一面に咲き誇る紫藤の花が、朝靄の残る山肌を美しく彩っていた。
藤襲山。
鬼殺隊士を目指す者にとって、ここは最初の試練の場所である。
山中には、鬼が放たれている。
鬼殺隊によって捕らえられ、藤の花によって封じ込められた鬼たち。
彼らは、この七日間。
山の中へ入った候補者たちを喰らうためだけに存在している。
だからこそ――。
この山へ入った者が、生きて帰れる保証などどこにもない。
◇
山麓。
最終選別の受付所には、すでに大勢の少年少女たちが集まっていた。
誰もが緊張した面持ちで、藤襲山を見上げている。
その中に、竈門炭治郎の姿があった。
「……大きな山だな」
炭治郎は静かに山を見上げた。
隣では、黄色い髪の少年が震えている。
「炭治郎ぉぉぉ……」
「どうした、善逸?」
「俺、やっぱり帰るぅぅぅ……」
「……」
「絶対死ぬって! こんなの絶対死ぬってぇぇぇ!!」
我妻善逸は炭治郎の腕にしがみついていた。
「鬼がいるんだぞ!? 鬼が! 人を食べる怪物が山の中にいるんだぞ!?」
「分かってるよ」
「首を斬られる!」
「鬼を斬るんだ」
「腕を食われる!」
「だから戦うんだ」
「骨までしゃぶられるぅぅぅ!!」
「そこまで考えなくていい!」
炭治郎が困ったように善逸を見る。
「俺はまだ若いんだよぉ……!」
「善逸」
「結婚だってしてない!」
「それは……頑張れ」
「炭治郎! 責任取って俺を守って!」
「自分で戦うんだ!」
「無理ぃぃぃ!!」
その時だった。
カツ。
一つの足音が響いた。
石段を上ってくる、規則正しい足音。
カツ。
カツ。
カツ。
騒がしかった周囲が、少しずつ静まり返っていく。
そして――。
紫藤の花の向こうから、一人の青年が姿を現した。
黒地に雷を思わせる意匠を施した羽織。
腰には日輪刀。
鋭い眼差し。
そして、その身に纏う圧倒的な存在感。
「……柱だ」
「まさか……」
「あれは……」
候補者たちがざわめく。
青年は、その視線を一切気にすることなく歩いてくる。
やがて炭治郎の前で足を止めた。
「よう」
「獪岳さん!」
炭治郎が嬉しそうに声を上げる。
そう。
現れたのは鬼殺隊の柱。
雷の呼吸を極めた男――。
「鳴柱・獪岳」
その名を聞いた善逸の顔が、ぱっと明るくなる。
「獪岳ぁぁぁん!!」
「うるせぇ」
「助けてぇぇぇ!!」
「断る」
「即答!?」
善逸が絶望した顔になる。
獪岳はため息をついた。
「最終選別に来たんだろ」
「そうだけど!」
「だったら行け」
「鬼がいるんだぞ!?」
「知ってる」
「俺、死ぬかもしれないんだぞ!?」
「知ってる」
「だったら!」
善逸が獪岳の羽織を掴む。
「柱なんだから何とかしてよ!」
獪岳は善逸の額を指で弾いた。
「痛っ!」
「俺が何とかする場所じゃねぇ」
「……」
「ここは、お前自身が何とかする場所だ」
善逸は俯いた。
獪岳は、そんな弟弟子をしばらく見つめる。
やがて、少しだけ声を落とした。
「善逸」
「……なに?」
「怖いか?」
「怖い」
「逃げたいか?」
「逃げたい……」
「そうか」
獪岳は笑った。
「なら、怖いままで行け」
「……え?」
「怖くなくなるまで待ってたら、一生前に進めねぇ」
善逸が顔を上げる。
「強い奴だって怖ぇんだ」
「……」
「ただ、強い奴は怖くても足を止めねぇ」
獪岳は善逸の胸を軽く拳で叩いた。
「お前もそうなれ」
「俺が……?」
「ああ」
「無理だよ……」
「無理かどうかは、行ってから決めろ」
獪岳の目が鋭くなる。
「最後まで生き残った奴だけが、自分の限界を決められる」
善逸は黙って獪岳を見つめた。
「……獪岳」
「あ?」
「俺……帰ってこられるかな」
「帰ってこい」
「……」
「それだけだ」
獪岳は善逸の頭を軽く叩いた。
「合格なんざ二の次だ」
「え?」
「死ぬな」
短い言葉だった。
だが、その言葉には師としての願いが込められていた。
「泥をすすってでも生き残れ」
「……うん」
「這ってでも戻ってこい」
「……うん」
「返事は?」
「はい!」
獪岳は満足そうに頷いた。
その横で、炭治郎が深く頭を下げる。
「獪岳さん」
「あ?」
「俺も必ず戻ります」
「お前は心配してねぇよ」
「え?」
「お前は、死にそうになっても誰かを助けようとするだろ」
「……」
「だからこそ、自分の命も大事にしろ」
炭治郎は真剣に頷いた。
「はい」
「禰豆子を守りたいなら――」
獪岳の目が柔らかくなる。
「まず、お前自身が生きろ」
「はい!」
その時。
「それでは――」
最終選別の案内役を務める少女たちが前へ出た。
「ただいまより、最終選別を開始いたします」
門が開く。
その先には、紫藤の花に覆われた山道。
美しい。
だが、その奥に何が待っているのかは誰にも分からない。
候補者たちは、一人ずつ歩き始める。
炭治郎も刀の柄を握った。
「行こう、善逸」
「……うん」
善逸は震えていた。
それでも――。
一歩。
また一歩。
山へ向かって歩き出す。
そして二人は、最後に振り返った。
「行ってきます!」
炭治郎が叫ぶ。
「……行ってこい」
獪岳は腕を組み、二人を見送った。
「必ず帰ってこい」
その言葉を背に――。
二人は藤襲山へ足を踏み入れた。
◇
山へ入った瞬間。
空気が変わった。
外から見れば美しい紫藤の山。
しかし、その内側は薄暗く、木々が生い茂り、昼間だというのに日の光がほとんど届かない。
風が木々の間を抜ける。
ざわ……。
ざわ……。
「……炭治郎」
「どうした?」
「静かすぎない?」
「確かに……」
炭治郎は鼻を利かせる。
鬼の匂い。
微かだが、確かに漂っている。
「いる」
「何が!?」
「鬼だ」
「やっぱりぃぃぃ!!」
善逸が叫ぶ。
「声が大きい!」
「だって!」
「鬼に見つかるぞ!」
「もう見つかってるんじゃない!?」
「……」
炭治郎は黙った。
「善逸」
「なに!?」
「右から来る」
「え?」
ガサッ!
茂みが揺れた。
善逸が飛び上がる。
「出たぁぁぁ!!」
しかし。
飛び出してきたのは――。
一匹の狸だった。
「……」
「……」
狸は二人を見る。
そして何事もなかったかのように走り去っていった。
「…………」
「…………」
「善逸」
「なに?」
「静かにしてくれ」
「はい……」
二人は歩き続けた。
だが。
その直後。
遠くから悲鳴が響いた。
「――うわあああああ!!」
「!」
炭治郎が振り向く。
「誰か襲われてる!」
「炭治郎、待って!」
炭治郎は走り出した。
「おい!」
善逸も慌てて追いかける。
◇
木々の向こう。
一人の少年が鬼に襲われていた。
「ぐあっ!」
鬼が少年の腕を掴む。
「喰わせろぉ……!」
少年は必死に刀を振るう。
しかし、鬼の腕に傷をつけるだけで精一杯だった。
「離せ!」
「嫌だァ!」
鬼が口を大きく開く。
その瞬間――。
「水の呼吸――」
炭治郎が飛び込んだ。
「壱ノ型・水面斬り!」
ザンッ!
鬼の腕が斬り落とされた。
「ぐおおおお!?」
少年が転がる。
「大丈夫か!」
「あ、ああ……!」
鬼が炭治郎を睨みつける。
「小僧ォ……!」
炭治郎は刀を構えた。
「お前を倒す!」
「俺を……?」
鬼が笑う。
「小僧一人でかァ!?」
「一人じゃない」
炭治郎の横に善逸が立った。
「……!」
善逸の顔は真っ青だった。
足も震えている。
だが――。
刀を抜いた。
「善逸……」
「俺も……やる」
声は震えている。
「獪岳に……」
善逸は歯を食いしばった。
「帰ってこいって言われたから……!」
鬼が笑う。
「怖くて震えてやがる!」
「……怖いよ」
「なら逃げろ!」
「……嫌だ」
善逸は刀を握り直した。
「逃げたら……獪岳に怒られる」
炭治郎が微笑む。
「そうだな」
「うん……!」
二人は並んだ。
鬼が突進してくる。
「死ねぇぇぇ!!」
炭治郎が前へ出る。
「水の呼吸――!」
善逸も構える。
目を閉じる。
「雷の呼吸――」
だが。
善逸はまだ、自分の力を完全には制御できていなかった。
足が震える。
呼吸が乱れる。
「……怖い」
その瞬間。
獪岳の声が脳裏に蘇る。
『怖いままで行け』
『怖くても足を止めるな』
善逸は息を吸った。
震える足に力を込める。
「……うん」
そして――。
「俺は……逃げない!」
善逸が地面を蹴った。
「雷の呼吸――」
炭治郎も踏み込む。
「水の呼吸――!」
二人の刃が、同時に鬼へ迫った。
――最終選別。
それは、鬼殺隊士になるための試験。
しかし同時に。
自分が生きる価値を、自分自身で掴み取るための戦いでもあった。
そして藤襲山では今――。
無数の戦いが始まっていた。
◇
山麓。
獪岳は、静かに藤襲山を見上げていた。
「……始まったか」
その隣に、胡蝶しのぶが立つ。
「ええ」
しのぶは微笑みながら山を見つめる。
「炭治郎くんも善逸くんも、無事だといいですね」
「大丈夫だ」
「随分と自信がありますね」
「あいつらならやれる」
獪岳は目を細めた。
「ただし――」
腰の刀へ手を添える。
「油断だけはするなよ」
その言葉が届くはずもない山の中。
しかし獪岳は、祈るように呟いた。
「生きろ」
紫藤の花が風に揺れる。
美しい花々の向こうで――。
鬼たちが、牙を剥いていた。
最終選別は、始まったばかりだった。