夜の帳が降りた浅草は、昼間とはまるで別の顔を見せていた。
街灯が石畳を照らし、店先から漏れる明かりが人々の顔を浮かび上がらせる。
行き交う人々。
笑い声。
屋台から漂う食べ物の匂い。
大正の文明開化を象徴するような華やかな街並み。
その人波の中を、竈門炭治郎は一人で歩いていた。
「……すごい人だな」
山で暮らしていた炭治郎にとって、浅草は何もかもが新鮮だった。
電灯。
洋装の人々。
自動車。
聞き慣れない音。
そして――。
「……うどん、美味しそうだな」
屋台から漂ってくる香りに、炭治郎の腹が小さく鳴った。
「少しだけなら……」
財布を取り出し、屋台の椅子へ腰掛ける。
「すみません、うどん一杯ください!」
「へい!」
湯気の立つどんぶりが目の前に置かれる。
炭治郎は箸を手に取った。
その瞬間だった。
「……!」
鼻を刺すような悪臭が、突然、街の空気を塗り替えた。
炭治郎の表情が凍りつく。
(この匂い……!)
忘れるはずがない。
あの日。
家族を奪った鬼。
母を。
弟たちを。
妹を鬼へ変えた元凶。
(鬼舞辻無惨……!)
炭治郎は椅子を蹴るように立ち上がった。
「すみません!」
「お、おい! 兄ちゃん、うどんは!?」
どんぶりを置き去りにして、人混みへ飛び込む。
匂いを追う。
人々の間をすり抜ける。
路地を曲がる。
そして――。
大通りへ出た。
炭治郎は息を呑んだ。
そこに、一人の男が立っていた。
黒いシルクハット。
洋装。
上品な身なり。
腕には幼い子供。
隣には美しい女性。
一見すれば、どこにでもいる人間の家族だった。
しかし――。
(間違いない)
炭治郎の鼻が叫んでいる。
(こいつだ……!)
鬼舞辻無惨。
鬼の始祖。
炭治郎の家族を奪った男。
無惨が、ふと振り返った。
赤い瞳が炭治郎を捉える。
「……」
ほんの一瞬。
二人の視線が交差した。
炭治郎の全身が凍りついた。
(怖い……!)
これまで戦ってきた鬼とは、まるで違う。
強さの次元が違う。
近づくことすら危険だと、本能が告げている。
「鬼舞辻……無惨……!」
炭治郎が刀の柄に手を掛ける。
しかし――。
無惨は炭治郎など気にする様子もなく、隣を歩いていた男性とすれ違う。
その瞬間。
無惨の手が僅かに動いた。
爪が男の首筋を掠める。
「……?」
男が振り返る。
無惨は既に歩き去っていた。
そして数秒後。
「う……」
男の身体が震え始める。
「うあああああっ!」
悲鳴が上がった。
「きゃあああっ!」
妻が逃げようとする。
だが、男は理性を失ったように妻へ襲いかかった。
「やめて!」
「離して!」
街が騒然となる。
炭治郎は即座に駆け出した。
「やめろ!」
男を押さえ込む。
「しっかりしてください!」
だが、力が強すぎる。
「くっ……!」
炭治郎が歯を食いしばる。
「禰豆子!」
箱から禰豆子が飛び出す。
「禰豆子、この人を押さえてくれ!」
「ムーッ!」
禰豆子が男を押さえ込む。
炭治郎は周囲の人々へ叫ぶ。
「離れてください! 巻き込まれます!」
しかし――。
その瞬間。
ドドドドドドッ!!
遠くから地響きが近づいてきた。
「……何だ!?」
次の瞬間。
ドォンッ!!
青白い雷光が浅草の夜空を切り裂いた。
「――雷の呼吸!」
雷鳴。
一瞬で何本もの青白い斬撃が走る。
暴れていた男の四肢を、傷つけることなく地面へ縫い留めた。
「ぐあっ!」
「動くな!」
煙の向こうから声が響く。
炭治郎は目を見開いた。
「この雷……!」
やがて煙が晴れる。
そこに立っていたのは――。
黒地の隊服。
雷を思わせる意匠の羽織。
薄青い装飾。
そして、青白い雷光を纏った日輪刀。
「獪岳さん!」
鳴柱・獪岳。
「けッ……」
獪岳は周囲を見回す。
「相変わらず悪趣味な擬態してやがるな、鬼舞辻無惨」
炭治郎が振り返る。
だが――。
そこに無惨の姿はなかった。
「無惨は!?」
「逃げた」
「えっ!?」
「俺が来るのが少し遅かったみてぇだな」
獪岳が舌打ちする。
だが、その目は鋭い。
「……いや」
獪岳は周囲を見回す。
そして、人混みの向こうを見る。
無惨の姿はない。
しかし、気配だけが残っている。
「間違いねぇ」
獪岳の声が低くなる。
「鬼舞辻無惨だ」
炭治郎は震えながら尋ねる。
「獪岳さん……あいつが……俺の家族を……」
「ああ」
獪岳は短く答えた。
「鬼の始祖だ」
その言葉だけで、炭治郎の拳が震える。
「……俺は、あいつを……」
「今のお前じゃ無理だ」
即答だった。
「……!」
獪岳は炭治郎の肩へ手を置く。
「悔しいか?」
「……はい」
「なら覚えとけ」
獪岳の目が鋭く光る。
「怒りだけで刀を振るな。怒りを力に変えろ」
「……」
「今は奴を追うより、目の前の人間を助けろ」
炭治郎ははっとする。
目の前では、無惨に血を与えられた男が苦しんでいる。
妻も子供も泣いている。
「……はい!」
炭治郎はすぐに行動を始めた。
禰豆子と共に男を押さえ、安全な場所へ移動させる。
獪岳も周囲の人々を誘導する。
「おい、そこの兄ちゃん! 人を集めるな!」
「はい!」
「怪我人を優先しろ!」
「分かりました!」
やがて騒ぎが少しずつ収まっていく。
そのときだった。
「……こんばんは」
穏やかな女性の声が響いた。
炭治郎が振り返る。
そこには一人の女性が立っていた。
紫色の着物。
穏やかな微笑み。
その隣には、警戒心を剥き出しにした少年。
「……鬼?」
炭治郎が息を呑む。
女性――珠世は静かに頭を下げた。
「初めまして」
獪岳は特に驚く様子もなかった。
「珠世か」
「お久しぶりですね、鳴柱様」
「しのぶから話は聞いてる」
炭治郎が獪岳を見る。
「知り合いなんですか?」
「ああ」
獪岳は腕を組む。
「人を喰わねぇ鬼だ」
珠世が驚いたように目を見開く。
「……そこまでご存じでしたか」
「胡蝶姉妹が調べてる」
獪岳は珠世を見る。
「それに――」
禰豆子を見る。
「こいつを人間に戻せる可能性があるんだろ?」
珠世の表情が変わる。
「……禰豆子さんを?」
「そうだ」
獪岳が炭治郎を見る。
「こいつは妹を人間に戻したい」
炭治郎が頭を下げる。
「お願いします!」
珠世はしばらく炭治郎を見る。
そして優しく微笑んだ。
「分かりました」
「本当ですか!?」
「はい。私も鬼を人間に戻す方法を探しています」
愈史郎が口を挟む。
「珠世様! この男を信用していいんですか!?」
「愈史郎」
「……はい」
「この方たちは信用できます」
獪岳が鼻を鳴らす。
「話が早くて助かる」
「鳴柱様も、鬼である私を信用してくださるのですね」
「信用してるわけじゃねぇ」
獪岳は即答する。
「お前が何をしてきたか、何をしようとしてるかを見てるだけだ」
「……なるほど」
珠世は微笑んだ。
「とても誠実な方なのですね」
「褒めてねぇだろ」
「ふふ」
そのやり取りを見て、炭治郎は少しだけ驚いた。
鬼と鬼殺隊の柱。
本来なら決して交わるはずのない二つの存在。
それでも――。
禰豆子を救うための道が、確かに存在している。
獪岳は炭治郎の肩を叩いた。
「炭治郎」
「はい」
「今日はいい判断だった」
「……!」
「無惨を追わず、人間を助けた」
獪岳は僅かに笑う。
「それでいい」
炭治郎の胸が熱くなる。
「ありがとうございます!」
「礼はいらねぇ」
「でも……!」
「うるせぇ」
獪岳はそっぽを向く。
だが、その横顔はどこか満足そうだった。
やがて、浅草の街に再び静けさが戻ってくる。
炭治郎は夜空を見上げた。
無惨は逃げた。
まだ何も終わっていない。
むしろ、ここからが始まりだ。
「……獪岳さん」
「あ?」
「俺、絶対に強くなります」
獪岳は振り返る。
「そして、いつか……鬼舞辻無惨を倒します」
「……そうか」
獪岳は少しだけ目を細めた。
「なら、死ぬほど鍛えろ」
「はい!」
「ただし――」
獪岳は炭治郎の額を軽く小突く。
「死ぬな」
「……はい!」
「お前が死んだら、禰豆子が悲しむ」
炭治郎は禰豆子を見る。
禰豆子は兄の袖をぎゅっと握った。
「……そうだな」
炭治郎は強く頷いた。
「俺は、生きます」
獪岳は背を向けた。
「それでいい」
夜空の向こうで、雷が小さく鳴った。
それは鬼の王への宣戦布告ではない。
まだ未熟な少年が、いつかその夜を越えるための――。
最初の雷鳴だった。
そしてその雷の先には、炭治郎たちを待つ新たな出会いがある。
人を救う鬼。
鬼を憎みながらも、鬼となった者を救おうとする者。
そして――。
全ての鬼の頂点に立つ、鬼舞辻無惨。
炭治郎の旅は、少しずつ大きな戦いへと繋がっていく。
浅草の夜。
その片隅で、獪岳は静かに拳を握った。
「……次は逃がさねぇぞ」
その瞳に宿るのは、霹靂のような怒り。
そして――。
仲間を守り抜くための、確かな覚悟だった。