無限列車は、夜の闇を切り裂きながら走り続けていた。
ガタン、ゴトン。
規則正しい車輪の音。
窓の外を流れていく暗闇。
車内には、任務の緊張感とは裏腹に、どこか眠気を誘うような静けさが漂っていた。
「……ふう」
炭治郎は小さく息を吐いた。
先ほどまでの警戒は解いていない。
しかし、目の前にいる炎柱・煉獄杏寿郎の堂々たる姿と、隣で腕を組んで座る鳴柱・獪岳の存在が、彼に不思議な安心感を与えていた。
「竈門少年!」
「はい!」
煉獄が突然、声を張り上げる。
「君は最近、かなり鍛錬を積んでいるようだな!」
「えっ?」
「立ち姿が以前とは違う! 呼吸も安定している! 実に良いことだ!」
「ありがとうございます!」
炭治郎が嬉しそうに頭を下げる。
その横で獪岳が鼻を鳴らした。
「……褒めすぎだ、杏寿郎。こいつはまだまだ未熟だぞ」
「む! ならば君が鍛えればいいではないか!」
「俺は雷の呼吸だ。水の呼吸まで面倒見られるか」
「ならば精神を鍛えればいい!」
「精神論で何とかなるなら、世の中から鬼なんざ消えてるっつうの」
「はっはっは! それもそうだ!」
「笑ってんじゃねえよ!」
そんな二人のやり取りを見ながら、善逸は思わず苦笑する。
「なんだか……二人とも仲良いよね」
「誰がこいつと仲良しだ」
「俺もそう思うぞ!」
「息ぴったりじゃん……」
伊之助も楽しそうに笑っていた。
「おもしれえ! 雷男と炎男、どっちが強いんだ!?」
「勝負するか!」
「やめろぉぉぉ!」
そんな騒がしい時間が続いていた。
だからこそ――。
異変に最初に気づいたのは、獪岳だった。
「……?」
ふと、獪岳の眉が動く。
車掌が近づいてきていた。
「失礼いたします」
車掌は乗客たちの切符を確認しながら、順番に鋏を入れていく。
カチン。
カチン。
カチン。
その音を聞いているうちに、獪岳の鼻腔へ妙な匂いが入り込んできた。
(……何だ、この匂いは)
血の匂い。
そして、それに混じった異様な甘さ。
獪岳は反射的に刀の柄へ手を伸ばした。
「……おい」
だが、その瞬間。
車掌が炭治郎の切符へ鋏を入れた。
カチン。
「――ッ!」
猛烈な眠気が襲いかかった。
「な……んだ……?」
炭治郎の視界が歪む。
身体から力が抜けていく。
「炭治郎……?」
善逸の声も弱々しくなる。
「眠……い……」
伊之助は座席に倒れ込んだ。
「ぐ……なんだ……これ……」
そして、獪岳。
「……舐めた真似……しやがって……!」
バチバチバチッ!!
身体中に雷気を巡らせる。
呼吸を整え、血流を強制的に活性化させる。
「寝てたまるか……!」
しかし。
眠気は消えなかった。
むしろ、雷気を巡らせれば巡らせるほど、頭の奥へ重い霧が侵入してくる。
(血鬼術……か)
獪岳は歯を食いしばった。
(こいつ……俺たちを眠らせるつもりか……!)
視界の端で、煉獄の身体がゆっくりと傾いた。
「……む……」
炎柱の巨体が、座席へ沈む。
「杏寿郎……!」
獪岳が手を伸ばす。
しかし、その手も途中で止まった。
「……クソッ……!」
そして――。
ガクリ。
獪岳の頭が落ちた。
車内に静寂が戻る。
完全に眠りへ落ちた四人。
その様子を確認すると、車掌は不気味な笑みを浮かべた。
「……良い夢をご覧ください」
やがて車掌が去っていく。
入れ替わるように、天井の暗がりから数人の子供たちが姿を現した。
その手には、不思議な縄が握られている。
「これを……柱たちに繋げば……」
少年の手は震えていた。
「本当に……これで、夢の中へ入れるんだよな?」
「うん」
別の子供が頷く。
「縄の先には、あの人の血鬼術が繋がっている。あの人たちの精神へ入り込んで、無意識領域にある『核』を壊せばいい」
「でも……柱だぞ」
少年が恐る恐る獪岳を見る。
「失敗したら……殺されるんじゃ……」
「大丈夫だよ」
少女が囁く。
「眠っている間なら、柱だって戦えない」
子供たちは、それぞれ眠っている剣士へ縄を繋いでいく。
炭治郎。
善逸。
伊之助。
煉獄。
そして――獪岳。
最後の縄が繋がった瞬間。
シュルルル……。
意識の奥深くへ、何かが侵入していった。
夢。
記憶。
願望。
恐怖。
それら全てが混ざり合う、心の最深部。
少年たちは、それぞれ別々の夢へと落ちていった。
まず、炭治郎。
その目の前に広がったのは――。
雪。
見慣れた山。
懐かしい家。
「兄ちゃん!」
聞き覚えのある声。
炭治郎が振り返る。
「……!」
そこには、禰豆子がいた。
竹筒を咥えていない。
普通の少女として笑っている。
「兄ちゃん、早く!」
「炭治郎、薪を割ってくれたの? ありがとうね」
母親が優しく微笑む。
弟や妹たちが炭治郎へ駆け寄ってくる。
囲炉裏には温かな鍋。
薪の燃える音。
家族の笑い声。
炭治郎の目から、涙がこぼれた。
「……母さん……」
「どうしたの、炭治郎?」
「……禰豆子……」
「うん?」
禰豆子が笑う。
その笑顔は、炭治郎が何よりも望んでいたものだった。
(そうだ……)
炭治郎は胸に手を当てる。
(俺は……家族を守れたんだ)
鬼に襲われることもない。
禰豆子が鬼になることもない。
鬼殺隊に入る必要もない。
誰も死なない。
誰も傷つかない。
ただ家族と一緒に暮らせる。
(ああ……)
炭治郎は、幸せそうに笑った。
(これが……俺の望んでいた日常だったんだ)
しかし――。
同じ頃。
我妻善逸の夢では。
「善逸!」
大勢の女性たちに囲まれた善逸が、鼻の下を伸ばしていた。
「えっ!? 俺、こんなにモテていいの!?」
伊之助の夢では、巨大な山を支配する王として君臨していた。
「俺様が天下の王だァァァ!」
煉獄の夢では、家族と共に穏やかな食卓を囲んでいた。
「母上!」
「杏寿郎……」
温かな時間。
誰も失わない世界。
誰も苦しまない世界。
それぞれの心が求める、最も甘美な夢。
だが――。
一人だけ。
全く違う夢を見ている男がいた。
獪岳。
その無意識領域へ侵入した少年は――。
「……え?」
言葉を失った。
そこには、何もなかった。
家もない。
人もいない。
温かな光もない。
ただ、果てしなく広がる黒い荒野。
ゴロゴロゴロゴロ……。
遠くで雷鳴が響いている。
「なんだ……ここ……」
一歩。
少年が踏み出す。
ザッ。
その瞬間。
バチィィィッ!!
目の前へ雷が落ちた。
「うわあああっ!」
少年が尻餅をつく。
地面が割れる。
雷が走る。
さらに遠くでは、無数の雷光が大地を叩き続けていた。
ゴロゴロゴロゴロ……!
ドォン!!
ドォン!!
ドォン!!
「ひっ……!」
少年の身体が震え始める。
ここには、獪岳の「幸福」が存在しない。
存在するのは――。
「生きろ」
どこからともなく、声が響いた。
「泥をすすってでも生きろ」
雷鳴が轟く。
「足を止めるな」
さらに雷が落ちる。
「絶望した時こそ、足掻け」
少年は耳を塞いだ。
「やめろ……」
「這い上がれ」
「やめろ!」
「死にたくなければ――」
「やめろぉぉぉ!」
バァン!!
少年の目の前に巨大な雷柱が立ち上がった。
その中心。
黒い羽織を纏った男の影が、ゆっくりと振り返る。
「……誰だ」
獪岳だった。
だが、眠っている獪岳本人ではない。
彼の心そのもの。
少年は震えながら後ずさる。
「お、お前……獪岳……?」
雷鳴が止む。
獪岳の影が少年を見据える。
「俺の中へ勝手に入ってきたのは、お前か」
「ひっ……!」
「……ふざけた真似しやがって」
獪岳が刀を抜く。
その瞬間。
世界中の雷が、一斉に轟いた。
「ここは俺の領域だ」
青白い雷光が、少年の顔を照らす。
「夢の中だからって――」
獪岳の瞳が鋭く細められる。
「俺が無抵抗だと思うなよ」
少年の全身から血の気が引いた。
「う……うわあああああっ!!」
少年は逃げ出した。
だが――。
逃げても逃げても、どこまでも雷鳴が追いかけてくる。
その頃、現実の無限列車では。
眠り続ける獪岳の指が、ほんの僅かに動いた。
そして――。
「……誰が、俺の中を好き勝手に荒らしてやがる……」
眠ったまま、獪岳の口元に凶悪な笑みが浮かんだ。
甘美な夢へ沈んだ若き剣士たち。
そして、悪夢そのものと化した鳴柱の精神世界。
無限列車を舞台にした血鬼術の戦いは、まだ始まったばかりだった。