藤襲山の夜は、深い。
月明かりさえ届かない森の奥。
炭治郎と善逸は、慎重に足を進めていた。
すでに何度か鬼と遭遇した。
そのたびに刀を抜き、戦い、どうにか勝ち抜いてきた。
しかし――。
炭治郎は、ずっと感じていた。
この山には。
まだ何かいる。
これまで出会った鬼とは違う。
もっと深く。
もっと暗い場所から。
強烈な気配が漂っている。
「……炭治郎」
「どうした?」
善逸が小声で尋ねる。
「さっきから、何か変じゃない?」
「……ああ」
炭治郎も頷いた。
「鬼の臭いがする」
「やっぱり!?」
「でも……」
炭治郎は眉を寄せる。
「今までの鬼とは違う」
「違うって?」
「臭いが濃すぎる」
善逸の顔が引きつる。
「濃すぎる……?」
「ああ」
炭治郎は周囲を見渡す。
「まるで、長い間ずっとここにいるような……」
その時。
――ゴトン。
遠くで何かが落ちる音がした。
二人が同時に振り向く。
「……!」
「な、何?」
「分からない」
炭治郎は刀の柄に手を置いた。
静かに歩く。
一歩。
また一歩。
やがて――。
鼻を突き刺すような血の臭いが強くなってきた。
「……これは」
炭治郎の表情が変わる。
「善逸、止まれ」
「え?」
「血の臭いだ」
「……!」
二人は木々の隙間から先を覗いた。
そこには――。
地面に大量の血痕が残されていた。
そして、破壊された木々。
無数の爪痕。
何か巨大なものが暴れた跡。
「……ひどい」
炭治郎が呟く。
「誰かが……襲われたんだ」
善逸は耳を澄ます。
「……」
しばらくして。
「炭治郎」
「どうした?」
「聞こえる」
「何が?」
「……笑い声」
炭治郎が顔を上げる。
「笑い声?」
「うん」
善逸の顔から血の気が引いていく。
「遠いけど……確かに聞こえる」
そして――。
「ヒヒヒヒヒ……」
森の奥から。
確かに聞こえた。
不気味な笑い声。
「……!」
炭治郎が刀を抜く。
「善逸」
「分かってる……!」
善逸も刀を抜く。
その瞬間。
――ドゴォォォン!!
巨大な木が吹き飛んだ。
「うわぁぁぁ!!」
善逸が叫ぶ。
土煙が舞う。
木の破片が辺りへ散らばる。
そして。
その向こう側から――。
巨大な影が現れた。
「……ヒヒ」
低い笑い声。
月明かりが、その姿を照らし出す。
「……!」
炭治郎は息を呑んだ。
巨大な身体。
異常なほど膨れ上がった胴体。
そして――。
全身に生えた、無数の腕。
二本。
四本。
八本。
数えることすら困難なほどの腕が、身体の至るところから伸びている。
その手が地面を這う。
木を掴む。
そして、ゆっくりと蠢く。
「な……」
善逸が震えた。
「何だよ……あれ……」
鬼は二人を見つめていた。
そして――。
炭治郎の顔を見た瞬間。
その口元が大きく歪んだ。
「ヒヒヒヒ……!」
「……?」
鬼の視線が、炭治郎の頭へ向けられる。
そこにあるのは――。
狐の面。
「その面……」
鬼の声が低くなる。
「その狐の面……!」
炭治郎は警戒しながら尋ねた。
「何だ?」
鬼の身体が震える。
笑っている。
いや。
喜んでいる。
「懐かしいなぁ……!」
無数の腕が、ゆっくりと蠢く。
「懐かしい……懐かしいぞぉ……!」
「……!」
「その面を知っている!」
鬼の目が見開かれる。
「鱗滝だろう!?」
炭治郎の表情が強張った。
「……鱗滝さんを知っているのか?」
「知っているとも!」
鬼が笑う。
「俺をここへ閉じ込めた男だからなぁ!」
善逸が小さく呟く。
「鱗滝さんが……?」
鬼は続ける。
「俺はなぁ……」
無数の腕を見せつけるように広げる。
「ずっとここにいるんだよ」
「……」
「何年も」
「…………」
「何十年もなぁ!」
その声には、底知れない憎悪が滲んでいた。
「そしてな……」
鬼は炭治郎の狐面を指差す。
「鱗滝の弟子は、みんなその面をつけていた」
「……!」
炭治郎の胸がざわつく。
「みんな……?」
「ああ」
鬼が笑った。
「俺は覚えているぞ」
一本の腕が、ゆっくりと炭治郎へ伸びる。
「一人目」
さらに別の腕。
「二人目」
そして――。
「三人目」
無数の腕が蠢く。
「四人目」
「五人目」
「六人目……!」
善逸が息を呑む。
「……何を言ってるんだ」
炭治郎の声が低くなる。
鬼は嬉しそうに笑った。
「鱗滝の弟子はなぁ――」
その瞳に狂気が宿る。
「俺が喰った」
「……!」
炭治郎の目が見開かれる。
「全部だ」
鬼が舌なめずりする。
「鱗滝が育てた剣士たちを……!」
「……やめろ」
「この山に来た奴らを――!」
「やめろ!」
炭治郎が刀を構える。
しかし、鬼は笑うだけだった。
「お前も、その狐の面をつけている」
鬼の口が大きく裂ける。
「なら――」
無数の腕が、一斉に地面へ伸びる。
ズズズズズ……。
「お前も、俺が喰ってやるよぉぉぉ!!」
「炭治郎!」
善逸が叫ぶ。
炭治郎は刀を握り締める。
怒り。
恐怖。
そして、鱗滝の弟子たちが残した想い。
それらが胸の中で渦巻いていく。
「……お前」
炭治郎は鬼を睨みつけた。
「今まで、何人の人を殺したんだ」
「さぁなぁ?」
鬼は笑った。
「数えるのも面倒なくらいだ!」
「……!」
「でも――」
鬼の無数の腕が、ゆっくりと構えられる。
「鱗滝の弟子だけは、よく覚えている」
「なぜだ……?」
「憎いからだ」
即答だった。
「鱗滝が憎い」
鬼の顔が歪む。
「だから、その弟子も憎い」
「…………」
「狐の面を見るだけで、腹が立つんだよぉ!」
善逸が震えながら炭治郎の隣へ立つ。
「炭治郎……」
「善逸」
「……俺もやる」
「怖いか?」
「怖い」
「俺もだ」
「……でも」
善逸は刀を握る。
「獪岳の兄貴に、生きて帰れって言われたから」
炭治郎は頷いた。
「ああ」
二人は並んだ。
目の前にいる鬼は、これまで戦ってきた鬼とは明らかに違う。
巨大な身体。
無数の腕。
そして――。
鱗滝の弟子たちを喰らってきたという異常な執念。
炭治郎は刀を構える。
「善逸」
「うん」
「こいつは強い」
「……うん」
「だから、絶対に油断するな」
「分かった」
鬼が笑う。
「来いよォ……!」
無数の腕が広がる。
「鱗滝の弟子ィィィ!!」
――そして。
藤襲山の森に、凄まじい殺気が満ちた。
炭治郎は一歩も退かなかった。
善逸もまた、震えながら刀を構えた。
最終選別最大級の脅威。
その名は――。
手鬼。
今、二人の前に姿を現した。
だが――。
本当の戦いは、まだ始まっていなかった。