――手鬼が現れた。
巨大な身体。
異様なほど多い腕。
そして、鱗滝左近次への憎悪。
「鱗滝の弟子はなぁ……!」
手鬼が笑う。
「みぃんな、俺が喰ってやったんだよぉぉぉ!!」
「…………!」
炭治郎の身体が強張った。
錆兎。
真菰。
そして、自分の知らない鱗滝の弟子たち。
手鬼の言葉から、その全ての最期を想像してしまう。
「お前もだ!」
手鬼の腕が伸びる。
「その狐の面!」
ドゴォン!!
巨大な拳が地面を叩き潰した。
「鱗滝の弟子だろぉぉぉ!!」
「炭治郎!」
「分かってる!」
炭治郎と善逸は左右へ飛び退く。
地面が大きく抉れた。
「な、なんなんだよ、こいつ……!」
善逸が震える。
「腕が多すぎる……!」
「善逸!」
「分かってるよ!」
善逸は刀を握り直す。
その手は震えていた。
けれど――逃げなかった。
「俺だって……!」
善逸の脳裏に獪岳の姿が浮かぶ。
『怖くてもいい』
『足を止めるな』
『泥をすすってでも、生きて帰れ』
「……そうだ」
善逸が息を吸う。
「俺は……帰るんだ」
その瞬間。
「来いよぉぉぉ!!」
手鬼の腕が一斉に襲いかかった。
「雷の呼吸――」
善逸が腰を落とす。
「壱ノ型!」
――バリッ!!
青白い雷光が森を駆け抜けた。
「霹靂一閃!!」
ズバァッ!!
手鬼の腕が一本、斬り飛ばされる。
「なっ!?」
手鬼が驚く。
だが――。
斬り飛ばされた腕は、瞬く間に再生していく。
「……再生した」
炭治郎が息を呑む。
「ヒヒヒッ!」
手鬼が笑う。
「そんな程度で俺を倒せると思うなよぉ!」
再び無数の腕が動き出す。
炭治郎は刀を構えた。
「……俺も」
深く息を吸う。
「行く!」
水の呼吸。
身体の中に、懐かしい感覚が蘇る。
狭霧山。
雪。
修行。
そして――。
「炭治郎くん!」
真菰の声。
「足元を見て!」
炭治郎の脳裏に、あの日の光景が浮かんだ。
◇
――修行を始めた頃。
炭治郎は、まだ弱かった。
刀を握る手は震え。
息はすぐに上がる。
木刀を振れば、身体が流れる。
「もう一度」
錆兎が言う。
「はい!」
炭治郎が振り下ろす。
ガッ!
木刀が弾かれる。
「遅い」
「……!」
「足が止まっている」
「はい!」
「もう一度だ」
「はい!」
何度も。
何度も。
炭治郎は倒れた。
雪の上に膝をつく。
「はぁ……はぁ……」
「炭治郎くん」
真菰が近づいてくる。
「大丈夫?」
「……大丈夫」
「無理してる」
「でも……」
炭治郎は立ち上がる。
「強くならないと」
「どうして?」
「禰豆子を守りたいから」
真菰は静かに微笑んだ。
「だったら、強くなることだけを考えちゃ駄目だよ」
「え?」
「自分の身体を知ること」
「呼吸を知ること」
「相手を見ること」
真菰は炭治郎の胸を指差した。
「そして、自分の心を知ること」
「心……」
「うん」
その横で錆兎が口を開く。
「剣士は、刀だけで戦うんじゃない」
「…………」
「全身で戦うんだ」
炭治郎は頷いた。
「はい!」
◇
修行の日々は続いた。
朝から走る。
木々を飛び越える。
罠を避ける。
刀を振る。
呼吸を繰り返す。
失敗する。
倒れる。
それでも立ち上がる。
錆兎は厳しかった。
「遅い!」
「はい!」
「踏み込みが浅い!」
「はい!」
「呼吸が乱れている!」
「はい!」
真菰は優しかった。
「炭治郎くん、肩に力が入りすぎてるよ」
「こう?」
「そう。もっと自然に」
「分かった」
「焦らないで」
「うん!」
そんな日々の中で――。
炭治郎は少しずつ変わっていった。
刀が速くなる。
身体が軽くなる。
呼吸が長く続くようになる。
しかし。
最後に待っていたものは――。
巨大な岩だった。
◇
「これを斬れ」
錆兎が言った。
炭治郎は目の前の岩を見上げる。
「…………」
あまりにも大きい。
「これを……俺が?」
「ああ」
「どうやって……」
「それを考えるのも修行だ」
炭治郎は刀を抜いた。
「やります!」
振り下ろす。
ガキィン!!
刀が弾かれる。
「……!」
岩は傷一つついていない。
「もう一度」
「はい!」
振る。
ガキン!
「もう一度」
ガキン!
「もう一度!」
ガキンッ!
何度やっても駄目だった。
手のひらが裂ける。
血が流れる。
腕が震える。
「どうして……!」
炭治郎は息を切らした。
「どうして斬れないんだ……!」
錆兎は何も言わない。
真菰も何も言わない。
ただ、二人とも炭治郎を見つめている。
「俺には……無理なのか……?」
その言葉を聞いた真菰が、静かに首を横に振った。
「違うよ」
「……?」
「斬れないんじゃない」
「…………」
「まだ、斬り方を知らないだけ」
炭治郎は岩を見る。
「斬り方……」
「うん」
真菰は笑った。
「炭治郎くんなら、きっと分かるよ」
その夜。
炭治郎は一人で岩の前に座った。
刀を握る。
振る。
駄目。
また振る。
駄目。
呼吸を整える。
足の位置を変える。
腰を落とす。
刀の角度を変える。
それでも駄目。
「…………」
炭治郎は目を閉じた。
思い出す。
錆兎の言葉。
『全身で戦え』
真菰の言葉。
『焦らないで』
そして――。
鱗滝の言葉。
『全集中の呼吸だ』
「…………」
炭治郎はゆっくり息を吸った。
肺へ空気が入る。
血が巡る。
身体が熱くなる。
「水の呼吸……」
目を開く。
「…………」
岩を見る。
ただ斬ろうとするのではない。
岩の形。
刀の軌道。
自分の身体。
呼吸。
全てを一つにする。
「もう一度……!」
炭治郎は刀を構えた。
◇
「炭治郎!」
現在。
手鬼の巨大な腕が迫っていた。
「死ねぇぇぇ!!」
「――!」
炭治郎は咄嗟に刀を構えた。
ドゴォォン!!
受け止めた瞬間、身体が吹き飛ばされる。
「ぐっ……!」
木へ激突する。
「炭治郎!」
善逸が叫ぶ。
「大丈夫!」
炭治郎は立ち上がる。
手鬼が笑う。
「どうしたぁ!?」
無数の腕が再び動く。
「その程度かぁ!?」
炭治郎は手鬼を見つめた。
そして――。
思い出した。
岩。
錆兎。
真菰。
あの日々。
「……そうか」
炭治郎が呟く。
「俺は……」
刀を構える。
「岩を斬ったんだ」
手鬼の腕が迫る。
「だったら――」
炭治郎の目に覚悟が宿った。
「この鬼だって……!」
「ヒヒヒヒッ!」
手鬼が笑う。
「やってみろぉぉぉ!!」
巨大な腕が振り下ろされる。
炭治郎は踏み込んだ。
「水の呼吸――!」
その瞬間。
炭治郎の脳裏に、錆兎の姿が浮かんだ。
『炭治郎』
真菰の姿も浮かぶ。
『大丈夫』
二人の声が重なる。
『君ならできる』
「――はい!」
炭治郎が刀を振る。
ザンッ!!
巨大な腕が一本、斬り飛ばされた。
「なにぃ!?」
手鬼が目を見開く。
炭治郎は着地する。
肩で息をしながらも、刀を構え直す。
その目には、もう迷いがなかった。
「錆兎……」
炭治郎は小さく呟く。
「真菰……」
そして――。
「俺は、まだ負けない」
手鬼の無数の腕が蠢く。
「面白い……!」
手鬼が笑う。
「だったら――!」
森全体を震わせるような咆哮。
「もっと楽しませろぉぉぉ!!」
炭治郎と手鬼。
二人の視線が激突する。
そして――。
藤襲山の夜に、再び戦いの火蓋が切って落とされた。
まだ決着はつかない。
まだ、手鬼は倒れない。
しかし炭治郎の胸には、確かに二人の師友の想いがあった。
錆兎。
真菰。
二人から受け継いだものを胸に――。
炭治郎は、再び手鬼へ向かって走り出した。