寺を離れる日が来た。
朝靄の残る山道。
背中には小さな荷物。
腰には、まだ刀ですらない木刀。
獪岳は寺の門前に立ち、何度も振り返っていた。
「…………」
「獪岳兄ちゃん!」
子供たちが集まっている。
「本当に行っちゃうの?」
「修行するだけだ。死にに行くわけじゃねぇよ」
「でも、寂しい……」
「…………」
獪岳は困ったように頭を掻いた。
「泣くなよ」
「だって……」
「俺だって寂しいんだから」
「え?」
「……何でもねぇ」
子供たちが一斉に抱きついてくる。
「うわっ!」
「獪岳兄ちゃん!」
「帰ってきてね!」
「絶対だよ!」
「分かった、分かった!」
獪岳は一人ずつ頭を撫でた。
そして最後に。
「ちゃんと悲鳴嶼さんの言うこと聞けよ」
「はーい!」
「喧嘩するなよ」
「はーい!」
「飯はちゃんと食え」
「獪岳兄ちゃんみたい!」
「俺みたいになるな!」
思わず笑いが起こる。
少し離れた場所では、悲鳴嶼行冥が静かに見守っていた。
獪岳は子供たちから離れ、悲鳴嶼の前に立つ。
「悲鳴嶼さん」
「うむ」
「行ってきます」
「ああ」
「必ず強くなって帰ってきます」
「楽しみにしている」
「……それと」
獪岳は少しだけ照れ臭そうに言った。
「ちゃんと、家族のところに帰ってきます」
悲鳴嶼の目から涙が零れた。
「……ああ」
大きな手が、獪岳の頭に乗る。
「行っておいで。我が息子よ」
「…………」
獪岳は一瞬、固まった。
「……その呼び方、反則ですよ」
「そうか?」
「帰りたくなくなっちまうじゃねぇですか」
そう言いながら。
獪岳は笑った。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ」
獪岳は山道を歩き始めた。
何度も振り返る。
寺が小さくなっていく。
子供たちが手を振っている。
悲鳴嶼も。
ずっと立っている。
「…………」
獪岳は前を向いた。
「よし」
ここからが、本当の始まりだ。
――雷の呼吸を極める。
そのために。
自分には師匠が必要だった。
そして。
原作知識にある人物の名を思い浮かべる。
「桑島慈悟郎」
元・鳴柱。
雷の呼吸を受け継ぐ育手。
そして――。
善逸の師匠。
「……俺の師匠になる人か」
獪岳は拳を握った。
「絶対に、気に入られる」
いや。
少し違う。
「……認めさせる」
獪岳らしい決意だった。
◇
数日後。
山道を進んでいた獪岳は、奇妙な建物を見つけた。
古びた家。
その前に、一人の老人が立っている。
背筋は伸びている。
右脚には義足。
鋭い眼光。
獪岳は足を止めた。
「……あれが」
原作知識と一致する。
「桑島慈悟郎……」
老人がこちらを見る。
「む?」
獪岳は深く頭を下げた。
「突然すみません」
「何者じゃ」
「獪岳と申します」
「…………」
「雷の呼吸を学びたい」
桑島の眉が動いた。
「雷の呼吸?」
「ああ」
「お前、誰に教わった」
「まだ誰にも」
「ならば、なぜ雷の呼吸を知っておる?」
獪岳は一瞬、言葉に詰まった。
「…………」
前世の知識がある。
だが。
それを言うわけにはいかない。
「以前、鬼と戦った時に……」
獪岳は慎重に言葉を選ぶ。
「雷のような速度で動く剣士を見たことがあります」
「ほう」
「その剣技を、自分も身につけたいと思いました」
桑島はじっと獪岳を見る。
「……嘘ではないようじゃな」
「嘘は言ってません」
「しかし」
桑島が近づく。
「お前の目には、妙なものがある」
「妙なもの?」
「焦りじゃ」
獪岳の表情が固まる。
「…………」
「何かに追われておる」
「…………」
「未来か?」
「!」
獪岳の心臓が跳ねた。
「……何で」
「顔に出ておる」
桑島は鼻を鳴らす。
「若造が、そんな顔をするな」
「…………」
「強くなりたい理由を話してみろ」
獪岳は黙り込んだ。
何と言えばいい。
「鬼を倒したい」
それだけでは足りない。
「柱になりたい」
それも違う。
本当の理由は――。
「……守りたいんです」
「何を?」
「家族を」
桑島の目が僅かに細くなる。
「家族?」
「はい」
獪岳は寺での出来事を話した。
鬼が来たこと。
子供たちを守ったこと。
悲鳴嶼と家族になったこと。
そして。
「俺は……もう、誰も失いたくない」
拳を握る。
「だから強くなりたい」
桑島はしばらく黙っていた。
やがて。
「……そうか」
老人は背を向けた。
「ついてこい」
「え?」
「修行をつけてやる」
獪岳の目が見開かれる。
「いいんですか?」
「勘違いするな」
桑島が振り返る。
「お前に才能があるかどうかは、まだ分からん」
「…………」
「雷の呼吸は甘くない」
「分かってます」
「死ぬほど苦しいぞ」
「望むところです」
「泣くぞ」
「泣きません」
「逃げるかもしれん」
「逃げません」
桑島がニヤリと笑った。
「ならば来い」
「はい!」
獪岳は力強く返事をした。
しかし。
家に入った瞬間。
「……む?」
獪岳は足を止めた。
「どうした?」
「誰かいます?」
「弟子がおる」
「弟子?」
その瞬間。
家の奥から。
「じいちゃん! 腹減ったー!」
少年の声が響いた。
黄色い髪。
眠そうな目。
そして。
獪岳の知っている顔。
「…………」
「…………」
二人の目が合う。
「誰?」
「…………」
獪岳は思った。
――来た。
原作では。
この少年と自分は、決して良好な関係ではなかった。
互いに反発し。
互いを見下し。
最後には――。
だが。
「お前、名前は?」
少年が尋ねる。
獪岳は答えた。
「獪岳」
「へぇ……俺、我妻善逸」
善逸は獪岳をじっと見る。
そして。
「なんか……怖い人だね」
「…………」
獪岳の眉がピクッと動く。
「初対面でそれ言うか?」
「だって怖い顔してるし!」
「……お前な」
思わずため息。
だが。
次の瞬間。
善逸の腹が。
ぐぅぅぅぅ。
「…………」
「…………」
「……飯、食うか?」
「食べる!」
即答だった。
「じいちゃん!」
「何じゃ」
「この人、いい人!」
「判断が早すぎるじゃろうが!」
桑島の怒声が飛ぶ。
獪岳は思わず吹き出した。
「……ははっ」
善逸が目を丸くする。
「笑った」
「うるせぇ」
「やっぱり笑うんじゃん!」
「黙れ」
「兄ちゃん!」
「……誰が兄ちゃんだ」
「だって俺より年上っぽいし!」
獪岳は頭を抱えた。
「……こいつ、本当に善逸かよ」
原作とは違う。
未来は。
もう少しずつ変わり始めている。
獪岳は善逸を見る。
「……まあ、いい」
「何が?」
「俺が兄貴になってやる」
「え?」
「雷の呼吸も教えてやる」
「ほんと!?」
「ただし」
獪岳は善逸の額を指で小突いた。
「泣き言は禁止だ」
「えええええ!?」
「嫌なら帰れ」
「帰らない!」
「なら鍛える」
「……はい!」
善逸は怯えながらも頷いた。
桑島はその様子を見て。
小さく笑った。
「……面白いことになりそうじゃのう」
こうして。
転生獪岳と我妻善逸。
後に雷の呼吸を担う二人の兄弟弟子としての物語が始まった。
そして獪岳自身の、長く険しい修行の日々も。
ここから始まる。
【大正コソコソ噂話】
桑島慈悟郎の家に来た初日。
獪岳と善逸は、食事の席で早速揉めた。
「その漬物、俺のだぞ!」
「兄貴なんだから弟に譲ってよ!」
「いつから俺がお前の兄貴になった!」
「さっき言ったじゃん!」
「…………」
「兄ちゃん!」
「……勝手にしろ」
すると桑島が一言。
「仲が良いのう」
「「どこが!?」」
二人の声が見事に重なった。
しかし翌朝。
善逸が寝坊すると、獪岳は――。
「起きろ、善逸!」
「あと五分……」
「修行に遅れたら置いてくぞ!」
「やだぁ!」
「なら起きろ!」
布団を剥ぎ取って叩き起こした。
この日から善逸は獪岳を、
「怖いけど頼れる兄貴」
と認識するようになったという。
なお獪岳本人は、
「俺は兄貴じゃねぇ!」
と最後まで否定していた。
――大正コソコソ噂話・終。