那田蜘蛛山の中腹。
炭治郎、伊之助、そして獪岳たちが山奥へ進んでいく一方で、我妻善逸は一人、薄暗い山道に取り残されていた。
月明かりすら木々に遮られ、周囲には不気味な静寂が広がっている。
「嫌だぁぁぁぁ!! なんで俺だけ一人なのぉぉぉ!!」
善逸は半泣きになりながら山道を走っていた。
「炭治郎ぉぉ! 伊之助ぇぇ! 獪岳あぁぁん! 置いてかないでよぉぉ!!」
返事はない。
聞こえるのは、自分の足音と木々のざわめきだけ。
「……本当に誰もいない……?」
善逸が恐る恐る足を止めた、その時だった。
ポタッ。
頬に冷たい液体が落ちた。
「……?」
善逸が指で触れる。
紫色の粘ついた液体。
「うわぁぁぁぁ!! なにこれぇぇ!?」
慌てて頭上を見上げた。
そこにいたのは、人間の胴体に蜘蛛の脚を生やした異形の鬼。
木の枝に逆さまになりながら、巨大な蜘蛛の口を歪めて笑っている。
「見つけたぞ、小僧……」
「ひっ……!」
兄蜘蛛。
その不気味な姿を目にした瞬間、善逸の身体が硬直した。
「お前も仲間にしてやるよ。俺の毒が回れば、じきに身体が蜘蛛へ変わる。髪も抜け、皮膚も爛れ、最後には――」
「嫌だぁぁぁぁぁ!!」
善逸の絶叫が山中に響き渡る。
「蜘蛛になるのだけは嫌だぁぁ!! 俺は普通に生きたいんだよぉぉ!!」
だが、叫びながらも身体にはすでに異変が起きていた。
手甲の隙間から紫色の斑点が広がっている。
「……え?」
手が震える。
指先の感覚が鈍い。
「毒……?」
兄蜘蛛が愉快そうに笑った。
「もう回り始めている。あと少しだ」
「いやだ……」
善逸の顔から血の気が引いていく。
「死にたくない……」
膝が震える。
「獪岳……」
無意識に、兄貴弟子の名前が口から零れた。
だが、恐怖は容赦なく善逸の意識を呑み込んでいく。
「嫌だぁぁぁぁぁ!!」
その叫びが途切れた。
ガクンッ。
善逸の身体が崩れ落ちる。
「ヒヒッ! 腰が抜けたか!」
兄蜘蛛が勝利を確信した。
しかし――。
倒れたはずの善逸の指が、僅かに動いた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「……呼吸を……整える……」
先ほどまでの泣き叫ぶ姿が嘘のようだった。
善逸の瞼は閉じられている。
恐怖から逃げるように意識を手放した彼の身体は、それでも獪岳から叩き込まれた稽古だけを覚えていた。
『善逸。お前は雷の呼吸・壱ノ型しか使えねえ』
幼い頃の獪岳の声。
『なら、それでいい』
『一つしか使えねえなら、その一つを極限まで磨け』
竹刀が振り下ろされる。
『泣いてる暇があるなら立て』
また一撃。
『怖くても足を止めるな』
さらに一撃。
そして最後に――。
『泥をすすってでも生き残れ。死ぬまで諦めるんじゃねえ』
「……そうだ……」
善逸の呼吸が、深くなる。
「俺には……これしかない……」
握り締めた日輪刀。
「でも……これだけは……誰にも負けない……!」
次の瞬間。
ドンッ!!
大地が爆ぜた。
「なっ!?」
兄蜘蛛が目を見開く。
善逸の姿が消えていた。
「どこへ――」
バリバリバリバリッ!!
青白い雷光が樹海を駆け抜けた。
一度。
二度。
三度。
六度。
縦横無尽に木々を蹴り、雷そのものとなった善逸が兄蜘蛛へ迫る。
「雷の呼吸――」
兄蜘蛛が慌てて糸を放つ。
「壱ノ型――」
糸が善逸の身体を捉えようとする。
しかし遅い。
「霹靂一閃――六連!!」
ドドドドドンッ!!
六つの雷鳴が、夜の那田蜘蛛山を轟かせた。
糸が切断される。
木々が弾ける。
兄蜘蛛の目には、もはや善逸の姿を捉えることすらできなかった。
「な……なんだ、この速さ……!?」
最後の一閃。
「――終わりだ」
ヒュンッ。
善逸の刀が走った。
兄蜘蛛の首が宙を舞う。
遅れて身体が崩れ落ち、鬼の肉体が灰へと変わっていく。
善逸は空中で刀を納め、そのまま木の枝へ静かに着地した。
だが――。
「……っ」
毒は消えていない。
膝から力が抜け、善逸は枝の上に座り込んだ。
「はぁ……はぁ……」
呼吸するだけでも苦しい。
それでも、善逸は夜空を見上げた。
雲の切れ間から、淡い月が覗いている。
「……獪岳……」
思い浮かぶのは、いつも怒鳴ってばかりの兄貴弟子。
「俺……ちゃんと……戦えたかな……」
返事はない。
それでも善逸は、ほんの少しだけ笑った。
「……少しは……褒めてくれるかな……」
その時。
「ええ。きっと褒めてくれますよ」
「……え?」
木々の間から、蝶の髪飾りが揺れた。
ふわりと舞い降りたのは、胡蝶しのぶだった。
「善逸くん。よく頑張りましたね」
「しのぶ……さん……?」
しのぶは微笑みながら、善逸の腕に残る毒の痕を確認する。
「かなり強い毒ですね。でも、ご安心ください。解毒剤を持ってきています」
「……獪岳が……?」
「はい。あなたたちが危険な場所へ向かうことを、あの方が何も考えていないと思いますか?」
しのぶは小さく笑った。
「あなたが一人になった場合も想定して、私に救護を頼んでいたんですよ」
「……そっか……」
善逸の目から、涙が一筋こぼれた。
「やっぱり……獪岳は……優しいなぁ……」
「本人に言ったら、怒られるでしょうけどね」
「うん……絶対怒る……」
しのぶが解毒剤を投与する。
少しずつ身体の痺れが薄れていく。
善逸は再び夜空を見上げた。
「……獪岳……俺、もっと強くなるよ」
遠くで雷鳴が響いた。
まるでその言葉に応えるように。
「だから……ちゃんと見ててくれよな……兄貴」
那田蜘蛛山を覆う闇の中。
一人の少年が放った雷鳴は、確かに山の奥へと轟き渡っていた。