し考えて。
「分かった!」
元気よく頷いた。
「じゃあ、行ってくる!」
「ああ」
「気をつけてね」
「はーい!」
少年は走り出す。
その背中を。
獪岳としのぶは並んで見つめる。
やがて。
少年の姿は、仲間たちの中へ溶け込んでいく。
一人ではない。
皆と一緒に。
笑いながら。
未来へ。
◆
――かつて。
夜明けを求めて戦った。
霹靂のような雷鳴が、闇を切り裂いた。
そして。
戦いの終わりには、慈雨が降った。
その雨に濡れながら。
人々は新しい朝を迎えた。
あれから長い歳月が過ぎた。
鬼殺隊は消えた。
刀も必要なくなった。
けれど。
彼らが命懸けで守った想いは、決して消えなかった。
誰かを守る心。
大切な人を愛する心。
仲間を信じる心。
そして。
明日を諦めない心。
それらは。
受け継がれた命の中で、今も生きている。
――雷鳴は止んだ。
――慈雨は大地を潤した。
――夜明けは訪れた。
そして今。
澄み渡る空に――。
一筋の稲妻が躍る。
それは。
過去から未来へ受け継がれた、命の証。
獪岳としのぶ。
善逸。
炭治郎。
伊之助。
カナエ。
悲鳴嶼。
そして。
あの時代を生き抜いた、全ての人々が残したもの。
その想いは。
これからも、ずっと。
未来へ受け継がれていく。
少年が笑う。
少女が笑う。
家族が笑う。
友達が笑う。
平和な空の下で。
誰もが自由に、生きている。
――それこそが。
彼らが命を懸けて掴み取った未来だった。
獪岳は空を見上げる。
しのぶが隣にいる。
子どもたちの笑い声が聞こえる。
そして。
澄み渡った青空を、一筋の稲妻が走る。
獪岳は静かに笑った。
「……これでいい」
しのぶが尋ねる。
「何がです?」
「全部だ」
獪岳は答える。
「俺たちが守りたかったものは――」
空を見上げる。
「ちゃんと、ここにある」
――そして。
二人は歩き出す。
子どもたちの待つ未来へ。
その先へ。
いつまでも。
いつまでも。
――完――
最終章 霹靂、そして慈雨
第127話・最終話 澄み渡る空に、稲妻は躍る
――あれから、長い年月が流れた。
鬼舞辻無惨が滅びた夜から。
鬼殺隊が役目を終えた日から。
そして、獪岳としのぶが生涯を共にすると誓った日から。
さらに時代は流れ――。
現代。
青い空が広がっていた。
雲一つない、澄み渡った空。
その下を、一人の少年が全力で走っている。
「待てー!」
「早くしろよ!」
「負けた奴がジュース奢りだからな!」
少年たちの声が響く。
「絶対負けない!」
先頭を走る少年が笑う。
その姿は、まるで一筋の稲妻だった。
速い。
ただ速いだけではない。
躍動する身体。
輝く瞳。
何より――。
生きることを心から楽しんでいる笑顔。
「よっしゃあ!」
少年がゴールへ飛び込む。
「一番!」
「速すぎるだろ!」
「また負けた!」
「へへっ!」
少年は笑った。
その笑顔を、少し離れた場所から見つめる二人がいた。
「……ふふ」
女性が微笑む。
「本当に元気ですね」
「まあな」
隣にいる男性が笑う。
二人の間には、穏やかな空気が流れている。
かつて。
鬼殺隊の柱として戦った者たちの面影を、どこかに残している。
獪岳としのぶ。
二人が結ばれてから、さらに幾つもの世代が過ぎた。
それでも。
受け継がれた命は、今も確かに生きている。
◆
「お父さん!」
少年が駆け寄ってくる。
「見てた!?」
「ああ」
男性は笑って、少年の頭を撫でる。
「速かったぞ」
「本当!?」
「本当だ」
「やった!」
女性も少年の服についた土を払う。
「でも、無茶は駄目ですよ」
「大丈夫!」
「その台詞は信用できませんね」
「えー!」
三人の笑い声が響く。
その光景を見て。
獪岳はふと空を見上げた。
青空。
穏やかな風。
鳥の声。
どこにも鬼はいない。
夜道を怯えて歩く必要もない。
刀を握って眠る必要もない。
「……」
獪岳は静かに目を細める。
かつては。
夜が来ることが恐ろしかった。
鬼が現れる。
仲間が死ぬ。
自分も死ぬかもしれない。
それでも。
守るために戦った。
「お父さん?」
少年の声で、獪岳は我に返る。
「どうした?」
「空、見てた」
「ああ」
「何かあるの?」
獪岳は少し考えてから答えた。
「昔のことを思い出していた」
「昔?」
「ああ」
少年は興味津々に尋ねる。
「どんな昔?」
しのぶが微笑む。
「あなたのお父さんはね――」
「しのぶ」
「ふふっ」
「……話すのか?」
「少しくらいはいいでしょう?」
獪岳は苦笑する。
そして。
少年に語り始める。
「昔、この国には鬼がいた」
「鬼!?」
「本当に?」
「ああ」
「怖かった?」
「……怖かったな」
獪岳は正直に答えた。
「でも、それ以上に――守りたいものがあった」
「守りたいもの?」
「仲間や家族、大切な人たちだ」
少年は黙って聞いている。
「だから、俺たちは戦った」
「お父さんも?」
「ああ」
「強かった?」
獪岳は少しだけ笑う。
「昔は、強くなることしか考えていなかった」
「でも?」
「今は違う」
獪岳は少年の肩に手を置く。
「強さは、誰かを守るためにある」
少年は大きく頷いた。
「僕も!」
「何だ?」
「僕も誰かを守れる人になる!」
獪岳は一瞬、目を見開く。
そして。
優しく笑った。
「……そうか」
◆
その時。
遠くで。
――ゴロゴロ……。
小さな雷鳴が聞こえた。
少年が空を見る。
「雷だ!」
やがて。
雲の向こうで、一筋の稲妻が走る。
――閃光。
一瞬だけ。
青空に白い光が躍った。
少年の目が輝く。
「綺麗!」
獪岳も空を見上げる。
「……ああ」
かつて。
雷は戦いの象徴だった。
怒り。
恐怖。
死。
そして。
自分自身の未熟さ。
雷鳴を聞くたびに、獪岳は刀を握った。
鬼を斬るため。
仲間を守るため。
生き残るため。
けれど。
今。
同じ雷を見ても。
胸に浮かぶのは恐怖ではない。
「……雷は、もう戦わなくていい」
しのぶが隣で微笑む。
「ええ」
「今は――」
獪岳は走り出した少年を見る。
「未来を照らせばいい」
◆
公園の向こう。
少年たちがまた走り始める。
「行くぞ!」
「待て!」
「今度こそ勝つ!」
「負けるもんか!」
その姿を見て。
獪岳は思う。
――これが、夜明けなのだ。
無惨を倒した朝だけが、夜明けではなかった。
その後に生まれた。
数え切れない命。
笑顔。
家族。
子どもたち。
それら全てが。
あの日、命を懸けて戦った者たちへの答えだった。
◆
そして。
獪岳の脳裏に、懐かしい顔が浮かぶ。
「兄貴!」
善逸。
「獪岳さん!」
炭治郎。
「雷男!」
伊之助。
「南無阿弥陀仏……」
悲鳴嶼。
「獪岳さん」
カナエ。
「獪岳」
しのぶ。
そして。
「よくやったな」
師匠――桑島慈悟郎。
獪岳は目を閉じる。
「……師匠」
胸の奥が温かくなる。
もし。
あの頃の自分が。
今の景色を見たなら。
きっと信じられないだろう。
鬼はいない。
誰も刀を握っていない。
子どもたちは、笑いながら走っている。
誰も。
明日の死を恐れていない。
「……」
獪岳は小さく笑った。
「みんな」
風が吹く。
木々の葉が揺れる。
「俺たちは、ちゃんと未来を守ったぞ」
◆
その時。
少年が振り返る。
「お父さん!」
「ん?」
「一緒に走ろう!」
「俺が?」
「うん!」
「もう子どもじゃないんだから、速いぞ?」
「負けない!」
獪岳は笑う。
「……よし」
しのぶが呆れたように笑う。
「二人とも、怪我しないでくださいね」
「大丈夫!」
少年が叫ぶ。
獪岳も笑う。
「行くぞ!」
二人が走り出す。
「待ってー!」
しのぶも追いかける。
三人の笑い声が、青空の下に響き渡る。
その姿を。
現代の街が静かに包み込む。
平和な日常。
当たり前の毎日。
けれど。
その「当たり前」は。
決して当たり前ではなかった。
遠い昔。
誰かが命を懸けて守ったもの。
誰かが涙を流して繋いだもの。
誰かが最後まで諦めなかったもの。
それが。
今ここにある。
◆
空を見上げる。
青い。
どこまでも青い。
かつての戦場にはなかった、澄み渡った空。
そして。
その空を――。
一筋の稲妻が走る。
――ピシャァッ!
少年が歓声を上げる。
「雷だ!」
獪岳はその光を見つめる。
「……ああ」
しのぶが微笑む。
「綺麗ですね」
「そうだな」
「昔のあなたなら、あの雷を追いかけていたでしょうね」
「……そうかもしれない」
獪岳は笑う。
「でも今は――」
少年の背中を見る。
「追いかけなくていい」
「なぜです?」
「もう、雷は俺の前を走っていない」
「……」
「俺たちが守った未来の空を――」
獪岳は静かに見上げる。
「自由に躍っている」
しのぶは彼の手を握る。
「それが、一番ですね」
「ああ」
◆
――霹靂。
かつて闇を切り裂いた雷鳴。
――慈雨。
戦いの後、大地を優しく潤した雨。
――夜明け。
命を懸けて掴み取った、新しい朝。
そして。
――受け継がれた命。
それらは決して過去の言葉ではない。
現代を生きる人々の笑顔の中に。
家族の絆の中に。
友人との友情の中に。
誰かを思いやる優しさの中に。
今も息づいている。
獪岳としのぶが繋いだ命。
鬼殺隊の仲間たちが守った命。
その全てが。
次の世代へ。
そして、そのまた次の世代へ。
未来へと受け継がれていく。
少年が走る。
少女が笑う。
子どもたちが空を見上げる。
誰もが自由に。
誰もが笑顔で。
明日へ向かって走っていく。
その空には――。
もう鬼はいない。
もう戦いもない。
ただ。
澄み渡る青空がある。
そして。
その青空を彩るように。
一筋の稲妻が躍った。
それは。
かつて獪岳が振るった雷であり。
善逸が受け継いだ雷であり。
鬼殺隊の誰もが願った未来そのものだった。
獪岳は、しのぶと並んで空を見上げる。
「……終わったな」
「いいえ」
しのぶが優しく笑う。
「終わったのではなく――」
少年たちの笑い声を聞く。
「始まったんですよ」
獪岳は微笑む。
「ああ」
二人は歩き出す。
未来へ。
その先へ。
いつまでも。
――澄み渡る空に、稲妻は躍る。
その雷は。
もう誰かを傷つけるためのものではない。
愛する人々の未来を祝福するために。
自由に。
力強く。
美しく。
空を駆けていく。
そして――。
その光は、永遠に消えることはなかった。
――完――