「ガキどもがぁぁぁ!!」
藤襲山の深い森に、手鬼の咆哮が轟いた。
月明かりを遮るほどの巨体。
その身体には、幾重にも腕が生えている。
一本、二本どころではない。
十本、二十本――数えることすら馬鹿らしくなるほどの腕が、地面を這い、木々を薙ぎ倒しながら蠢いていた。
「まとめて腹に収めてやるわぁぁぁ!!」
ドゴォォォン!!
巨大な拳が地面を叩き潰す。
土が爆ぜ、岩が砕け、木の根がむき出しになる。
「炭治郎!」
「分かってる!」
炭治郎は横へ飛び退いた。
直後。
ブォンッ!!
先ほどまで炭治郎の頭があった場所を、巨大な腕が通過する。
「速い……!」
着地した炭治郎が息を整える。
手鬼の攻撃は、ただ力任せに腕を振り回しているだけではない。
幾重にも重なった腕が、それぞれ異なる角度から襲いかかってくる。
避ければ別の腕。
受ければ、その直後に別の拳。
さらに――。
「逃げられると思うなぁぁぁ!!」
ズドドドドドドドッ!!
無数の腕が一斉に伸びてきた。
「くっ!」
炭治郎は刀を構えた。
「水の呼吸――参ノ型!」
身体を回転させる。
「流流舞い!」
ザシュッ!
迫っていた腕を一本、二本、三本と斬り落とす。
だが――。
「ヒヒヒッ!」
手鬼が笑った。
「そんなもので俺を倒せると思っているのかぁ!?」
ボコッ。
斬り落とされた腕の断面が蠢く。
肉が盛り上がる。
骨が伸びる。
そして――。
ズズズズズ……。
新しい腕が瞬く間に生えてきた。
「再生が……!」
炭治郎の額に汗が浮かぶ。
(速すぎる……!)
斬っても再生する。
しかも、斬るほど手鬼の攻撃が激しくなっていく。
「炭治郎!」
善逸の声が飛んできた。
「こいつ……普通の鬼じゃないぞ!」
「分かってる!」
「俺、さっきから何回死ぬと思ったか分かんないんだけどぉぉぉ!!」
善逸は涙を浮かべながらも、日輪刀を握っていた。
「でも……!」
ギュッ。
柄を握る手に力が入る。
「逃げたら……獪岳の兄貴に怒られる……!」
炭治郎は善逸を見る。
「善逸……」
善逸の身体は震えていた。
足も震えている。
歯もカチカチと鳴っている。
それでも――逃げない。
獪岳に何度も叩き込まれた言葉。
『怖くても足を止めるな』
『泥をすすってでも足掻け』
『生きて帰れ』
それが、善逸をこの場に踏み止まらせていた。
「俺は……!」
善逸が深く息を吸う。
「俺は獪岳の弟弟子だぁぁぁ!!」
バリッ!!
青白い雷気が全身から弾けた。
「だから……!」
腰を落とす。
「死ぬわけにはいかねぇぇぇ!!」
手鬼が目を見開く。
「雷の小僧……!」
善逸の姿が沈む。
次の瞬間――。
「雷の呼吸――」
バリィィィッ!!
地面が爆ぜた。
「壱ノ型・霹靂一閃!!」
ドンッ!!
善逸の姿が消える。
「なっ!?」
手鬼の目が追いつかない。
「どこだぁ!?」
右。
違う。
左。
違う。
背後――。
「ここだぁぁぁ!!」
ザンッ!!
腕が一本、宙を舞った。
「ぐおおおっ!?」
善逸は止まらない。
「六連!!」
バリバリバリバリバリバリッ!!
六条の雷光が森を駆け抜ける。
一本。
二本。
三本。
四本。
五本。
六本。
手鬼の腕が次々と斬り落とされていく。
「な、なんだとぉぉぉ!?」
手鬼が咆哮する。
だが――。
「まだだぁぁぁ!!」
善逸がさらに踏み込む。
「俺は……!」
七本目。
八本目。
九本目。
「獪岳の兄貴に……!」
十本目。
十一本目。
十二本目。
「弱いままだなんて……!」
最後の一本を斬り飛ばす。
「言わせねぇぇぇ!!」
ズガァァァン!!
手鬼の両側に大量の腕が落ちた。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
手鬼の首元が露出する。
「……!」
炭治郎は、その瞬間を見逃さなかった。
だが――。
手鬼の残された腕が、一斉に首へ集まる。
ズズズズズ……!
肉が重なっていく。
腕と腕が絡み合い、巨大な肉塊となる。
まるで丸太を何十本も束ねたような、分厚い防壁。
「ヒヒヒヒヒッ!」
手鬼が笑った。
「俺の首は斬れねぇぞぉ!!」
ドゴン!!
防壁をさらに腕が覆う。
「何十年も生きてきたんだ!」
ドンッ!
「何百人もの剣士を喰ってきた!」
ドゴォン!!
「お前らみたいなガキに――!」
手鬼が両腕を広げる。
「俺を殺せるわけがねぇぇぇ!!」
炭治郎は刀を構えた。
「……」
息を吸う。
肺いっぱいに空気を取り込む。
だが、身体は限界に近かった。
手鬼との戦いは長い。
全身に傷がある。
呼吸も乱れている。
腕には力が入りにくい。
それでも――。
炭治郎の脳裏に、これまでの日々が蘇った。
狭霧山。
鱗滝左近次との修行。
大岩。
錆兎。
真菰。
そして――。
『死んでも這い上がって生還しろ』
獪岳の声。
炭治郎は柄を強く握った。
(俺は……)
大岩を前にして何度も刀を振った。
何度も失敗した。
何度も倒れた。
それでも、諦めなかった。
(俺は、ここまで来た)
炭治郎の目に力が宿る。
「善逸!」
「な、なんだ!?」
「もう一度、道を作れるか!」
善逸は手鬼を見上げた。
「……あの肉の壁を?」
「ああ!」
善逸の顔が引きつる。
「無理無理無理! あんなの何本あると思ってんの!?」
「善逸!」
「……!」
炭治郎は真っ直ぐ善逸を見る。
「俺を信じてくれ!」
善逸の表情が止まった。
「……炭治郎」
「俺も、お前を信じる」
「……」
善逸の唇が震える。
やがて――。
「……分かった」
刀を握り直す。
「やってやるよ」
その瞳に覚悟が宿る。
「俺は……お前の道を作る!」
「ありがとう、善逸!」
「ただし!」
善逸が叫ぶ。
「絶対に外すなよぉぉぉ!!」
「ああ!」
手鬼が二人を睨みつける。
「何をごちゃごちゃ言ってやがるぅぅぅ!!」
無数の腕が一斉に振り上げられた。
「死ねぇぇぇぇぇ!!」
ドドドドドドドドドッ!!
森が震える。
木々が倒れる。
地面が次々と陥没する。
「行くぞ、善逸!!」
「おおおおお!!」
善逸が踏み込む。
「雷の呼吸――」
バリバリバリッ!!
「壱ノ型――!」
一瞬で視界から消える。
「霹靂一閃・六連!!」
ドォォォォン!!
六つの雷光が一直線に走った。
手鬼の腕を斬る。
また斬る。
さらに斬る。
「ぐおおおおお!?」
一本。
二本。
三本。
四本。
五本。
そして――。
「最後ぉぉぉ!!」
六本目。
ザンッ!!
手鬼の首を覆っていた最後の腕が宙を舞った。
「な……!」
手鬼が目を見開く。
「俺の……肉鎧が……!」
首が露出した。
「炭治郎!!」
善逸が叫ぶ。
「今だぁぁぁ!!」
炭治郎の身体が前へ飛び出した。
「ありがとう、善逸!!」
だが、手鬼は叫んだ。
「舐めるなぁぁぁ!!」
残った腕が炭治郎へ伸びる。
「死ねぇぇぇ!!」
ブォンッ!!
巨大な拳。
炭治郎は避けなかった。
いや――。
避ける必要がなかった。
(見える)
鼻が捉える。
匂い。
腕が動く前の空気。
筋肉の収縮。
殺意。
そして――。
「隙の糸!」
炭治郎の目の前に、一本の糸が現れる。
手鬼の首へ伸びている。
「ここだ……!」
炭治郎は全身の力を刀へ集めた。
「水の呼吸――」
水流が刀身へ集まっていく。
一回転。
二回転。
三回転。
「拾ノ型――!」
身体がさらに加速する。
水流が巨大な龍へと変わる。
「生生流転!!」
ドォォォォォン!!
水龍が夜の森を駆け抜けた。
手鬼の腕を斬り裂く。
「なっ……!」
一閃。
二閃。
斬撃が重なる。
三閃。
四閃。
五閃。
回転するたびに勢いが増していく。
「や、やめろぉぉぉ!!」
手鬼が叫ぶ。
だが、炭治郎は止まらない。
「錆兎……!」
一閃。
「真菰……!」
二閃。
「この山で死んでいったみんな……!」
三閃。
「俺は……!」
さらに一歩。
「お前たちの想いを――!」
最後の一閃。
「無駄にしない!!」
ズバァァァァン!!
刃が手鬼の首へ深々と食い込んだ。
「ぐ……!」
手鬼の目が大きく見開かれる。
「馬鹿……な……」
炭治郎は全身の力を振り絞った。
「これで――!」
グッ!!
「終わりだぁぁぁ!!」
ズバンッ!!
巨大な首が――。
完全に斬り落とされた。
ドサァッ……。
手鬼の頭部が地面へ落ちる。
巨体がゆっくりと崩れ落ちた。
静寂。
あれほど騒がしかった森から、音が消えた。
炭治郎は荒い息を吐きながら、その場に立っていた。
刀の先から、ぽたりと血が落ちる。
「……」
善逸も呆然と立っている。
「……終わった?」
炭治郎は答えなかった。
ただ、手鬼の姿を見つめていた。
手鬼はまだ生きている。
だが――。
身体の輪郭が、少しずつ崩れ始めていた。
「……俺が……」
手鬼が呟く。
「負けた……?」
自分の首へ手を伸ばそうとする。
だが、指先はすでに灰へ変わり始めていた。
「こんな……ガキに……」
その顔から、憎悪が薄れていく。
そして――。
「……寒い」
炭治郎の鼻に届いた。
先ほどまでとは違う匂い。
憎しみではない。
怒りでもない。
もっと古く、もっと悲しい――。
孤独の匂い。
「……兄さん」
手鬼が呟いた。
「俺……」
その目に、遠い記憶が浮かんでいる。
まだ人間だった頃。
兄と一緒にいた日々。
兄の手。
兄の声。
そして――。
「……怖いよ」
炭治郎は静かに手鬼へ近づいた。
善逸も何も言わず、その背中を見つめる。
手鬼は炭治郎を見た。
「……どうして」
「……」
「どうして、お前は……」
鬼である自分を斬った。
それなのに。
どうして、そんな悲しそうな顔をする。
炭治郎は静かに答えた。
「……お前がやったことを許すことはできない」
手鬼の瞳が揺れる。
「お前が奪った命は、戻ってこない」
それでも――。
炭治郎は刀を収めた。
「でも、お前が最初から鬼だったわけじゃないなら……」
手鬼の目から、一筋の涙が流れた。
「……」
「次に生まれてくる時は、鬼になんてならないでほしい」
手鬼は何も言わなかった。
ただ――。
「……兄さん」
最後にそう呟いた。
そして、その身体は灰となって崩れ始める。
炭治郎はその姿を黙って見つめた。
「……さようなら」
灰が夜風に舞う。
やがて、手鬼の姿は完全に消えた。
森に静寂が戻る。
炭治郎はしばらく動かなかった。
善逸が隣へ歩いてくる。
「……炭治郎」
「うん」
「勝ったんだよな」
炭治郎は空を見上げた。
「……ああ」
「俺たち……あいつを倒したんだよな」
「うん」
善逸はその場へ座り込んだ。
「はぁぁぁぁ……!」
全身から力が抜ける。
「怖かったぁぁぁぁ!!」
「善逸……」
「死ぬかと思ったぁぁぁ!!」
「俺もだよ」
「炭治郎は平気そうに見えたぞ!」
「そんなことない」
炭治郎もその場へ座り込んだ。
「俺だって、ずっと怖かった」
「……本当?」
「ああ」
「じゃあ……俺たち、ちゃんと怖くても戦えたんだな」
「そうだな」
二人は顔を見合わせる。
そして――。
「はは……」
「ははは……」
小さな笑いが漏れた。
善逸が空を見上げる。
「……兄貴に報告しないとな」
「ああ」
炭治郎も頷く。
「獪岳さんに」
善逸は胸元を押さえた。
そこには、獪岳から渡された小さな傷薬の瓶がある。
「兄貴……褒めてくれるかな」
「きっと褒めてくれるよ」
「本当?」
「うん」
炭治郎は立ち上がった。
「だって、俺たちは生き残ったんだから」
善逸も立ち上がる。
「……そうだな」
二人は再び歩き出した。
手鬼との戦いは終わった。
だが――。
藤襲山での最終選別は、まだ終わっていない。
二人にはまだ戦わなければならない鬼がいる。
まだ生きて帰らなければならない。
そして――。
この戦いの先には、さらに強大な鬼たちが待っている。
炭治郎は刀を握り直した。
善逸もまた、日輪刀を腰へ収める。
「行こう、善逸」
「ああ」
「生きて帰ろう」
「絶対にな」
夜の藤襲山。
二人の背中を、月明かりが静かに照らしていた。
そしてその遥か彼方――。
まだ二人が知らない未来へ向かって、運命は静かに動き始めていた。