「フフフ……あははははっ!」
夜の闇を切り裂きながら、無限列車はひたすら線路を走り続けていた。
車輪が鉄路を噛み砕く音。
蒸気を吐き出す音。
そして、車内で眠りへと落ちていった人々の静かな寝息。
その全てを、列車の屋根に立つ一人の鬼が愉快そうに聞いていた。
「なんて幸せそうな顔で眠っているんだろう……」
下弦の壱・魘夢。
月明かりに照らされたその顔には、異様なほど恍惚とした笑みが浮かんでいた。
「人間の心なんて、ほんの少し揺さぶってやれば簡単に壊れてしまう。幸福な夢を見せて、油断させて……その一番大切なところを、ぐしゃりと壊す」
魘夢は、自らの手甲に浮かんだ口を撫でる。
「苦しみ、絶望し、泣き叫ぶ顔……ああ、たまらないねぇ」
今回の獲物は、ただの一般人ではない。
鬼殺隊の剣士。
それも、柱が二人。
さらに若い剣士が三人。
「柱を悪夢に沈めるなんて、素敵じゃないか。特にあの鳴柱……」
魘夢は、車内で眠る獪岳へ意識を向けた。
「どんな夢を見るのかな?」
その問いに答えるように、血鬼術の縄が微かに脈動する。
夢の中へ侵入した刺客たちは、それぞれの標的の精神の核を目指していた。
炭治郎。
善逸。
伊之助。
煉獄。
そして、獪岳。
誰もが魘夢にとっては、壊すべき玩具だった。
しかし――。
「……え?」
獪岳の精神世界へ入り込んだ少年が、足を止めた。
そこには何もなかった。
いや。
正確には、「何も見えないほど暗かった」。
地面もない。
空もない。
ただ果てしなく続く漆黒。
少年は恐る恐る一歩を踏み出す。
「ここ……どこ?」
ゴロゴロゴロゴロ……。
遠くで雷鳴が響いた。
少年が顔を上げる。
その瞬間。
ドンッ!!
大地そのものを叩き割るような雷が目の前に落ちた。
「ひっ……!」
さらに一つ。
ドンッ!!
また一つ。
ドドドドドンッ!!
無数の雷が漆黒の世界を駆け巡る。
そのたびに空間が震え、少年の身体まで吹き飛ばされる。
「な、なんだよ……ここ……!」
そして。
闇の向こうから、声が響いた。
『泥をすすれ』
少年の顔が引きつる。
『這いつくばってでも生き残れ』
ズズズズズ……。
漆黒の雷気が地面を這い、少年の足元まで迫ってくる。
『諦めるな』
雷鳴。
『立て』
轟音。
『足を止めるな』
そして。
少年の目の前に、巨大な影が立ち上がった。
黒い羽織。
鋭い眼光。
身体中から青白い雷を迸らせる――夢の中の獪岳。
「ひっ……!」
夢の住人であるはずの獪岳が、ゆっくりと少年へ顔を向けた。
「俺の領域に入り込んで、何してやがる?」
「う、うわあああああっ!!」
少年は恐怖のあまり腰を抜かした。
獪岳の無意識領域。
そこは幸福でも安らぎでもない。
長年、泥をすすり、敗北を噛み締め、それでも這い上がり続けた男の精神そのものだった。
「た、助けて……!」
少年は必死に縄へ手を伸ばした。
だが。
縄はいつの間にか焼き切れていた。
「なんで……!?」
青白い雷が、少年の周囲を取り囲む。
『足を止めるな』
「ひぃぃぃぃっ!!」
少年は泣きながら夢の領域から逃げ出した。
無限列車の車内。
「うわあああああっ!!」
獪岳に縄を繋いでいた少年が、現実世界で飛び起きた。
そのまま床に転がり、泡を吹いて震えている。
「な、何なんだよ……あいつの夢……! あんなの、夢じゃない……地獄だ……!」
しかし、そんな異変に魘夢はまだ気づいていない。
「フフフ……まあいい。柱だからといって、夢から逃げられるはずがない」
魘夢は次の標的へ意識を向けた。
煉獄。
その夢の中では、燃え盛る炎が優しく揺れていた。
煉獄の家族。
弟。
父。
そして、笑顔で食卓を囲む温かな光景。
「うむ! 今日も良い日だ!」
煉獄は笑っていた。
だが、彼の夢へ侵入した少女は、少しずつ精神の核へ近づいていく。
「もう少し……もう少しで……」
その時。
少女の首元に、何かが絡みついた。
「え……?」
ギリッ。
「ぐっ……!」
夢の中の煉獄が、少女の存在を無意識に察知していた。
「他人の家族に、勝手に入るな!!」
「ひっ……!」
少女は悲鳴を上げる。
その精神力だけで、侵入者を押し返す。
「くそっ……!」
魘夢は屋根の上で眉をひそめた。
「……使えない子供たちだねぇ」
しかし。
「まだだ」
魘夢は笑った。
「竈門炭治郎の夢さえ壊せば、全員まとめて絶望する」
炭治郎の夢。
そこには、失われたはずの家族がいた。
「兄ちゃん! 早く起きて!」
「炭治郎、お味噌汁ができたわよ」
「兄ちゃん、一緒に薪を取りに行こう!」
「炭治郎、今日は雪が降るかもしれないぞ」
懐かしい声。
懐かしい匂い。
囲炉裏の温かさ。
母・葵枝の笑顔。
弟妹たちの声。
そして――。
「お兄ちゃん」
禰豆子が笑っていた。
竹筒を咥えていない。
鬼ではない。
人間のまま。
「おかえり」
炭治郎の胸が締めつけられる。
「……禰豆子」
ゆっくりと手を伸ばす。
温かい。
本物の温もりだった。
「……ああ」
炭治郎の目から涙が落ちる。
「帰ってきたんだ……俺は……」
そのまま家族に囲まれ、炭治郎は笑った。
「もう、どこにも行かなくていいんだ」
その言葉を聞いた瞬間。
炭治郎の胸の奥に、小さな違和感が走った。
――どこにも行かなくていい?
――本当に?
脳裏に浮かんだ。
血に染まった雪。
倒れた家族。
鬼となった禰豆子。
そして。
藤襲山で出会った手鬼。
錆兎。
真菰。
那田蜘蛛山で見た累。
「……違う」
炭治郎は呟いた。
「これは……」
家族の笑顔が、一瞬だけ歪んだ。
「夢だ」
風景が揺れる。
「俺の家族は……もう……」
涙が止まらない。
「死んだんだ……!」
炭治郎は顔を覆った。
それでも。
禰豆子が笑っている。
「お兄ちゃん、一緒にいよう?」
「……ごめん」
炭治郎は震える声で答えた。
「俺は……行かなきゃいけない」
「どうして?」
「守らなきゃいけない人がいる」
炭治郎は腰の刀へ手を伸ばす。
「善逸がいる」
さらに強く握る。
「伊之助がいる」
そして。
「獪岳さんや煉獄さん、しのぶさん、義勇さん……俺たちを待っている人たちがいる」
炭治郎の瞳に決意が宿る。
「だから、俺は帰らなきゃいけない」
夢の家族が泣き始める。
「行かないで」
「炭治郎……」
「お兄ちゃん……」
「……ごめん」
炭治郎は涙を流しながら頭を下げた。
「俺は……この夢よりも、現実を選ぶ!」
そして。
刀を抜いた。
「俺が斬るべきものは――」
刃を自分の首へ向ける。
「この夢だ!!」
ザシュッ!!
「ハッ!!」
現実の無限列車。
炭治郎が勢いよく飛び起きた。
「はぁっ……はぁっ……!」
全身から汗が噴き出している。
それでも、目は死んでいない。
「……戻ってきた」
周囲を見る。
善逸は眠っている。
伊之助も眠っている。
煉獄も。
そして――。
「獪岳さん……」
獪岳もまだ眠っている。
だが、その表情は険しい。
まるで夢の中でも何かと戦っているようだった。
炭治郎は歯を食いしばる。
「起こさないと……!」
その時。
背後の木箱がガタリと揺れた。
「禰豆子!」
炭治郎が振り返る。
箱から飛び出した禰豆子は、血鬼術の縄へ向かって駆け出した。
「そうだ! 禰豆子、みんなを起こしてくれ!」
禰豆子の血が炎となって燃え上がる。
ボウッ!!
血鬼術の炎が、乗客たちに繋がった縄を次々と焼き払っていく。
「よし……!」
炭治郎は刀を握り直した。
「この列車の中に鬼がいる!」
そして。
車内を睨みつける。
「俺が……絶対に見つけ出す!」
一方。
無限列車の屋根の上。
魘夢の笑顔が、初めて引きつった。
「……おかしい」
炭治郎が目を覚ました。
それだけではない。
獪岳の精神へ侵入した子供も戻ってこない。
「どういうことだ……?」
魘夢は目を細める。
「僕の夢から……抜け出した?」
その瞬間。
屋根へ、ドンッ!!と何かが着地した。
蒸気の向こうから現れたのは、日輪刀を抜いた炭治郎。
「下弦の鬼……!」
魘夢が笑う。
炭治郎もまた、真正面から睨み返した。
「お前が、この列車を襲った鬼だな!」
「フフフ……目覚めたばかりなのに、随分と威勢がいいね」
魘夢の口元が歪む。
「でも、まだ終わっていないよ」
その言葉と同時に。
無限列車そのものが、大きく蠢いた。
「な……!?」
炭治郎の顔色が変わる。
車体の奥から響く、不気味な鼓動。
ドクン。
ドクン。
まるで列車そのものが、生き物になったかのようだった。
「さあ、第二幕だ」
魘夢が恍惚と笑う。
「この無限列車そのものが、僕の血鬼術なのさ」
夜の闇を駆ける鉄の怪物。
その内部では、眠り続ける仲間たち。
そして、まだ目覚めていない二人の柱。
炭治郎は刀を構えた。
「……みんなを助ける!」
その瞬間。
遠くの車両から、青白い雷光が一瞬だけ閃いた。
「……獪岳さん?」
炭治郎の瞳に、希望の光が宿る。
まだ終わってはいない。
むしろ――。
ここからが、本当の戦いだった。