雪が深々と降り積もる八ヶ岳の麓。
白銀に染まった山中には、凍てつく風が吹き荒れていた。
その雪の上を、一人の少年が必死に駆けている。
「はぁ……はぁ……!」
竈門炭治郎。
背中には箱を背負っている。
その中にいるのは――鬼となってしまった妹、禰豆子。
「禰豆子……!」
家族を皆殺しにされ、自分だけが生き残った。
そして、唯一生き残った妹までもが鬼になった。
それでも炭治郎は諦めなかった。
禰豆子を人間に戻す。
そのためなら、自分がどうなっても構わない。
だが――。
ヒュッ!
突然、背後から凄まじい殺気が走った。
「!」
炭治郎が振り返る。
そこには、一人の剣士が立っていた。
黒髪。
市松模様の羽織。
そして、腰に差した日輪刀。
鬼殺隊・水柱。
冨岡義勇。
「その鬼を渡せ」
「嫌だ!」
炭治郎は即座に叫んだ。
「この子は俺の妹だ! 絶対に人を食べたりなんかしない!」
「鬼は人を喰う」
義勇は刀を抜いた。
冷たい刃が禰豆子へ向けられる。
「待ってくれ!」
炭治郎は雪の上へ額を擦りつけた。
「妹を殺さないでください! お願いします! 俺が必ず禰豆子を人間に戻します!」
「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」
義勇の怒声が山中に響き渡る。
「弱者に権利も選択肢もない! 失ったものは戻らない!」
炭治郎は歯を食いしばる。
悔しい。
何もできない自分が。
妹一人すら守れない自分が。
「くそっ……!」
その瞬間だった。
ドドドドドドッ――!!
轟音が山中を駆け抜けた。
次の瞬間。
ドォンッ!!
青白い雷が雪原へと落ちた。
「なっ!?」
義勇が僅かに目を見開く。
雪煙が晴れる。
そこに、一人の青年が立っていた。
黒地の隊服。
雷を思わせる羽織。
首元には薄青い装飾。
腰には日輪刀。
鋭い眼差しと、雷鳴のような威圧感。
鬼殺隊・鳴柱。
獪岳。
「おいおい、富岡ぁ」
獪岳は肩をすくめる。
「相変わらず説明が足りねぇんだよ。そんな怖ぇ顔で怒鳴ったって、このガキが余計に混乱するだけだろ」
「……獪岳。なぜここにいる」
「水柱様が単独で山に入ったって聞いたから追いかけてきたんだよ」
獪岳は炭治郎を見る。
「……で?」
その視線が禰豆子へ向けられる。
「その鬼、どうするつもりだ?」
炭治郎は息を呑んだ。
怖い。
冨岡義勇とは違う。
獪岳から感じる威圧感は、まるで空から雷が落ちてくるようだった。
だが――。
(……あれ?)
炭治郎の鋭い嗅覚が、獪岳から漂う匂いを捉える。
(怖い人だ。でも……)
怒り。
覚悟。
悲しみ。
そして――。
(すごく優しい匂いがする)
それは、誰かを守るために必死になっている人間の匂いだった。
「俺は……!」
炭治郎は獪岳を真っ直ぐ見た。
「俺は妹を人間に戻したい!」
声が震える。
それでも叫ぶ。
「そのためなら何だってする! 死んだって諦めない!」
「……ほう」
獪岳の眉が僅かに上がる。
「何だってする、ねぇ」
「はい!」
「じゃあ、さっき富岡に土下座してたのは何だ?」
「……!」
「妹を守りてぇなら、守るための力を身につけろ。泣いて頼むだけじゃ、鬼から妹を守れねぇぞ」
「……分かっています!」
「本当にか?」
「はい!」
獪岳は炭治郎をじっと見つめる。
そして、ふっと口元を歪めた。
「なら、試してみろ」
「え?」
獪岳が足元の雪を蹴った。
雪玉ほどの石が炭治郎の足元へ飛んでくる。
炭治郎は咄嗟に避けた。
「今のが敵だったら死んでたぞ」
「……!」
「戦場じゃ、迷った一瞬で死ぬ」
獪岳は刀へ手を添える。
「俺も昔は、弱ぇ自分が大嫌いだった」
炭治郎が顔を上げる。
「だがな――弱いなら強くなればいい」
獪岳の声が低く響く。
「才能がなきゃ、血反吐を吐いて身につけろ。才能があっても、努力を止めるな。泥をすすってでも生き残れ」
一歩。
炭治郎へ近づく。
「そして――」
獪岳の鋭い目が炭治郎を射抜く。
「守りてぇ奴がいるなら、そいつより先に死ぬな」
炭治郎の胸に、その言葉が深く突き刺さった。
「……俺、強くなります」
「あ?」
「強くなって、禰豆子を守ります!」
獪岳は少しだけ目を細めた。
「……その言葉、忘れんなよ」
「はい!」
その横で、義勇が口を開いた。
「狭霧山へ行け」
「富岡……?」
「鱗滝左近次という男がいる。俺たちが紹介したと言えばいい」
獪岳が続ける。
「元水柱だ。死なねぇ程度には鍛えてくれる」
「ありがとうございます!」
「礼を言うな」
獪岳は炭治郎の額を指で軽く小突いた。
「これは助けじゃねぇ。お前が本当に妹を守れる男になるための道標だ」
「道標……」
「ああ」
獪岳は背を向ける。
「それと一つ」
炭治郎へ振り返った。
「妹に人を喰わせるな」
「……はい!」
「もし喰わせたら――」
獪岳の目が鋭くなる。
「俺が斬る」
禰豆子が箱の中から唸り声を上げる。
「……グルル……!」
獪岳は一瞬だけ禰豆子を見る。
「ほう」
「?」
「兄貴を守ろうとしてんのか」
禰豆子が箱の中から炭治郎を見る。
獪岳は小さく笑った。
「だったら、お前も頑張れ」
禰豆子は唸るのを止めた。
そして――。
獪岳は懐から握り飯を取り出した。
「ほら」
炭治郎へ投げる。
「食え」
「え?」
「腹が減ってちゃ、修行する前に死ぬぞ」
「……ありがとうございます!」
「だから礼はいらねぇって言ってんだろ」
獪岳が歩き出す。
「行くぞ、富岡」
「ああ」
二人の柱が雪の中を歩いていく。
炭治郎は、その背中を見つめ続けた。
水柱・冨岡義勇。
そして、鳴柱・獪岳。
二人との出会いは、炭治郎にとって運命を変える大きな出来事となった。
握り飯を胸に抱く。
温かい。
その温もりが、凍えた身体だけではなく心まで温めていく。
「俺は……強くなる」
炭治郎は顔を上げた。
「禰豆子を人間に戻すために」
白銀の山。
その先に待つのは、厳しい修行と数え切れないほどの戦い。
それでも――。
少年は歩き始めた。
鬼殺隊士になるために。
妹を救うために。
そしていつか、誰かを守れる強さを手に入れるために。
遠くで雷鳴が響いた。
それはまるで、少年の未来を示すかのようだった。
――竈門炭治郎の物語が、今始まる。