鼓屋敷での死闘から数日。
夜が明け、朝の柔らかな日差しが差し込む頃。
竈門炭治郎たちは、藤の花の香りに包まれた静かな屋敷で治療を受けていた。
鬼殺隊士を癒やすために用意された、藤の家紋の家。
庭には紫色の藤が咲き誇り、風が吹くたびに甘い香りが縁側まで漂ってくる。
「うぐぐ……」
布団の上で、炭治郎がゆっくり身体を起こす。
「まだ肋骨が痛い……」
「無理に起きるな、炭治郎」
隣の布団から善逸が顔を出す。
「そうだよ! 骨折してるんだから大人しく寝てようよ!」
「お前に言われたくないぞ、善逸」
「なんで!?」
その隣では、伊之助が大量の煎餅を頬張っていた。
「おい、黄色!」
「何だよ!」
「この煎餅、もっと寄越せ!」
「嫌だよ! 俺の分だぞ!」
「弱肉強食だ!」
「ここは山じゃねぇんだよ!」
「うるせぇぞ、バカども」
低い声が響いた。
三人が同時に振り返る。
そこには、縁側に腰を下ろした青年がいた。
黒地に雷の意匠を施した羽織。
腰には日輪刀。
そして、鋭い目つき。
鳴柱・獪岳。
その手には茶菓子と湯飲みを載せた盆があった。
「獪岳さん!」
炭治郎の顔がぱっと明るくなる。
「ようやく起きやがったか」
獪岳は盆を置く。
「お前ら、昨日まで死にかけてたんだぞ。少しは静かに寝てろ」
「すみません……」
「炭治郎はまだマシだ」
獪岳が善逸を見る。
「善逸」
「はいっ!」
「お前は?」
「はい……?」
「何で布団の中で震えてんだ」
「だってぇぇぇ!」
善逸が泣きそうな顔になる。
「鬼と戦うんだよ!? 俺、鼓屋敷でも死ぬかと思ったんだよ!? なのに次の任務でもまた鬼が出るんでしょ!? 怖いよぉぉぉ!」
「……はぁ」
獪岳は深いため息をつく。
「怖いなら怖いでいい」
「え?」
「だが、怖いからって仲間を見捨てるな」
善逸の表情が変わる。
獪岳は少しだけ目を細めた。
「お前はあの夜、禰豆子の箱を守っただろ」
「……!」
「鬼だと知っても、炭治郎の妹だからって理由だけで身体張って守った」
「俺……」
「そこは立派だ」
獪岳は善逸の頭を軽く叩く。
「だから、泣くなとは言わねぇ。怖がってもいい」
「……兄貴」
「ただし、最後には立て」
善逸の目に涙が浮かぶ。
「……うん」
「よし」
獪岳は満足そうに頷いた。
次に視線を向けたのは伊之助。
「で、豚頭」
「誰が豚頭だ!」
「お前だよ」
「俺は嘴平伊之助だ!」
「知るか」
「覚えろ!」
伊之助が勢いよく立ち上がる。
「俺は強ぇぞ! 鬼も倒した! お前も倒してやる!」
「ほう」
獪岳が湯飲みを置く。
「やってみろ」
「おおおおお!」
伊之助が飛びかかった。
獪岳は動かない。
ただ、指を一本だけ立てる。
「せいっ」
バチン!
「ぐおっ!?」
伊之助の額に指が当たった。
次の瞬間――。
ドゴォン!!
「ぎゃああああ!」
伊之助の身体が吹き飛び、壁へ激突した。
「伊之助ぇぇぇ!」
善逸が悲鳴を上げる。
「何するんですか、獪岳さん!」
「手加減したぞ」
「絶対手加減じゃないですよ!」
炭治郎が慌てて伊之助へ駆け寄る。
伊之助は壁にめり込みながらも、すぐに起き上がった。
「……強ぇ!」
目が輝いている。
「お前、すげぇ強ぇな!」
「今さら気づいたのかよ」
「俺はお前を倒す!」
「百年早ぇ」
「覚えてろよ!」
伊之助は悔しそうに拳を握った。
そんな三人を見ながら、獪岳は小さく笑う。
「……まあ、元気そうで何よりだ」
炭治郎はその言葉を聞き逃さなかった。
口では厳しい。
だが――。
獪岳が誰よりも三人のことを見ている。
そのことが、炭治郎には分かった。
その時だった。
「ふふっ」
鈴のような笑い声が聞こえた。
「相変わらず、後輩の扱いが手荒ですね」
藤の花が揺れる。
その向こうから、一人の少女が歩いてくる。
蝶の髪飾り。
紫がかった瞳。
穏やかな笑み。
「しのぶ……」
獪岳が少しだけ目を見開く。
胡蝶しのぶ。
蟲柱・胡蝶カナエの妹であり、現在は次期蟲柱候補として姉の助手を務めている鬼殺隊士だった。
「こんにちは、獪岳さん」
「……何でお前がここにいる」
「カナエ姉さんに頼まれたんです。怪我人の様子を見てきてほしい、と」
しのぶは微笑む。
「それに――」
獪岳へ近づく。
「私も、あなたに会いたかったですから」
「……」
獪岳の顔が固まる。
そして――。
「……そうかよ」
露骨に視線を逸らした。
耳が少し赤い。
炭治郎は目を丸くした。
善逸はもっと大きく目を見開いた。
「……え?」
善逸が震える。
「ええ?」
炭治郎を見る。
しのぶを見る。
獪岳を見る。
「えええええええええ!?」
屋敷中に善逸の絶叫が響き渡った。
「獪岳兄貴ぃぃぃぃ!!」
「うるせぇ!」
「何でそんな綺麗なお姉さんと付き合ってるの!?」
「お前に関係ねぇだろ!」
「関係あるよぉぉ! 兄弟子だけ先に幸せになるなんてずるいよぉぉ!」
「意味分かんねぇこと叫ぶな!」
善逸が頭を抱える。
「俺の兄貴が……俺の怖くて最強で自慢の兄貴が……恋人……!」
「だから何だ!」
「羨ましいぃぃ!」
「知らねぇよ!」
炭治郎は二人を見ながら、思わず笑ってしまった。
「獪岳さん、しのぶさんと一緒にいるときは、少し嬉しそうですね」
「炭治郎」
獪岳が振り返る。
「黙れ」
「はい!」
しのぶは楽しそうに微笑んでいた。
「獪岳さんは昔から素直じゃないんですよ」
「余計なこと言うな」
「でも――」
しのぶは獪岳の隣に座る。
「私は、そんなあなたが好きです」
「……!」
獪岳の顔がさらに赤くなる。
「お前……ここで言うなよ」
「本当のことですから」
「……ったく」
獪岳は照れ隠しのように頭を掻いた。
炭治郎は、二人から漂う匂いを感じ取っていた。
優しい。
温かい。
そして、互いを大切に思っている匂い。
「……すごく温かい匂いです」
「炭治郎くん?」
「お二人は、とてもお似合いですね!」
「炭治郎!」
獪岳が怒鳴る。
「お前まで何言ってやがる!」
「すみません!」
しのぶはクスクスと笑った。
「ありがとうございます、炭治郎くん」
「はい!」
そんな二人のやり取りを見て、善逸がさらに泣き出す。
「うわぁぁぁぁん! 幸せそうだぁぁぁ!」
「うるさい!」
獪岳が善逸の頭を掴む。
「ぎゃああああ!」
「静かにしろ!」
「兄貴ぃぃ!」
伊之助はその様子を見ながら首を傾げる。
「恋人って何だ?」
「お前にはまだ早い」
獪岳が即答する。
「なんでだ!」
「なんでもだ」
しのぶは三人の後輩を見つめた。
「炭治郎くん、善逸くん、伊之助くん」
三人が振り向く。
「獪岳さんは、口が悪くて不器用です」
「おい」
「ですが――」
しのぶの表情が優しくなる。
「誰よりも仲間を大切にする人です」
獪岳は黙って聞いていた。
「誰かが傷つけば、自分が傷ついてでも助けに行く」
「……」
「誰かが諦めそうになれば、厳しい言葉で立ち上がらせる」
しのぶは獪岳を見る。
「そして、誰も死なせないためなら、泥をすすってでも戦う人です」
炭治郎は真剣に頷いた。
「はい」
「だから――」
しのぶは三人へ微笑む。
「獪岳さんの背中を、よく見てください」
「俺たちが……」
炭治郎は胸に手を当てる。
「獪岳さんのような鬼殺隊士を目指す」
「それもいいですが」
しのぶは微笑んだ。
「あなたたちは、あなたたち自身の強さを見つけてください」
「……!」
「獪岳さんの真似をする必要はありません」
しのぶは静かに続ける。
「獪岳さんがあなたたちを守ってくれるように、いつかあなたたちも誰かを守れる剣士になればいいんです」
炭治郎の胸に、その言葉が深く刻まれた。
「はい!」
善逸も涙を拭う。
「俺も……強くなります」
「お前はまず泣きながらでもいいから逃げずに戦え」
「兄貴ぃ……」
伊之助は拳を握った。
「俺はもっと強くなる!」
「その意気だ」
獪岳が三人を見る。
「お前らはまだ弱い」
「……」
「だが、弱いからこそ伸びる」
獪岳は立ち上がった。
「鬼殺隊に入った以上、これから何度も死にそうになるだろう」
三人の表情が引き締まる。
「それでも生きろ」
獪岳の声は低い。
けれど、その言葉には強い願いが込められていた。
「仲間を守れ」
「自分も守れ」
「そして――」
日輪刀の柄へ手を添える。
「最後まで、生きて夜明けを見ろ」
炭治郎は深く頭を下げた。
「はい!」
善逸も頷く。
「はい……!」
伊之助は拳を突き上げる。
「当然だ!」
しのぶはそんな三人を見て微笑んだ。
藤の花が風に揺れる。
その向こうには、青い空が広がっていた。
まだ若く、未熟な三人の剣士。
そして、その前を歩く最強の鳴柱。
その隣には、彼の心を支える蟲柱候補の少女。
獪岳は三人へ背を向ける。
「休め」
「はい!」
「次の任務が来たら――」
獪岳が振り返る。
「今度は自分の力で、生きて帰ってこい」
炭治郎たちは力強く頷いた。
こうして、竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助。
三人の若き鬼殺隊士は、頼れる先輩たちの背中を胸に刻んだ。
いつか自分たちも、誰かにとっての「道標」になるために。
そして、誰一人として死なせないために。
彼らの新たな戦いが、静かに始まろうとしていた。