藤襲山の森は、夜になると一段と暗くなる。
昼間は紫藤の花が美しく咲き誇っていた山も、月が昇れば別の顔を見せる。
木々の隙間から差し込む月明かり。
風に揺れる紫藤の花。
そして――。
森の奥から漂ってくる、異様な臭い。
竈門炭治郎は、足を止めた。
「……善逸」
「な、なに?」
「鬼がいる」
「……!」
我妻善逸の顔が一瞬で青ざめる。
「ど、どこ!?」
「前方……いや」
炭治郎は鼻を利かせる。
「右だ」
「右!?」
「近い」
ガサッ。
茂みが揺れた。
善逸が炭治郎の背中へ隠れる。
「炭治郎……!」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない!」
「刀を抜いて」
「無理!」
「善逸」
「だって怖いんだよぉ!」
炭治郎は一瞬だけ善逸を見る。
震えている。
顔も青ざめている。
それでも――。
善逸の手は、刀の柄を握っていた。
「……善逸」
「なに……?」
「怖くてもいい」
炭治郎は静かに言った。
「獪岳さんも言っていただろう?」
「……」
『怖いままで行け』
『怖くても、足を止めるな』
善逸は唇を噛む。
「……うん」
「俺も怖い」
「え?」
「俺だって、この山にいる鬼が怖い」
炭治郎は刀を抜いた。
「でも、だからこそ戦う」
その瞬間。
茂みが弾けた。
「グルルルル……!」
現れたのは、一匹の鬼だった。
身長は人間の倍近く。
身体中には古い傷跡が刻まれ、両手には鋭い爪。
口元からは鋭い牙が覗いている。
「人間……」
鬼が笑う。
「人間の匂いだァ……!」
善逸が震える。
「ひっ……!」
鬼が二人を見つめる。
「最終選別に来たガキか……」
「……そうだ」
炭治郎は刀を構える。
「俺たちは鬼殺隊士になる」
「鬼殺隊士ィ?」
鬼は腹を抱えて笑った。
「まだ何も知らねぇガキが、偉そうに!」
次の瞬間。
ドンッ!!
鬼が地面を蹴った。
「炭治郎!」
「水の呼吸――」
炭治郎も踏み込む。
「壱ノ型・水面斬り!」
ザンッ!
刃が鬼の腕を斬り裂いた。
「グアッ!?」
鬼が後退する。
しかし――。
「浅い……!」
炭治郎は歯を食いしばる。
首を狙ったはずだった。
だが鬼は寸前で身体を捻り、致命傷を避けていた。
「なるほど……!」
鬼が傷口を押さえる。
「ただのガキじゃねぇな!」
傷が見る見るうちに塞がっていく。
「再生……!」
炭治郎の目が鋭くなる。
鬼は笑った。
「そうだ!」
腕を大きく振る。
「人間とは違うんだよォ!」
ドゴォン!!
木が一本、根元からへし折れた。
「うわぁぁぁ!!」
善逸が叫びながら飛び退く。
「善逸!」
「無理無理無理!」
「落ち着いて!」
「こんなの落ち着けるかぁぁ!」
鬼が善逸へ向きを変える。
「まずは黄色い髪のガキから喰ってやる!」
「ひぃっ!」
善逸の身体が硬直する。
鬼の腕が迫る。
その瞬間――。
「善逸!」
炭治郎が割り込んだ。
ガキィン!
鬼の爪と日輪刀がぶつかる。
「ぐっ……!」
重い。
炭治郎の腕が震える。
「炭治郎!」
「逃げるな、善逸!」
「……!」
「今は、俺が止める!」
鬼が口を歪める。
「仲間を庇って死ぬかァ!」
「死なない!」
炭治郎は刀を押し返す。
「俺は死なない!」
踏み込む。
「水の呼吸――弐ノ型!」
刃が円を描く。
「水車!」
ザシュッ!
鬼の肩が大きく斬り裂かれた。
「グオオオオッ!!」
鬼が後退する。
炭治郎は追撃しようとする。
だが――。
「待て!」
善逸の声。
「炭治郎、上!」
「!」
見上げる。
鬼が木の枝へ飛び移っていた。
「逃げる気か!」
鬼はニヤリと笑う。
「馬鹿が!」
枝を蹴る。
炭治郎の頭上から急降下する。
「死ねぇぇぇ!!」
炭治郎は刀を構えた。
しかし――。
身体が間に合わない。
「炭治郎!」
善逸が動いた。
「雷の呼吸――!」
足元に力が集中する。
「壱ノ型……!」
炭治郎の横を、一筋の閃光が駆け抜けた。
「霹靂一閃!!」
バリィィィン!!
善逸の刀が鬼の脇腹を斬り裂いた。
「グアアアアアッ!?」
鬼の身体が吹き飛ぶ。
木に激突する。
善逸は着地した。
本人が一番驚いた顔をしている。
「……俺」
震える手を見る。
「俺、今……戦った?」
「善逸!」
炭治郎が嬉しそうに駆け寄る。
「すごい!」
「すごいって……」
「助けてくれた!」
「……!」
善逸の目が少し潤む。
「俺……逃げなかった」
「ああ」
「怖かったのに……」
「うん」
「ちゃんと刀を振れた……」
炭治郎が笑う。
「獪岳さんのおかげだな」
「……うん」
善逸も小さく笑った。
「兄貴に……怒られるからな」
「違うだろ?」
「え?」
「獪岳さんに褒めてもらいたいんじゃないのか?」
「…………」
善逸の顔が赤くなる。
「そ、それは……」
「図星だな」
「うるさい!」
その時。
「貴様らァ……!」
鬼の声が響いた。
二人が振り返る。
鬼が立ち上がっていた。
傷口はすでに塞がり始めている。
「よくも……!」
鬼が二人を睨む。
「よくも俺の身体を傷つけやがったなァ!!」
炭治郎は刀を構える。
「まだ終わっていない」
「……そうだな」
善逸も刀を握る。
先ほどまで震えていた手。
それでも今は、逃げるためではなく――。
戦うために握られている。
「善逸」
「なに?」
「一緒に戦おう」
「……うん」
二人は並んだ。
鬼が突進する。
「死ねぇぇぇ!!」
炭治郎が前へ出る。
「水の呼吸――!」
善逸が横へ回り込む。
「雷の呼吸――!」
二人の呼吸が重なる。
鬼の攻撃を炭治郎が受け流し。
善逸が死角から斬り込む。
「グアッ!」
鬼が善逸を狙う。
炭治郎が割って入る。
「させない!」
刀が鬼の腕を弾く。
「善逸、今だ!」
「分かった!」
善逸が踏み込む。
「雷の呼吸――壱ノ型!」
閃光。
鬼の首へ刃が迫る。
しかし――。
鬼は咄嗟に身体を捻った。
刃が首を逸れる。
「くそっ!」
完全には届かなかった。
鬼が距離を取る。
肩で荒く息をする。
炭治郎は刀を握り直した。
(強い……)
今まで戦った鬼とは違う。
動きが速い。
力も強い。
そして何より――。
(首を斬らなければ、倒せない)
炭治郎は鬼を見据えた。
鬼もまた、炭治郎を睨み返す。
「小僧……!」
「……」
「その目……!」
鬼の顔が歪む。
「気に入らねぇ!」
再び突進。
「来る!」
炭治郎が叫ぶ。
鬼の爪が振り下ろされる。
炭治郎は横へ避けた。
その瞬間――。
「善逸!」
「任せて!」
善逸が鬼の背後へ回る。
「雷の呼吸――」
鬼が振り返る。
「何!?」
善逸の姿が消える。
「壱ノ型!」
閃光。
鬼の首へ一直線。
「霹靂一閃!」
ザンッ!!
刃が深く食い込む。
「グオオオオオオ!!」
だが、あと僅か。
完全には斬れていない。
「善逸!」
「斬れないぃぃぃ!!」
「そのまま押さえて!」
「無理ぃぃぃ!!」
炭治郎が走る。
刀を両手で握る。
「俺が――!」
鬼が善逸を振り払おうとする。
炭治郎がその腕を斬る。
「させない!」
そして――。
「水の呼吸――」
呼吸を整える。
足を踏み込む。
「肆ノ型――」
水流のような一撃。
「打ち潮!!」
ザンッ!!
鬼の首が落ちた。
「……!」
鬼の身体が崩れる。
「そんな……」
鬼の顔から怒りが消える。
「俺が……こんな……ガキに……」
炭治郎は静かに刀を収めた。
鬼の身体が灰へ変わっていく。
やがて――。
何も残らなくなった。
◇
「……終わった」
善逸がその場に座り込む。
「もう歩けない……」
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃない……」
「怪我は?」
「たぶんない……」
炭治郎は善逸の身体を確認する。
「本当に大丈夫そうだ」
「炭治郎……」
「なんだ?」
「俺たち……生きてる」
「ああ」
「俺たち……鬼を倒したんだな」
「ああ」
善逸は空を見上げる。
木々の隙間から、月が見えていた。
「……獪岳に報告したい」
「そうだな」
「俺、逃げなかったって」
「きっと喜んでくれる」
「……うん」
善逸は立ち上がる。
「よし……」
「行こう」
「ああ」
二人は再び歩き始める。
だが――。
炭治郎は気づいていた。
この山にいる鬼は、今倒した一匹だけではない。
森の奥から、いくつもの異様な臭いが漂っている。
遠くから聞こえる悲鳴。
木々を揺らす咆哮。
そして――。
誰かが逃げる足音。
「……まだ戦いは続く」
炭治郎は刀を握り直した。
「善逸」
「分かってる」
善逸も震えながら刀を握る。
「俺たち、生きて帰るんだろ?」
「ああ」
「だったら……行こう」
二人は暗い森の奥へ進んでいった。
藤襲山の最終選別。
その夜は、まだ始まったばかり。
そして炭治郎たちはまだ知らない。
この山の奥に――。
これまでとは比べものにならないほどの脅威が、静かに息を潜めていることを。