「黙れ……黙れぇぇぇぇぇ!!」
那田蜘蛛山の夜を、累の絶叫が引き裂いた。
父蜘蛛を倒され、自らの糸すら三人の柱によって容易く切り払われたことで、累の中に残されていた最後の理性が崩れ落ちる。
幼い顔に浮かんでいたのは、もはや冷静さではない。
怒り。
恐怖。
そして、自分の『家族』を失いたくないという歪んだ執着。
「僕の家族は……僕のものだ……! 誰にも壊させない!!」
累が両腕を大きく広げた。
ドクンッ――。
鬼の身体を巡る血が激しく脈打つ。
次の瞬間、累の全身から真紅の糸が爆発するように噴き出した。
「血鬼術――目眩く輪廻!!」
ギャギャギャギャッ!!
無数の赤い鋼糸が周囲へ一斉に走った。
木々が斬り裂かれる。
大地が抉れる。
巨大な岩すら瞬時に細切れとなって宙を舞った。
一本一本の糸が刃となり、無数の刃が円環状に重なりながら戦場全体を呑み込んでいく。
「これは……!」
炭治郎が息を呑んだ。
先ほどまでとは明らかに違う。
速さも、硬さも、殺気も桁違いだった。
義勇が即座に刀を構える。
「水の呼吸――拾壱ノ型、凪」
静寂が広がる。
義勇の周囲へ侵入してきた糸が次々と切断されていく。
しかし――。
「……!」
一本。
二本。
切断された糸の向こうから、さらに数十本の糸が押し寄せる。
累は叫びながら糸を操り続けた。
「死ね……死ねぇぇぇ!!」
「義勇、下がりな」
低い声が響いた。
義勇の前へ、一人の男が歩み出る。
黒地に金の雷模様が刻まれた羽織。
鳴柱・獪岳。
その右手は静かに日輪刀の柄へ添えられていた。
「このクソガキの相手は、俺がする」
「獪岳」
「お前は炭治郎たちを守れ。しのぶも後ろを頼む」
「分かりました」
しのぶが即座に頷く。
炭治郎は獪岳の背中を見つめた。
「獪岳さん……!」
「炭治郎」
獪岳は振り返らない。
「よく見ておけ」
バチ……。
刀の鍔元から青白い火花が弾ける。
「お前らがこれから先、何度絶望しようが――それを叩き割って前へ進むってのが、どういうことなのか」
獪岳の足元から、雷気が広がった。
バチバチバチッ!!
空気が震える。
周囲の木々が軋む。
地面に転がっていた小石が、まるで見えない力に弾かれたように浮き上がった。
炭治郎の肌が粟立つ。
(選別の時とは違う……!)
あの藤襲山で見た雷も凄まじかった。
だが、今の獪岳から感じるものは、その比ではない。
静かだった。
それなのに――重い。
一歩踏み出すだけで、周囲の空気そのものが支配されている。
(これが……鳴柱・獪岳さんの、本当の強さ……!)
累もまた、その異変を感じ取っていた。
「な……なんだ……?」
初めて、累の声に怯えが混じる。
「その雷……何なんだ……!」
獪岳がゆっくりと刀を抜いた。
青白い電光が刃全体を走り、暗闇を照らす。
「硬い糸?」
獪岳が鼻で笑った。
「切れない絆?」
一歩。
大地が沈む。
「――くだらねえ」
累の目が見開かれる。
「どんなに硬え壁だろうが、どんなに深い絶望だろうがな」
獪岳の身体が低く沈んだ。
「上から叩き割りゃいいんだよ!!」
その瞬間――。
世界から音が消えた。
炭治郎には、獪岳の姿が一瞬消えたように見えた。
次の瞬間。
「雷の呼吸――」
ゴロゴロゴロゴロ……。
空が鳴った。
山そのものが震える。
「漆ノ型――」
獪岳の瞳が鋭く光る。
「帝釈天!!」
ドォォォォォンッ!!
夜空が爆発した。
一本の雷ではない。
二本でも、三本でもない。
九頭。
巨大な青白い雷龍が、獪岳の一閃から解き放たれた。
「な――!?」
累が絶句する。
九頭の雷龍が咆哮しながら四方八方へ散開する。
上空へ。
地面へ。
左右の森へ。
そして――累が張り巡らせた無数の赤い鋼糸へ。
ズガァァァン!!
雷龍の爪が糸の網を噛み砕いた。
一本。
十本。
百本。
累が全力で操る糸が、次々と雷光に呑み込まれていく。
「嘘だ……!」
累の顔が歪む。
「僕の糸は……僕の血鬼術は……!」
「だからどうした」
獪岳の声が雷鳴の向こうから響く。
「俺はな――」
二頭目の雷龍が糸を粉砕する。
三頭目が森を駆け抜ける。
四頭目、五頭目、六頭目が累の退路を完全に塞ぐ。
「今まで何度も、何度も――」
七頭目が累の血鬼術を正面から食い破る。
「どうしようもねえ絶望を叩き割ってきたんだよ!!」
八頭目。
九頭目。
全ての雷龍が一つに収束する。
「だから――」
獪岳が踏み込んだ。
「お前程度の絶望に、俺が負けるかぁぁぁぁッ!!」
バチィィィィンッ!!
最後の一閃が、雷鳴と共に戦場を横切った。
累の瞳が大きく見開かれる。
「……え?」
次の瞬間。
首筋に、一筋の赤い線が走った。
「――あ……」
ゴトン。
累の頭部が地面へ落ちる。
遅れて、胴体が大きく揺らいだ。
「……そんな……僕の……家族……」
身体が崩れ始める。
「僕の……絆……」
累の声が小さくなる。
「……お父さん……お母さん……」
そして――。
サァァァ……。
下弦の伍・累の身体は、紫煙と灰となって夜風へ溶けていった。
静寂が戻る。
獪岳はしばらく灰を見つめていた。
やがて、ゆっくりと刀を振り、血を払う。
カチン。
鍔が鳴った。
それと同時に、夜空を覆っていた九頭の雷龍も消え去った。
「……フン」
刀を納める。
「歪んだ絆にしがみついたままじゃ、誰も救えねえんだよ」
その背中を、炭治郎は黙って見つめていた。
「獪岳さん……」
あまりにも強い。
けれど、その背中に感じるものは恐怖だけではなかった。
自分たちが何度倒れても立ち上がれるように、泥をすすってでも生きろと教えてくれた人。
その人が今、絶望そのものを雷で叩き割った。
しのぶが静かに微笑む。
「相変わらず、派手ですね」
「うるせえ」
「でも――」
しのぶは灰の舞う夜空を見上げる。
「これで、この山にいた鬼たちの脅威も大きく減りましたね」
「ああ」
獪岳は那田蜘蛛山の奥を睨む。
「だが、まだ終わっちゃいねえ」
その言葉に、炭治郎も顔を引き締める。
累を倒した。
それでも山には、まだ無数の鬼の気配が残っている。
そして何より――。
この戦いの裏には、さらに大きな存在がいる。
鬼舞辻無惨。
炭治郎は拳を握り締めた。
「俺も……もっと強くなります」
獪岳は振り返り、炭治郎の頭を乱暴に小突いた。
「だったら生き残れ」
「はい!」
「死んだら強くなるもクソもねえ。泥をすすってでも生きろ。それが一番大事だ」
「はいっ!!」
那田蜘蛛山に響いた最後の雷鳴。
それは下弦の伍・累の最期を告げるだけではなかった。
若き鬼殺隊士たちが、柱の背中を追いながらさらに強くなる――。
そんな、新たな戦いの幕開けを告げる雷鳴でもあった。