那田蜘蛛山の深部。
木々の隙間を縫うように張り巡らされた蜘蛛の糸が、月明かりを受けて不気味に光っていた。
一本、また一本。
炭治郎と伊之助が操られた隊士たちを救出するたび、新たな糸がどこからともなく伸びてくる。
「くそっ……!」
炭治郎は刀を振るい、襲いかかってきた隊士の身体を傷つけないよう、その背後に伸びる糸だけを斬り落とした。
「大丈夫です! もう少しで助けます!」
「頼む……!」
隊士が地面に倒れ込む。
しかし、安堵する暇はない。
「次だぞ、炭治郎!」
「分かってる!」
伊之助が二刀を振り回し、木々の間を縦横無尽に駆け抜けていく。
「猪突猛進!! 猪突猛進だああああ!!」
ギィン!
ギィン!
二本の刀が蜘蛛の糸を次々と断ち切る。
だが、伊之助の表情から余裕が消えていく。
「おい炭治郎!」
「何だ!」
「糸の大元はどこだ!?」
「それが……!」
炭治郎は鼻を利かせる。
血。
汗。
土。
鬼の臭い。
そして無数の蜘蛛の糸。
「……駄目だ!」
炭治郎が悔しそうに顔を歪めた。
「隊士たちの血と鬼の臭いが混ざりすぎている! この山全体に糸が張り巡らされていて、正確な位置を特定できない!」
「クソッ!」
伊之助が地面を蹴った。
「だったら片っ端から探すぞ!」
「待ってくれ、伊之助!」
「待ってられるか!」
伊之助は二刀を構え、さらに奥へ進もうとする。
そのときだった。
「――止まれ」
炭治郎の声ではない。
低く、よく通る声。
二人が振り返る。
木の枝の上に、鳴柱・獪岳が立っていた。
「獪岳さん!」
「兄貴!」
獪岳は周囲を見渡した。
「焦るな。敵の思う壺だ」
「でも、このままじゃ隊士たちが……!」
「だからこそ頭を使え」
獪岳の鋭い視線が伊之助へ向く。
「豚頭。お前はどうだ?」
「あぁ!?」
「炭治郎の鼻が使えねえなら、お前の出番だろ」
伊之助の動きが止まった。
「俺様の……?」
「そうだ。お前には鼻とは別の武器がある」
獪岳は自分の胸元を軽く叩く。
「肌だ」
「肌……?」
「お前は獣だろうが。目で見るだけでも、鼻で嗅ぐだけでもねえ。空気の揺れ、地面の震動、殺気――身体全部で周囲を感じ取れ」
伊之助はしばらく黙り込んだ。
そして――。
「……ハッ!」
突然、口元を吊り上げた。
「そういうことか!」
二本の刀を地面へ突き立てる。
「だったら俺様の得意分野だ!」
伊之助は目を閉じた。
両腕を大きく広げる。
呼吸を整える。
森の音が消えていく。
木々のざわめき。
遠くで鳴く鳥。
炭治郎の呼吸。
そして――蜘蛛の糸が空気を震わせる微かな音。
ピン。
ピン……。
無数の糸が、山全体で繋がっている。
伊之助の皮膚が、その振動を捉える。
「……そこだ」
「伊之助?」
「右じゃねえ……左でもねえ……」
伊之助がゆっくりと顔を上げる。
「もっと奥だ!」
一気に目を見開いた。
「山の奥! 大きな木の上だ!」
炭治郎が息を呑む。
「分かったのか!?」
「当たり前だ!」
伊之助が胸を張る。
「俺様の肌は全部感じ取ってんだよ! 糸がどこから伸びてるのか、どこへ繋がってるのか……全部な!」
その瞬間、伊之助の身体から凄まじい殺気が放たれた。
「獣の呼吸――漆ノ型!」
二本の刀を握り直す。
「空間識知!!」
ドンッ!
伊之助を中心として、周囲の空間が一瞬で彼の感覚へと変わった。
木々。
岩。
糸。
隊士。
鬼。
そのすべてが、まるで目を閉じたまま見えているかのように脳裏へ浮かび上がる。
そして、その中心。
「見つけたぞおおおお!!」
伊之助が叫んだ。
「この山の糸を操ってる奴は、あっちだ!」
指差した先には、巨大な樹木がそびえ立っていた。
炭治郎の鼻にも、ようやく強烈な鬼の臭いが届く。
「……いる!」
炭治郎が刀を握り締める。
「間違いない! あそこに鬼がいる!」
獪岳は口元を僅かに吊り上げた。
「上出来だ、伊之助」
「へへっ! もっと褒めろ!」
「調子に乗るな、豚頭」
「誰が豚頭だ雷男ぉぉぉ!!」
伊之助が怒鳴り散らす。
獪岳は小さく笑った。
「だが……今のは見事だった」
「……!」
伊之助が一瞬、言葉を失う。
柱から真正面から認められた。
それが嬉しくないはずがない。
「へへへ……そうだろう! 俺様は強いからな!」
「その強さを今から証明してこい」
獪岳が刀を抜く。
バチッ――!
青白い電光が刀身を走った。
「道は俺が作る」
炭治郎と伊之助が獪岳を見る。
「お前らは、その道を走れ」
「はい!」
「任せろ!」
「それから――」
獪岳の眼光が、森の奥を射抜く。
「操られてる隊士を一人も死なせるな」
「……はい!」
炭治郎が力強く頷く。
伊之助も二刀を構えた。
「当然だ! 俺様が全部ぶっ倒して助けてやる!」
「よし」
獪岳が地面を蹴った。
バリィィィッ!!
青白い雷光が森を駆け抜ける。
蜘蛛の糸が次々と切断され、行く手を塞いでいた木々が吹き飛んでいく。
「行け!」
獪岳の怒号が響く。
「炭治郎! 伊之助!」
「はい!」
「おおおおおっ!!」
二人は雷光の後を追って駆け出した。
那田蜘蛛山のさらに深部。
そこには、無数の糸を操る「母蜘蛛」が待ち構えている。
だが、彼女はまだ知らない。
自らの張り巡らせた蜘蛛の巣が、逆に自分の居場所を暴く道標となってしまったことを。
そして――。
蜘蛛の巣を断ち切る雷鳴と、獣の嗅覚ならぬ感覚、そして水の剣士の刃が、少しずつその巣の中心へ迫っていることを。
「待ってろよ、クソ鬼ぃぃぃ!!」
伊之助の咆哮が、那田蜘蛛山の深奥へ轟いた。