浅草の喧騒から離れた、静かな裏通り。
炭治郎は珠世に案内され、血鬼術によって人の目から隠された屋敷へと入っていた。
外から見れば、そこに屋敷があることすら分からない。
しかし一歩中へ入れば、そこには清潔に整えられた診察室があり、薬品の匂いが漂っていた。
「ここが……」
炭治郎が辺りを見回す。
禰豆子も興味深そうに周囲を見ている。
その隣では、鳴柱・獪岳が腕を組みながら畳の上に座っていた。
「……なるほどな」
獪岳は室内を見渡す。
「鬼の屋敷って聞いて、もっと陰気臭ぇ場所かと思ってたが……随分とまともじゃねぇか」
「当然です」
静かな声が返ってくる。
珠世だった。
鬼でありながら人間を診察し、病を治す医者。
その隣には、従者の愈史郎が控えている。
愈史郎は獪岳を睨みつけた。
「珠世様の屋敷をそのような言い方で評価するとは……! 無礼な男だ!」
「あ?」
獪岳の眉が跳ね上がる。
「何だ、てめぇ」
「私は珠世様の――」
「愈史郎」
「はい!」
珠世の一言。
それだけで愈史郎は背筋を伸ばし、即座に正座した。
「……失礼いたしました」
炭治郎は思わず目を瞬かせる。
「……」
禰豆子も愈史郎を見る。
獪岳は呆れた顔で鼻を鳴らした。
「お前、随分と素直だな」
「珠世様のお言葉だから当然だ!」
「はいはい」
「何だその態度は!」
「愈史郎」
「はい……!」
再び静かになる。
炭治郎は思わず笑いそうになった。
そして鼻を小さく動かす。
(……なんだろう)
この屋敷には、鬼の気配がある。
けれど、不思議と嫌な匂いではない。
珠世から感じるのは、深い悲しみと罪悪感。
そして――。
誰かを救いたいという、優しい匂いだった。
「竈門さん」
珠世が炭治郎へ向き直る。
「先ほどは無惨の追手から守っていただき、ありがとうございました」
「いえ!」
炭治郎は慌てて頭を下げる。
「俺は何も……獪岳さんが来てくれたから!」
「俺のことはどうでもいい」
獪岳が口を挟む。
「話を進めろ」
「はい」
珠世は微笑んだ。
「私は以前から、胡蝶しのぶ様と鬼を人間に戻す薬について研究を続けています」
炭治郎の目が大きくなる。
「しのぶさんと?」
「ああ」
獪岳が頷く。
「しのぶは昔から薬学に詳しい。カナエと一緒に鬼を殺すだけじゃなく、救う方法まで探してる」
「……そうなのですね」
珠世が静かに頷く。
「胡蝶しのぶ様は、とても聡明な方です。文を通じて何度も意見を交換してきました」
「俺の恋人は優秀だからな」
「……」
炭治郎が固まった。
「こ、恋人……?」
「あ?」
「獪岳さんと、しのぶさんが……?」
「何を驚いてんだ」
「い、いえ!」
獪岳は少しだけ顔を背けた。
「……まあ、そういう関係だ」
炭治郎は少し嬉しそうに笑った。
「そうだったんですね」
「ニヤニヤすんな」
「すみません!」
珠世はそんな二人を微笑ましそうに眺めた。
そして――。
視線を禰豆子へ向ける。
「では、禰豆子さんについてお話ししましょう」
禰豆子が顔を上げる。
「ムー?」
「禰豆子さんの血を調べさせていただきたいのです」
「もちろんです!」
炭治郎は即答した。
「この子が人間に戻れるなら、何でも協力します!」
「ありがとうございます」
珠世は頷く。
「禰豆子さんは普通の鬼とは大きく異なっています」
「異なる?」
「ええ。人を喰わず、長期間眠ることで生命を維持している。そして、鬼でありながら人間を守ろうとしている」
珠世は禰豆子を見つめる。
「その血には、鬼を人間へ戻すための研究に役立つ可能性があります」
「本当ですか!?」
「はい。ただし――」
珠世の表情が真剣になる。
「一つ、問題があります」
「問題?」
「より強い鬼の血が必要なのです」
炭治郎が息を呑む。
「強い鬼……」
「はい」
珠世は静かに告げる。
「鬼舞辻無惨の血を濃く受け継いだ鬼――十二鬼月」
「十二鬼月……!」
炭治郎の拳が強く握られる。
その隣で獪岳は――。
「……上等じゃねぇか」
ニヤリと笑った。
「それなら話は早ぇ」
「獪岳さん?」
「上弦でも下弦でも構わねぇ」
獪岳が腰の刀へ手を置く。
「出てきた奴から叩き斬って、血を採ってやる」
「ですが、十二鬼月は非常に危険です」
「知ってる」
獪岳の声が低くなる。
「だから俺が行くんだよ」
その瞳には一切の迷いがない。
「しのぶにも血を届けてやる。二人で研究すりゃ、禰豆子を人間に戻す薬に近づけるだろ」
「……獪岳さん」
炭治郎の胸が熱くなる。
言葉は乱暴。
態度も悪い。
しかし、その根底には確かな優しさがある。
「ありがとうございます」
「あ?」
「禰豆子のために、そこまで……」
「勘違いすんな」
獪岳は炭治郎の頭を軽く小突いた。
「俺はな、守るって決めた奴を途中で見捨てるのが嫌いなんだよ」
「……!」
「お前も禰豆子も、もう俺の知ってる奴だ」
炭治郎は目を潤ませる。
「はい!」
「泣くな」
「はい!」
「返事だけはいいな、お前」
獪岳が呆れたように笑った。
その時だった。
――ゴゴゴゴゴゴッ!!
「……?」
地面が揺れた。
珠世が顔を上げる。
「まさか……」
愈史郎が叫んだ。
「珠世様!」
次の瞬間。
ドガァァァン!!
屋敷の壁が吹き飛んだ。
「うわああっ!」
炭治郎が禰豆子を庇う。
巨大な手毬が柱を粉砕しながら部屋へ飛び込んできた。
「ハハハハハ!」
甲高い笑い声。
屋根の上から女の鬼が姿を現す。
「見つけたぞ!」
その鬼――朱紗丸は、楽しそうに笑っていた。
「鬼舞辻様のお命じになられた首を!」
続いて、壁の向こうから男の鬼が姿を現す。
両手の掌には不気味な目。
矢印が空間を歪めるように浮かび上がる。
「珠世……」
矢琶羽が低く呟く。
「貴様らを逃がすわけにはいかぬ」
獪岳の表情が一瞬で変わった。
「……チッ」
日輪刀を抜く。
青白い雷光が刀身を包む。
「嗅ぎつけてきやがったか」
朱紗丸が巨大な手毬を投げつける。
「遊びましょう!」
獪岳が一歩踏み出した。
ズドォン!!
雷光が爆発する。
飛来した手毬が空中で弾かれ、壁へ叩きつけられる。
「なっ!?」
朱紗丸が目を見開く。
「お前……!」
「柱だよ」
獪岳は刀を構える。
「鳴柱・獪岳」
雷鳴が響く。
「てめぇらみたいな雑魚に名乗る必要もねぇけどな」
「何だとぉ!」
朱紗丸が怒り狂う。
無数の手毬が空中へ浮かぶ。
「愈史郎!」
「はい!」
「珠世さんを頼む!」
炭治郎が叫ぶ。
「獪岳さん!」
「炭治郎!」
獪岳が振り返る。
「お前はあの矢印野郎をやれ!」
「俺が……?」
「あいつの術は方向を操る。まともに喰らえば吹っ飛ばされるぞ」
「はい!」
「頭を使え!」
「はい!」
「それと――」
獪岳は禰豆子を見る。
「妹を死なせるな」
「もちろんです!」
炭治郎が刀を抜く。
「禰豆子!」
「ムーッ!」
二人が同時に飛び出した。
矢琶羽の矢印が空間を歪める。
「吹き飛べ!」
「うわああっ!」
炭治郎の身体が弾かれる。
しかし――。
「まだだ!」
炭治郎は木を蹴り、方向を変える。
獪岳はその姿を見て、僅かに笑った。
「そうだ。それでいい」
朱紗丸が手毬を投げる。
「死ねぇぇぇ!」
「遅ぇ!」
獪岳の身体が雷光へ変わる。
「雷の呼吸――」
青白い光が屋敷を駆け抜ける。
「壱ノ型・霹靂一閃!」
ズガァァァン!!
一閃。
巨大な手毬が真っ二つに斬り裂かれる。
「なっ……!」
朱紗丸が驚愕する。
「手毬が……!」
「お前の玩具は俺には届かねぇよ」
獪岳の目が鋭く光る。
「さて――」
雷光がさらに膨れ上がる。
「てめぇらの血、禰豆子を救うために使わせてもらうぞ」
屋敷の中に雷鳴が轟いた。
珠世は静かに禰豆子を見る。
「……この方なら」
小さく呟く。
「本当に、この兄妹を守ってくれるのかもしれませんね」
愈史郎が頷く。
「はい。あの男……口は悪いですが」
外から轟音が響く。
「……間違いなく、強い」
そして炭治郎もまた、初めて実戦で獪岳と肩を並べていた。
恐怖に震えながらも、刀を握る。
妹を守るため。
そして――。
人間に戻る可能性を掴むため。
「行くぞ、禰豆子!」
「ムーッ!」
竈門兄妹の反撃が始まった。
その先頭に立つのは、霹靂の雷を纏った鳴柱。
獪岳だった。