激闘の夜が明けた。
東の空から差し込む朝日が、藤襲山を覆っていた深い闇をゆっくりと追い払っていく。
紫藤の花々は朝露を纏い、薄紫色の花弁を静かに揺らしていた。
あれほど恐ろしく感じられた山が、今はまるで別の場所のように穏やかだった。
しかし――その美しい景色の中に立つ者たちは、誰もが満身創痍だった。
「……以上、五名」
黒髪の童子が淡々と告げる。
藤襲山へ入った受験者たち。
その中で七日間の試練を生き抜き、朝日を浴びることができた者は、僅か五人だけだった。
竈門炭治郎。
我妻善逸。
栗花落カナヲ。
不死川玄弥。
そして、もう一人の若い剣士。
皆、傷だらけだった。
疲労で立っていることすら辛い。
それでも誰一人として、その場に倒れ込もうとはしなかった。
炭治郎はゆっくりと周囲を見回す。
(これだけ……)
胸の奥が締め付けられる。
最終選別に挑んだ者たちの中には、自分と同じように家族を想い、誰かを救いたいと願っていた者もいただろう。
それなのに、生きて帰れるのは僅かな人数だけ。
炭治郎は静かに拳を握った。
その時だった。
ザッ。
砂利を踏みしめる足音が響く。
ザッ。
もう一歩。
そして――。
「ハッ」
聞き慣れた声が響いた。
「思ってたより残ったじゃねえか」
鳥居の向こうから現れたのは、黒地に雷の意匠を纏った男。
腰には日輪刀。
鋭い眼光。
そして全身から漂う圧倒的な存在感。
鳴柱・獪岳。
その隣には、青い羽織を纏った冨岡義勇も歩いていた。
「獪岳さん!」
炭治郎の顔が一気に明るくなる。
「冨岡さんも!」
「獪岳あぁぁぁん!!」
善逸も涙を浮かべながら駆け出そうとする。
しかし――。
ギロリ。
獪岳の視線が善逸を射抜いた。
「……」
「……」
善逸の足が止まる。
「お前、何しに来たんだ?」
「……お、お出迎えしてくれる兄貴に抱きつこうと……」
「誰が許可した」
「ごめんなさい!」
即座に直立する善逸。
炭治郎は思わず苦笑した。
「相変わらずだな、お前ら」
義勇が小さく呟く。
「冨岡さん!?」
「いや……なんでもない」
獪岳は五人の受験者を順番に見回した。
その眼差しは厳しい。
だが、その奥には確かな安堵があった。
全員の足。
腕。
顔。
呼吸。
獪岳は一人ずつ傷の状態を確認していく。
「……よし」
小さく呟く。
「全員、生きてるな」
その言葉に、炭治郎の胸が温かくなる。
「はい!」
獪岳は満足そうに鼻を鳴らした。
「なら上出来だ」
「……え?」
「勘違いすんな。最終選別は鬼を何匹殺したかを競う場所じゃねえ」
獪岳は背を向ける。
「生き残った奴が勝ちだ」
その言葉は、炭治郎の胸に深く刻まれた。
「さて、次だ」
獪岳が指を鳴らす。
「玉鋼を選べ」
黒髪と白髪の童子たちが、いくつもの玉鋼を並べていく。
生き残った者たちは、それぞれ自分の手で一つを選び取る。
炭治郎は目を閉じた。
そして――。
「これだ」
一つの玉鋼を手に取る。
獪岳は横目で確認した。
「……悪くねえ」
「本当ですか?」
「喜ぶな。刀が出来上がるまで分からねえ」
「はい!」
次に、カナヲが玉鋼を選ぶ。
そして玄弥。
獪岳の視線が玄弥に止まった。
「……不死川」
「……なんだよ」
玄弥は警戒する。
当然だった。
兄・実弥と深い関わりを持つ鳴柱。
自分のことをどう思っているのか。
玄弥には分からなかった。
獪岳は無言で玄弥の前まで歩く。
そして――。
バシンッ!
「痛ぇ!」
いきなり頭を叩かれた。
「な、何しやがる!」
「お前は馬鹿か」
「はぁ!?」
「無茶が過ぎる」
獪岳の声は低い。
「命を粗末にするような戦い方をしやがって。兄貴に会いたくねえのか?」
玄弥の表情が凍る。
「……兄貴……」
獪岳はため息を吐いた。
「実弥には俺から伝えてやる」
「……!」
「お前が生き残ったこともな」
玄弥は目を見開く。
「だから――」
獪岳は玄弥の額を指で小突いた。
「死ぬんじゃねえぞ」
「……」
「次に会った時、死にかけてたら俺が叩きのめしてでも実弥のところへ引きずっていく」
「……余計なお世話だ」
玄弥は顔を背ける。
だが、その声には先ほどまでの刺々しさがなかった。
「……ありがとう」
小さな声だった。
獪岳は聞こえなかったふりをした。
「採寸へ行け」
「……ああ」
五人はそれぞれの道へ歩き出す。
その背中を見送りながら、義勇が静かに口を開いた。
「獪岳」
「あ?」
「随分と面倒見がいいな」
「うるせえ」
「そうか」
「……お前も似たようなもんだろうが」
「そうかもしれない」
「そこで認めるんじゃねえよ」
義勇はほんの僅かに口元を緩めた。
そんな二人を、少し離れた場所から炭治郎が見ていた。
(獪岳さんは……やっぱり優しい)
口は悪い。
態度も乱暴。
けれど――。
誰よりも、生き残った者の命を大切にしている。
炭治郎はそんな獪岳の背中を見つめ、強く拳を握った。
やがて一行は藤襲山を下り始めた。
山道を歩きながら、善逸が獪岳の隣へ近づく。
「兄貴……」
「なんだ」
「俺……ちゃんと帰ってこられたよ」
「見りゃ分かる」
「褒めてよ!」
「調子に乗るな」
「そこは褒めるところだろぉぉ!」
「うるせえ!」
「ひどい!」
その騒がしいやり取りに、炭治郎は笑った。
義勇も黙ったまま二人を見ている。
朝の藤襲山に、若い剣士たちの声が響く。
やがて山を下りきる。
振り返れば、紫藤の花が朝日に照らされていた。
炭治郎はその景色を見つめる。
ここで多くの命が失われた。
錆兎。
真菰。
そして、名も知らない多くの剣士たち。
自分たちは、その命の上に立っている。
だからこそ――。
「獪岳さん」
「あ?」
炭治郎が真っ直ぐに告げた。
「俺、もっと強くなります」
「……」
「禰豆子を人間に戻して、鬼舞辻無惨を倒します。そして――俺のように、大切な人を失って泣く人を、一人でも減らします」
獪岳はしばらく炭治郎を見つめた。
そして――。
「威勢だけは一人前だな」
「はい!」
「だがな、炭治郎」
獪岳の声が少しだけ柔らかくなる。
「簡単に死ぬんじゃねえぞ」
炭治郎が頷く。
「お前がこれから背負うものは、今まで以上に重くなる」
「……はい」
「それでも歩け」
獪岳は前を向く。
「泥をすすってでも、生きて前へ進め」
善逸も力強く頷いた。
「俺も……絶対に死なない」
「お前はまず泣くのをやめろ」
「努力します!」
「努力するところが違えんだよ」
「ひどい!」
再び騒がしくなる二人。
その姿を見ながら、獪岳は小さく笑った。
朝日が山々を照らしている。
最終選別という長い夜を生き抜いた若き剣士たちは、今、新たな道へ踏み出した。
その胸に刻まれているのは、ただ一つ。
――生きる。
どれほど傷ついても。
どれほど絶望しても。
泥をすすってでも、生きて明日へ繋ぐ。
それこそが、鳴柱・獪岳が後輩たちへ託した「霹靂」の教えだった。