狭霧山。
霧に包まれた山の麓に、一軒の家が佇んでいる。
鱗滝左近次の住居。
その周囲には、炭治郎を鍛えるために仕掛けられた無数の罠が張り巡らされていた。
木々の間を縫うように飛んでくる丸太。
足元を狙う落とし穴。
突如として飛び出す竹槍。
そして――。
「うおおおおおっ!」
ドォンッ!
「ぐはっ!」
炭治郎は斜面を転がり落ちた。
「痛い……!」
全身泥だらけ。
腕には擦り傷。
額からは血が流れている。
息は絶え絶え。
それでも炭治郎は立ち上がった。
「……もう一度……!」
山を登る。
そして再び罠に挑む。
失敗。
転落。
また挑戦。
その繰り返しだった。
鱗滝から課された修行は、想像を絶するほど厳しかった。
だが、炭治郎は諦めなかった。
禰豆子を人間に戻す。
そのためには、強くならなければならない。
そして――。
「戻りました……!」
ようやく家へ戻った炭治郎は、扉を開けた。
その瞬間。
「……遅ぇな」
「――え?」
囲炉裏の前。
そこに、一人の青年が座っていた。
黒地の隊服。
雷を思わせる意匠。
腰には日輪刀。
鋭い眼差し。
そして、全身から漂う圧倒的な強者の気配。
「……獪岳さん!」
炭治郎の顔が明るくなる。
雪山で出会った鬼殺隊の柱。
鳴柱・獪岳。
「山を下りるだけで半日かかってんじゃねぇよ」
「す、すみません!」
「謝る暇があるなら速くなれ」
「はい!」
「……ったく」
獪岳は呆れたようにため息をついた。
だが、その目には僅かな笑みが浮かんでいる。
「どうしてここにいるんですか?」
「鱗滝のジジイに頼まれたんだよ」
「鱗滝さんに?」
「お前らの様子を見てくれってな」
獪岳は囲炉裏に薪を一本放り込む。
「俺も任務帰りだ。ちょっと顔を出しただけだ」
「ありがとうございます!」
「だから礼を言うなって」
炭治郎が笑う。
そのときだった。
背中の木箱から――。
コトリ。
小さな音がした。
「……!」
炭治郎が振り返る。
「禰豆子?」
木箱の蓋がゆっくり開く。
中から禰豆子が顔を出した。
竹の筒を噛み、眠そうな目を擦りながら周囲を見回す。
そして――。
獪岳と目が合った。
空気が変わった。
炭治郎は咄嗟に妹の前へ立つ。
「待ってください!」
「……」
獪岳は何も言わない。
禰豆子をじっと見つめている。
鬼殺隊の柱。
当然、鬼を斬ることが使命だ。
炭治郎の心臓が早鐘を打つ。
「禰豆子は人を襲いません!」
「……そうか」
「本当です!」
「分かってる」
「え?」
獪岳が眉をひそめた。
「どー臭ぇ顔してんだよ」
「え、臭いですか!?」
「そうじゃねぇ!」
獪岳が額を押さえる。
「お前は何でも真に受けすぎだろ……」
炭治郎は困惑する。
獪岳は禰豆子を見る。
「人を喰ってねぇのは見りゃ分かる」
禰豆子は警戒しながらも、獪岳から目を逸らさない。
獪岳も視線を逸らさない。
「……なるほどな」
低い声で呟く。
「お前、本当に兄貴を守ろうとしてんのか」
「……?」
禰豆子が首を傾げる。
獪岳が一歩近づく。
炭治郎は身構えた。
だが――。
獪岳は刀に手を掛けなかった。
代わりに、禰豆子の頭へ手を伸ばす。
「……!」
ぽん。
荒々しい手が、禰豆子の頭に乗った。
「……?」
禰豆子が目を丸くする。
獪岳は少しだけ気まずそうに顔を背けた。
「馬鹿正直に互いを守りやがって」
その声には、ほんの僅かな優しさが混じっていた。
炭治郎は思った。
この人は、怖い。
口も悪い。
態度も悪い。
だけど――。
やっぱり優しい。
あの雪山で感じた匂いと同じだった。
泥臭いほど強い覚悟。
そして、誰かを死なせたくないという優しさ。
「ほら」
獪岳が懐から布包みを取り出す。
炭治郎の足元へ放り投げた。
「わっ!」
「開けてみろ」
布を開く。
中には干し肉。
薬草。
傷薬。
「……これ」
「任務先でもらった」
「でも、こんなに……」
「お前、身体中傷だらけじゃねぇか」
獪岳は炭治郎の腕を見る。
「その程度でへばってたら鬼殺隊士になる前に死ぬぞ」
「……はい」
「食え」
「はい!」
炭治郎は干し肉を口に入れる。
「美味しい……!」
「そりゃよかったな」
獪岳はそっぽを向いた。
だが――。
禰豆子が干し肉を見ていることに気づく。
「……お前は食えねぇか」
禰豆子が少し寂しそうにする。
獪岳は考え込む。
「……まあ、いい」
懐から小さな布を取り出し、禰豆子の頭をもう一度撫でる。
「人間に戻ったら、その時に食え」
「……!」
禰豆子の目が輝く。
炭治郎の目にも涙が浮かぶ。
「獪岳さん……」
「泣くな」
「でも……!」
「泣いてる暇があるなら強くなれ」
獪岳は立ち上がった。
「炭治郎」
「はい!」
「お前には二つの道がある」
獪岳の表情が真剣になる。
「一つは、妹を人間に戻すために鬼殺隊士になる道」
指を一本立てる。
「もう一つは――途中で諦めて、妹と一緒に追われ続ける道だ」
「……俺は」
炭治郎は拳を握る。
「諦めません」
「即答か」
「絶対に禰豆子を人間に戻します!」
「なら、死ぬな」
獪岳の声が響く。
「鬼殺隊は、強ぇ奴でも死ぬ」
その言葉に炭治郎は黙り込む。
「だからこそ、守りたい奴より先に死ぬな」
獪岳の目が鋭くなる。
「お前が死んだら、禰豆子はどうなる?」
「……!」
「お前一人の命じゃねぇんだ」
炭治郎は禰豆子を見る。
禰豆子も兄を見つめている。
「生きろ」
獪岳は静かに言った。
「泥をすすってでも、生きて強くなれ」
「……はい!」
炭治郎は力強く頷いた。
「それと――」
獪岳が禰豆子を見る。
「もしお前が人を喰ったら、俺が斬る」
禰豆子が唸る。
「……!」
「だが、人を喰わずに最後まで耐えたなら――」
獪岳は僅かに笑った。
「俺が認めてやる」
禰豆子が目を丸くする。
「それに、うちの弟弟子にも会わせてやる」
「弟弟子?」
「ああ」
獪岳が頭を掻く。
「黄色い頭の泣き虫がいる」
「善逸さんですね!」
「知ってんのか?」
「はい。鱗滝さんから聞きました!」
「……あいつ、もう有名なのかよ」
獪岳が苦笑する。
「まあ、悪い奴じゃねぇ。うるせぇけどな」
その瞬間。
「兄貴ぃぃぃぃぃ!!」
突然、家の外から声が響いた。
「……は?」
獪岳が固まる。
「まさか……」
ドタドタドタッ!
勢いよく扉が開いた。
「兄貴ぃぃぃ!」
そこには――。
黄色い髪の少年が立っていた。
「……善逸」
「兄貴ぃ! 会いたかったぁ!」
「来るなら連絡しろ!」
「無理だよ! 師匠が行けって!」
「師匠が?」
善逸は頷く。
「兄貴が竈門っていう新人を気にかけてるって聞いたから!」
「余計なことを……」
獪岳は頭を抱える。
炭治郎は目を輝かせる。
「あなたが善逸さん!」
「えっ!? 俺を知ってるの!?」
「はい!」
「兄貴から聞いた!?」
「いえ!」
「じゃあなんで!?」
「鱗滝さんから!」
「鱗滝さんまで!?」
獪岳は深いため息を吐いた。
「……お前ら、仲良くしろ」
「はい!」
「えっ、俺も!?」
善逸が驚く。
禰豆子が善逸を見つめる。
「……!」
「えっ……鬼の女の子!?」
善逸が後ずさる。
「兄貴、この子鬼だよね!?」
「見りゃ分かるだろ」
「怖っ!」
「だが、人は喰ってねぇ」
「……!」
善逸は禰豆子を見る。
禰豆子も善逸を見る。
「……よろしく?」
善逸が恐る恐る頭を下げる。
禰豆子もぺこりと頭を下げた。
「……かわいい」
「おい」
「はい!」
「惚れるなよ」
「鬼相手に何言ってんの!?」
家の中に、初めて笑い声が響いた。
炭治郎も笑っている。
禰豆子も嬉しそうだ。
そして獪岳は――。
そんな光景を、少し離れた場所から静かに見つめていた。
かつての自分にはなかったもの。
信じられる師。
背中を預けられる仲間。
そして、互いを守ろうとする兄妹。
「……悪くねぇな」
誰にも聞こえないほど小さく呟く。
やがて獪岳は立ち上がった。
「炭治郎」
「はい!」
「明日から修行、もっと厳しくなるぞ」
「……はい!」
「今の十倍は覚悟しろ」
「じゅ、十倍……!」
「嫌ならやめてもいいぞ」
炭治郎は拳を握る。
「やります!」
獪岳は満足そうに笑った。
「その意気だ」
そして翌朝。
狭霧山には、炭治郎の叫び声と――。
「うおおおおおおっ!」
雷鳴のような獪岳の怒声が響き渡ることになる。
これはまだ、始まりに過ぎない。
竈門炭治郎が鬼殺隊士となるまでの、長く険しい道。
その傍らには――。
霹靂の雷を背負った鳴柱と、彼から慈雨のような優しさを受け取った竈門兄妹の姿があった。