無限列車の屋根を吹き抜ける夜風が、血と蒸気の匂いを運んでいた。
先ほどまで列車の屋根を覆っていた魘夢の血鬼術は、獪岳が目覚めたことで大きく崩れ始めている。
それでも、下弦の壱は笑っていた。
「柱が……自力で眠りを破っただと……?」
屋根の上に降り立った獪岳を見つめ、魘夢の顔から初めて余裕が消える。
「あり得ない……! 人間の精神なんて、眠ってしまえば僕のものだ! どんな強い人間だって、幸せな夢を見せられれば、そこから出ようなんて思わなくなる!」
「……幸せな夢、ねえ」
獪岳は鼻で笑った。
その瞳には、先ほどまで夢の中で見せられていた光景の残滓が浮かんでいる。
幼い頃。
実弥との確執。
自分が何度も泥をすすり、何度も踏みつけられながら、それでも這い上がってきた記憶。
そして――今、自分の背中を追いかけてくる善逸たちの姿。
「俺に夢を見せるなら、もっとマシなもんを用意しやがれ」
バチッ。
獪岳の刀身から青白い雷光が弾けた。
「俺がどれだけ泥をすすって生きてきたと思ってやがる。痛みも、後悔も、恥も、全部ひっくるめて俺の人生だ。都合のいい夢なんぞで捨てられるほど、安い命じゃねえんだよ」
「……!」
魘夢が歯噛みする。
その隣では、炭治郎もまた必死に呼吸を整えていた。
「炭治郎!」
「はい!」
「お前も気を抜くな!」
獪岳が鋭く叫ぶ。
「夢から抜け出すために何度も自分の首を斬っただろうが、あれを現実でやったら終わりだ! 夢と現実の境目を見誤るんじゃねえ!」
「……っ!」
炭治郎の背筋に冷たいものが走った。
夢の中で自分の首を斬る。
あまりにも繰り返したため、その感覚が身体に染みつき始めている。
一歩間違えれば、現実の自分自身を傷つけてしまう。
「分かりました……! もう、迷いません!」
「その意気だ!」
魘夢が苛立たしげに両手を掲げた。
「だったら、何度でも眠らせてやるよ!」
無数の眼球が開く。
「血鬼術――強制昏倒睡眠・眼!」
「眠れぇぇぇぇッ!!」
ドォンッ!!
瞬間、空気そのものが歪んだ。
炭治郎の視界が白く染まり、獪岳の姿も、夜空も、無限列車も消えていく。
「くっ……!」
まただ。
また夢へ引きずり込まれる。
炭治郎の意識に、懐かしい家族の声が響いた。
「炭治郎、おかえり」
「兄ちゃん!」
「ご飯できたよ!」
あの温かな家。
あの囲炉裏。
もう二度と戻れない、かつての日常。
「……ごめん」
炭治郎の目から涙が零れる。
「本当に……帰りたいよ」
それでも、拳を強く握った。
「でも――ここにいるわけにはいかない!」
夢の家族が驚いたように炭治郎を見る。
「俺は、みんなを守るために戦う!」
父・炭十郎の幻影が、静かに微笑んだ。
『ならば、行きなさい』
その声を聞いた瞬間、炭治郎は刀を抜いた。
「俺の見るべき夢は、ここじゃない!」
ザンッ!!
自らの首を斬り落とす。
次の瞬間――
「ハッ!」
炭治郎が現実へと戻った。
しかし、その瞬間だった。
「眠れ」
「……っ!?」
再び魘夢の術が発動する。
「ハハハハッ! 無駄だよ! 目覚めても、目覚めても、また眠らせればいい! 君の精神が擦り切れるまで、永遠に繰り返してやる!」
夢。
現実。
夢。
現実。
炭治郎は何度も何度も意識を引き戻される。
そのたびに、自分の首を斬る。
そして現実へ戻る。
「ハァ……ハァ……!」
呼吸が乱れる。
思考が霞む。
刀を握る手に力が入らない。
「もう少しだ……!」
魘夢が歓喜に顔を歪めた。
「そうだ! その顔だ! 絶望しろ! 眠れ! 眠ってしまえば楽になれる!」
その瞬間。
バチィィィィン!!
凄まじい雷光が屋根を走った。
「――黙れッ!!」
獪岳の一喝が轟いた。
雷気が爆発し、魘夢の血鬼術を正面から吹き飛ばす。
「俺の後輩に、くだらねえ夢を押しつけてんじゃねえ!」
獪岳が一歩踏み込む。
「雷の呼吸――壱ノ型!」
ドォンッ!!
「霹靂一閃・連!!」
青白い雷光が幾重にも弾け飛ぶ。
獪岳の姿が消えた。
次の瞬間には魘夢の目の前。
「な――」
バキィッ!!
魘夢の手甲に浮かんでいた無数の眼球が、一瞬で斬り裂かれた。
「ぎゃあああああッ!!」
「今だ、炭治郎!」
獪岳が叫ぶ。
「夢を斬れぇぇぇッ!!」
その声が、炭治郎の胸を貫いた。
「はいっ!!」
炭治郎は大きく息を吸い込む。
水の呼吸。
全身に力を巡らせる。
そして脳裏に浮かぶのは、家族の笑顔だけではない。
錆兎。
真菰。
鱗滝。
禰豆子。
善逸。
伊之助。
そして、自分を何度も叱り、何度も背中を押してくれた獪岳。
「俺は……一人じゃない!」
炭治郎が刀を握り締めた。
「家族の想いも、仲間の想いも――全部、俺が繋ぐ!」
水流が渦を巻く。
「水の呼吸――拾ノ型!」
刀身に水龍が絡みつく。
「生生流転!!」
ドォォォン!!
激しい水流とともに炭治郎が駆け抜けた。
「うおおおおおおッ!!」
「な……なんだ、その眼は……!?」
魘夢が後退する。
だが、もう遅い。
「家族の夢を利用して、人の心を壊そうとするお前を――!」
炭治郎の刃が閃く。
「俺は絶対に許さない!!」
ザンッ!!
魘夢の首が宙を舞った。
「……やった……!」
炭治郎が息を切らしながら立ち尽くす。
獪岳も刀を納め、静かに魘夢を見つめていた。
だが――。
「……ふふ」
宙を舞う魘夢の顔に、歪んだ笑みが浮かんだ。
「残念だったね……」
「……何?」
魘夢の肉体が、ドロリと崩れ始める。
「僕の本体は……もう、とっくに……」
ドクン。
無限列車そのものが、大きく脈打った。
「……え?」
炭治郎が目を見開く。
次の瞬間。
グシャアアアアッ!!
車両の壁が肉のように膨張し、座席が巨大な血管へと変貌する。
車内から無数の肉塊がせり上がり、列車全体を包み込んでいく。
「なんだ、これ……!?」
獪岳の表情が険しくなる。
「チッ……そういうことか」
魘夢の首が、愉悦に歪んだ。
「そうさ……僕はもう、無限列車そのものと一体化しているんだよ……!」
蒸気を噴き上げながら、列車が巨大な鬼の肉体へと変貌していく。
「さあ、どうする!?」
「この列車に乗っている人間は――全員、僕の獲物だ!!」
無限列車が咆哮する。
炭治郎は刀を握り直した。
獪岳もまた、青白い雷を全身に纏う。
「……上等だ」
鳴柱が不敵に笑った。
「だったら列車ごと叩き潰すまでだ」
新たなる死闘が始まる。
下弦の壱・魘夢との戦いは、ここからが本当の決戦だった。