手鬼を討ち果たした藤襲山には、ようやく静寂が戻り始めていた。
夜の帳は少しずつ薄れ、木々の隙間からは淡い朝もやが流れ込んでいる。
炭治郎は肩で息をしながら、地面に突き立てた日輪刀へ手を添えていた。
「……終わった……」
その隣では、善逸が仰向けに倒れ込んでいる。
「もう……無理……足が動かない……。俺、今日ものすごく頑張った……獪岳に褒めてもらえる……」
「善逸、まだ最終選別は終わってないぞ」
「えええええっ!?」
善逸が飛び起きた。
「嘘だろ炭治郎!? 手鬼を倒したんだから終わりじゃないの!? もう十分だよ! 俺の人生、ここで一区切りにしようよ!」
「そんなこと言ってる場合じゃ――」
その時だった。
二人の会話を遮るように。
「……グルルル……」
森の奥から、不気味な唸り声が響いた。
炭治郎の表情が変わる。
「……善逸」
「な、何?」
「鼻を使わなくても分かる」
炭治郎は刀を握り直した。
「来る」
次の瞬間。
「ヒヒヒヒヒッ!」
「血の匂いだぁぁ!」
「美味そうな人間がいるぞ!」
木々の向こうから、次々と鬼が姿を現した。
一匹。
二匹。
十匹。
二十匹。
さらにその奥にも、無数の気配が蠢いている。
手鬼との戦いで大量に流れた血。
そして手鬼が消滅したことで、藤襲山の鬼たちが一斉に獲物を求めて動き始めたのだ。
「嘘だろ……」
炭治郎の額に冷や汗が浮かぶ。
善逸は真っ青になった。
「多い多い多い多い!!」
「善逸!」
「何十匹いるんだよぉぉぉ!! 俺もう疲れたんだよぉぉ!!」
「背中を合わせるんだ!」
「嫌だぁぁぁ!」
「善逸!」
「分かったよぉぉぉ!」
二人は互いの背中を合わせた。
鬼たちが一斉に飛び掛かる。
「喰わせろぉぉ!!」
「死ねぇぇ!!」
炭治郎は刀を振り抜いた。
「水の呼吸――弐ノ型・水車!」
身体を回転させながら迫る鬼を斬り飛ばす。
しかし、一匹を斬れば二匹が来る。
二匹を倒せば、さらに五匹が襲ってくる。
「くっ……!」
炭治郎の呼吸が乱れ始める。
手鬼との戦闘ですでに限界近くまで消耗していた身体には、この数はあまりにも重かった。
善逸も必死に雷の呼吸を使う。
「雷の呼吸――壱ノ型!」
バリィッ!!
一瞬で三匹の首を斬り飛ばす。
だが、着地した瞬間に膝が崩れた。
「うわぁぁっ!」
「善逸!」
「だ、大丈夫! まだ動ける……!」
「無理するな!」
「無理しないと死ぬんだよぉぉ!」
善逸が涙目で叫ぶ。
その時。
「グオオオオオッ!!」
巨大な鬼が森の奥から現れた。
その両手には、巨大な岩石。
「まとめて潰れろぉぉ!!」
「炭治郎!!」
巨大な岩が投げ飛ばされた。
逃げ場がない。
炭治郎は刀を構える。
(避けられない……!)
善逸も歯を食いしばった。
(兄貴……!)
そして――。
「ったく……」
声が響いた。
「朝っぱらから、山中に響き渡る情けねえ悲鳴を上げてんじゃねえよ」
次の瞬間。
ドォォォォン!!
空から青白い雷が落ちた。
巨大な岩石が粉々に砕け散る。
同時に周囲の地面へ無数の雷撃が走り、襲い掛かっていた鬼たちが一斉に吹き飛ばされた。
「ギャアアアアアッ!!」
「な、なんだこの雷は!?」
「熱い! 熱いィィ!!」
爆風が森を駆け抜ける。
炭治郎は腕で顔を覆いながら、その向こうを見つめた。
黒煙。
青白い閃光。
そして――。
ゆっくりと歩いてくる一人の男。
黒地に雷の意匠を纏った隊服。
首元には薄青い装飾。
手にした日輪刀からは、絶えず青白い電光が漏れている。
「……獪岳さん!」
「兄貴ぃぃぃ!!」
鳴柱・獪岳。
二人にとって、誰よりも頼もしい先輩だった。
獪岳は二人を一瞥する。
「お前ら……」
炭治郎と善逸の傷。
荒い呼吸。
泥まみれの衣服。
そして周囲に転がる鬼の死骸。
それらを確認すると、獪岳は小さく鼻を鳴らした。
「……随分と派手にやったじゃねえか」
「はい! 手鬼を――」
「話は後だ」
獪岳が刀を抜く。
「まだ終わってねえ」
炭治郎が周囲を見る。
確かに、残った鬼たちが再び立ち上がっていた。
「どうして獪岳さんがここに?」
「最終選別の鬼どもが予定以上に活性化しやがった」
獪岳は面倒そうに答えた。
「本部から緊急指令が来た。俺と冨岡が駆除に入ってる」
「冨岡さんも!?」
「ああ。あいつは別方向だ」
獪岳は刀を肩に担いだ。
「勘違いするな。お前らを助けに来たわけじゃねえ。山の異常を処理しに来ただけだ」
そう言いながらも、獪岳は善逸の足元を見る。
「……善逸」
「は、はい!」
「立てるか」
「立てます!」
「嘘つけ。膝が笑ってんぞ」
「……」
「馬鹿が」
獪岳はため息をついた。
だが、その声には怒りよりも安堵が混じっていた。
「よく生き残ったな」
「……!」
善逸の目が潤む。
「兄貴……」
「泣くな。まだ終わってねえ」
「泣いてないよぉ……!」
「だったら鼻水拭け」
「はいぃ……!」
炭治郎はその光景を見ながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
獪岳は厳しい。
口も悪い。
だが――。
自分たちが生きていることを、誰よりも喜んでいる。
「獪岳さん」
「なんだ」
「俺たちも戦います」
炭治郎が刀を構えた。
「まだ戦える!」
獪岳は炭治郎をじっと見つめた。
そして、ほんの少しだけ口元を上げる。
「……上等だ」
獪岳は前を向いた。
その瞬間、鬼たちが一斉に襲い掛かる。
「人間が三人!」
「柱から喰ってやる!」
「殺せぇぇぇ!!」
獪岳の瞳が鋭く細められた。
「……俺の弟弟子と、俺が認めた後輩を」
刀身に雷光が集束していく。
「好き勝手に喰おうとしてんじゃねえぞ」
バチバチバチッ!!
空気そのものが震えた。
炭治郎は思わず息を呑む。
善逸は目を輝かせる。
「兄貴……!」
獪岳が一歩踏み出した。
「雷の呼吸――」
青白い雷が、山中を駆け巡る。
「漆ノ型――」
周囲の鬼たちが、本能的な恐怖を覚えて後ずさる。
「帝釈天!!」
ドォォォォォン!!
九頭の青白い雷龍が一斉に出現した。
一本ではない。
二本でもない。
四方八方。
あらゆる方向から雷龍が襲い掛かる。
鬼たちが逃げようとする。
しかし、逃げ道など存在しなかった。
「な――」
「馬鹿な……!」
「こんな……!」
雷龍が大地を駆ける。
木々の間を縫う。
鬼たちを包囲する。
そして――。
一斉に牙を剥いた。
「「「ギャアアアアアアッ!!」」」
轟音。
閃光。
爆風。
ほんの数秒後。
そこに立っていたのは、獪岳だけだった。
鬼たちは一匹残らず灰となって消えている。
善逸は呆然とした。
「……やっぱり」
拳を握り締める。
「やっぱり兄貴は……すげえ……!」
炭治郎もまた、獪岳の背中を見つめた。
強い。
圧倒的に強い。
だが、ただ強いだけではない。
自分たちを守るために、その強さを振るっている。
獪岳は刀を振って灰を払い、鞘へ収めた。
「さて」
振り返る。
「お前ら」
「はい!」
「まだ選別は終わってねえぞ」
「……はい!」
「だったら最後まで生き残れ」
獪岳は二人の頭を、それぞれ乱暴に叩いた。
「俺の弟弟子と、俺が認めた剣士が途中でくたばったなんて話になったら、俺の面子が丸潰れだ」
善逸が涙を浮かべながら笑う。
「絶対、生き残る……!」
炭治郎も力強く頷いた。
「俺もです!」
その時、東の空が白み始めた。
紫藤の花が朝日に照らされる。
獪岳は二人の前を歩き始めた。
「来い」
「はい!」
「置いていくぞ」
「待ってよ兄貴ぃぃ!」
炭治郎と善逸が、その背中を追いかける。
やがて藤襲山には、再び静かな朝が訪れようとしていた。
しかし――。
最終選別は、まだ終わっていない。
若き二人の剣士は、鳴柱・獪岳という大きな背中を道標にして、残された試練へと挑んでいく。
その胸には一つの決意があった。
――絶対に、生きて帰る。
それこそが、獪岳から受け取った「泥をすすってでも生き抜く」という教えへの、何よりの答えだった。