ポン――。
ポポンッ――。
鼓の音が、屋敷全体を震わせていた。
畳が回転する。
壁が床へ変わる。
床が天井へ変わる。
目まぐるしく姿を変える異様な屋敷の中で、竈門炭治郎は必死に足を踏ん張っていた。
「くっ……!」
ポンッ!
また部屋が回転する。
炭治郎の身体が大きく傾いた。
その瞬間――。
ザシュッ!
「ぐあっ!」
見えない爪のような斬撃が炭治郎の肩を切り裂いた。
血が畳へ飛び散る。
「炭治郎!」
禰豆子の入った箱を守りながら、炭治郎は歯を食いしばった。
「大丈夫だ……!」
屋敷の奥。
幾つもの鼓を身体に生やした鬼が、苦しげに息を吐いている。
響凱。
かつて十二鬼月・下弦の陸にまで上り詰めながら、その地位を剥奪された鬼だった。
「小生は……」
響凱の手が、自らの身体にある鼓へ伸びる。
「小生は、認められねばならぬ……!」
ポンッ!
鼓が鳴る。
「もっと……もっと力を示さねばならぬ!」
ポポンッ!
再び屋敷が回転する。
響凱の瞳には、狂気にも似た執念が宿っていた。
「鬼舞辻様に……!」
かつて自分が書いた原稿。
血の滲むほど文字を綴った紙。
何度も書き直し、何度も推敲し、いつか誰かに認めてもらえると信じていた。
しかし――。
『つまらぬ』
その一言。
そして、踏みにじられた原稿。
その記憶が、響凱の胸を何度も抉っていた。
「小生の存在を……小生の価値を……!」
炭治郎は響凱を見つめる。
「……あなたは」
「何だ!」
「何かを認めてもらいたかったんですね」
「黙れ!」
響凱が鼓を叩く。
「貴様に何が分かる!」
不可視の斬撃が飛ぶ。
炭治郎は刀で受け流す。
「くっ……!」
しかし、次の瞬間。
ポンッ!
部屋が回転する。
「しまっ――」
炭治郎が体勢を崩した。
その時だった。
――ドォォォン!!
凄まじい轟音が屋敷を揺らした。
「なっ……!?」
天井が吹き飛ぶ。
瓦礫と共に、青白い雷光が降り注いだ。
ズドンッ!!
一人の青年が、雷を纏って着地する。
黒地に雷の意匠。
首元には薄青い装飾。
腰には日輪刀。
「……おい」
獪岳だった。
「随分とうるせぇ屋敷だな」
「獪岳さん!」
炭治郎の表情が明るくなる。
「なぜここに……!」
「本部への報告で近くまで来てたんだよ」
獪岳は周囲を見渡す。
「そしたら鼓の音がうるせぇうるせぇ。しまいには、てめぇの悲鳴まで聞こえやがった」
「すみません……」
「謝ってる暇があったら立て」
「はい!」
獪岳は響凱へ視線を向ける。
「お前が元十二鬼月か」
「……鳴柱」
響凱の顔が強張る。
「なぜ柱が……」
「通りすがりだ」
獪岳は鼻を鳴らす。
「だが――」
その視線が、床へ落ちた。
血に濡れた紙。
破れた原稿。
獪岳は無言でそれを拾い上げた。
紙についた血を軽く払う。
「……原稿か」
「触るな!」
響凱が叫んだ。
獪岳は紙を見つめる。
そこには、乱れた文字がびっしりと書かれていた。
「これ、お前が書いたのか」
「……そうだ」
「何で書いてた」
「……」
響凱は答えない。
獪岳は紙を握り潰さなかった。
むしろ、丁寧に折れ目を伸ばす。
「認めてほしかったんだろ」
「……!」
響凱の目が大きく見開かれた。
「自分の書いたものを」
獪岳の声は静かだった。
「自分が積み重ねてきたものを」
炭治郎も黙って二人を見つめている。
「誰かに『価値がある』って言ってほしかった」
「……やめろ」
「踏みにじられて、悔しかった」
「やめろ!」
「惨めだった」
「黙れ!」
響凱が怒鳴る。
だが、獪岳は一歩も引かない。
「……分かるぜ」
「何……?」
「俺も昔は、認められたくて仕方なかった」
獪岳の拳が強く握られる。
「自分には価値があるって証明したかった」
炭治郎が獪岳を見る。
獪岳の過去について詳しくは知らない。
けれど、その言葉に込められた重みだけは伝わった。
「泥をすすってでも、生き残ってやるって足掻いた」
獪岳は響凱を見る。
「だから、お前の気持ちを笑うつもりはねぇ」
「……!」
「自分の作品を大切にしたかったことも、認められたかったことも、恥じゃねぇ」
響凱の瞳が揺れる。
「だったら……!」
獪岳の声が鋭くなる。
「その執念を、人を喰う理由にするんじゃねぇよ」
「……!」
「踏みにじられたなら、自分の足で立て」
獪岳が刀の柄に手を置く。
「泥をすすってでも、何度でも書けばいい」
「……」
「それでも認められねぇなら――」
獪岳は原稿を響凱へ向けた。
「それでも書き続けろ」
「……!」
「他人の命を奪って、自分の価値を証明した気になるな」
響凱の身体が震える。
「小生は……」
そして――。
「小生は……!」
怒りと悲しみが入り混じった咆哮が屋敷を揺らした。
「小生の文字を愚弄するなぁぁぁぁ!!」
ポンッ!!
ポポポポポンッ!!
鼓が激しく鳴り響く。
屋敷が猛烈な速度で回転する。
無数の斬撃が四方八方から襲いかかる。
「炭治郎!」
「はい!」
「下がってろ!」
獪岳が前へ出る。
「これは俺が終わらせる」
炭治郎は頷いた。
「分かりました!」
獪岳が目を閉じる。
呼吸を整える。
雷が身体中を駆け巡る。
「雷の呼吸――」
ズズズズズ……。
空気が震える。
「漆ノ型――」
青白い光が屋敷を包み込む。
「帝釈天」
――ドォォォォン!!
九頭の雷龍が現れた。
「な……!」
響凱が息を呑む。
九つの雷龍が、あらゆる方向から襲い来る斬撃を包囲する。
右。
左。
正面。
背後。
上空。
地下。
逃げ場はない。
響凱が鼓を叩く。
ポンッ!!
しかし――。
雷龍がその力を飲み込んでいく。
「小生の血鬼術が……!」
空間そのものが雷光に包まれる。
「完全に……!」
獪岳が一歩踏み込む。
「終わりだ」
閃光。
一瞬だった。
響凱の首が宙を舞う。
回転していた屋敷が静止する。
鼓の音が止まった。
静寂。
響凱は、自分の身体を見下ろす。
「小生の……血鬼術が……」
身体が灰へ変わっていく。
「敗れ……た……」
その時。
獪岳が静かに口を開いた。
「……だが」
響凱が顔を上げる。
「お前が文字を綴り続けた執念まで、俺は否定しねぇ」
「……!」
「最後まで捨てなかった誇りもな」
獪岳は床に落ちている原稿を見る。
「技も見事だった」
「……」
響凱の瞳から、大粒の涙が落ちた。
「……認め……」
声が震える。
「認めて……くれるのか……」
「ああ」
獪岳は頷いた。
「少なくとも俺は、お前が何かを積み上げようとしたことまで馬鹿にしねぇ」
「……!」
響凱は震える唇を動かす。
「小生は……」
涙が頬を伝う。
「小生は……生きて……いた……」
「ああ」
「文字を……書いて……」
「ああ」
「認めて……ほしかった……」
「……分かってる」
その言葉を最後に、響凱の身体が灰となって崩れ落ちた。
残ったのは――。
一枚の原稿だけだった。
炭治郎はしばらく黙っていた。
「獪岳さん……」
「あ?」
「鬼にも……守りたかったものがあったんですね」
獪岳は少しだけ考える。
「そういう奴もいる」
「……」
「だからって、人を喰った罪が消えるわけじゃねぇ」
獪岳は刀を収める。
「ただ、最後まで何もかも否定する必要もねぇだろ」
炭治郎は頷いた。
「はい」
獪岳が炭治郎の頭をバシッと叩く。
「痛っ!」
「何ボーッとしてやがる」
「え?」
「善逸と伊之助の馬鹿どもを回収するぞ」
「あ……!」
炭治郎が慌てて振り返る。
「そうでした!」
「ったく」
獪岳が歩き出す。
「お前ら三人揃って、放っとくと何しでかすか分からねぇからな」
「獪岳さん!」
「何だ」
「ありがとうございました!」
獪岳は振り返らない。
「礼なんかいらねぇ」
ただ、僅かに口元を緩める。
「生きて帰ってこい。それだけでいい」
炭治郎は力強く頷いた。
「はい!」
屋敷を出る二人。
その背後には、静かに朝の光が差し始めていた。
そして床に残された一枚の原稿だけが、響凱という鬼が最後まで抱き続けた「誇り」の証として、淡い朝日に照らされていた。