朝。
山の空気は冷たく、吐く息が白い。
道場の中央に、獪岳と善逸が並んで立っていた。
二人の足元には、昨日まで何度も踏み荒らした土。
桑島慈悟郎は二人を見据え、静かに告げた。
「今日から、壱ノ型を極める」
「……極める?」
善逸が首を傾げる。
「昨日、できるようになったんじゃないの?」
「馬鹿者」
桑島の声が飛ぶ。
「一度成功した程度で、型を極めたつもりになるな」
「ひぃっ!」
獪岳は黙って頷いた。
「師匠の言う通りです」
「うむ」
桑島は木刀を構える。
「一度だけ出来る技は、技ではない」
「…………」
「百回やって百回成功する。千回やって千回成功する。それでようやく戦場で使える」
獪岳の目が鋭くなる。
「なるほど」
「しかも鬼との戦いは、道場とは違う」
桑島は続ける。
「相手は動く。傷つく。血を流す。仲間もおる。恐怖もある」
「…………」
「その状況でも霹靂一閃を撃てるようになってこそ、壱ノ型を極めたと言える」
獪岳は木刀を握った。
「やります」
善逸も震えながら構える。
「俺も……!」
「よし」
桑島が頷いた。
「では、始めるぞ」
◇
最初の課題は単純だった。
直線。
二十間。
その先に立てられた一本の藁束。
それを霹靂一閃で斬る。
「雷の呼吸――壱ノ型!」
獪岳が踏み込む。
――ドンッ!!
一瞬で距離を詰める。
木刀が藁束を捉えた。
だが。
「中心から僅かにずれた」
桑島が言った。
「……はい」
「もう一度」
「はい!」
再び構える。
「雷の呼吸――壱ノ型、霹靂一閃!」
――ドンッ!
今度は中心。
「よし」
「……!」
獪岳の目が光る。
だが。
「次は百回じゃ」
「…………」
「百回連続で成功させろ」
「はい!」
獪岳は迷わなかった。
「一!」
踏み込む。
「二!」
「三!」
「四!」
「五!」
何度も。
何度も。
同じ動作を繰り返す。
足を置く位置。
腰の角度。
呼吸。
刀を抜く速度。
すべてを微調整していく。
十回。
二十回。
五十回。
八十回。
九十七。
九十八。
九十九。
「百!」
――ドンッ!!
百回目。
見事に藁束の中心を捉えた。
獪岳は息を整えた。
「……できた」
桑島は頷く。
「見事じゃ」
「……!」
初めて。
師匠から明確に褒められた。
その瞬間。
獪岳の胸の奥に、熱いものが込み上げる。
「ありがとうございます」
「だが」
「……はい?」
「まだ終わりではない」
「…………」
「次は千回じゃ」
「……」
獪岳の顔が固まった。
「千……?」
「千じゃ」
「…………」
横で善逸が青ざめる。
「じ、じいちゃん……」
「何じゃ」
「俺も?」
「当然じゃ」
「うわあああああ!!」
山に悲鳴が響いた。
◇
昼。
五百回。
獪岳の足は限界に近づいていた。
それでも止まらない。
「五百一!」
――ドンッ!
「五百二!」
――ドンッ!
「五百三!」
――ドンッ!
一回ごとに。
自分の身体と向き合う。
――速く。
――正確に。
――無駄なく。
獪岳の中で、壱ノ型の動きが少しずつ洗練されていく。
ただ速いだけではない。
最短距離。
最小の動作。
最大の加速。
そして。
「…………」
獪岳はふと思った。
――原作の獪岳は。
壱ノ型を使えなかった。
雷の呼吸の使い手でありながら、壱ノ型だけは使えなかった。
だから。
善逸と自分の間には、大きな溝が生まれた。
「……違う」
獪岳は木刀を握り締める。
「俺は……」
一歩。
「誰かを見下すために、強くなるんじゃない」
もう一歩。
「誰かと競うためでもない」
さらに一歩。
「守るためだ」
その瞬間。
獪岳の身体が走った。
――ドォン!!
藁束が真っ二つになる。
桑島の目が細くなる。
「……今のじゃ」
「……はい」
「今までで一番良い」
獪岳は息を切らしながら笑った。
「ありがとうございます」
◇
一方。
善逸は。
「六百……」
「七百……」
「八百……」
今にも泣きそうな顔で木刀を振っていた。
「もう……足が……」
「善逸」
獪岳が声をかける。
「何……?」
「力を抜け」
「え?」
「お前は速くしようとしすぎている」
「でも、速くないと駄目なんでしょ?」
「違う」
獪岳は善逸の構えを直す。
「速さは結果だ」
「結果?」
「身体の動きが無駄なく繋がれば、自然に速くなる」
善逸はじっと獪岳を見る。
「兄貴は……どうしてそんなこと分かるの?」
「……経験だ」
「まだ若いのに?」
「うるせぇ」
善逸は少し笑った。
「分かった」
そして。
もう一度構える。
「雷の呼吸……壱ノ型」
深く息を吸う。
身体の力を抜く。
足。
腰。
肩。
腕。
すべてを一つにする。
「霹靂一閃!」
――ドンッ!!
善逸の姿が消える。
「…………!」
獪岳が目を見開いた。
善逸は藁束を斬り抜け、数歩先で止まった。
「……え?」
自分でも驚いている。
「今……」
獪岳は笑った。
「やったな」
「兄貴!」
「今のは良かった」
「本当!?」
「ああ」
善逸は嬉しそうに笑う。
「俺、できた!」
「まだ一回だ」
「…………」
「だから、あと九百九十九回だ」
「鬼ぃぃぃぃ!!」
「誰が鬼だ!」
桑島は二人を見ながら笑っていた。
◇
夕暮れ。
最後の一回。
獪岳は道場の中央に立つ。
身体は限界。
だが。
不思議と頭は冴えていた。
「千回目」
桑島が告げる。
「はい」
「最後だからと力むな」
「分かっています」
「最初と同じようにやれ」
「…………」
獪岳は目を閉じる。
呼吸を整える。
――一歩目。
その一歩に。
これまで積み重ねたすべてを乗せる。
寺での日々。
悲鳴嶼との約束。
子供たちの笑顔。
桑島との出会い。
善逸との修行。
そして。
未来を変えるという決意。
「……行く」
獪岳が目を開く。
「雷の呼吸――」
腰を落とす。
「壱ノ型」
一瞬。
世界から音が消えた。
「霹靂一閃!!」
――轟ッ!!
凄まじい雷鳴。
獪岳の身体が一直線に駆け抜ける。
刀が藁束を斬り裂く。
さらにその後ろに立てられていた細い竹まで。
二本。
三本。
まとめて切断された。
「…………」
静寂。
獪岳は振り返る。
「……今のは」
桑島が答えた。
「見事じゃ」
獪岳の目が見開かれる。
「壱ノ型を、極めた」
「…………!」
獪岳は深く頭を下げた。
「ありがとうございます!」
その声には。
今までにない喜びがあった。
桑島は頷く。
「お前の雷は、確実に強くなっておる」
「はい!」
「だが、忘れるな」
「はい」
「型を極めることは、終わりではない」
桑島は空を見上げる。
「それは始まりじゃ」
獪岳も空を見る。
「……始まり」
「ああ」
「なら――」
獪岳は刀を握る。
「もっと先へ行きます」
「うむ」
「弐ノ型も、参ノ型も」
「ああ」
「全部、極めます」
そして。
獪岳は静かに笑った。
「いつか俺だけの雷を作ります」
桑島の眉が上がる。
「俺だけの?」
「はい」
「面白いことを言う」
「雷の呼吸を極めるだけじゃない」
獪岳は未来を見据える。
「俺自身の戦い方を、俺自身で作ります」
その言葉は。
後に。
「雷の呼吸・漆ノ型――帝釈天」
という、獪岳だけの雷へと繋がっていく。
◇
夜。
縁側。
善逸が隣に座る。
「兄貴」
「何だ」
「今日はすごかったね」
「お前もな」
「俺も?」
「ああ」
獪岳は善逸を見る。
「壱ノ型は、お前にとっても大事な型だ」
「うん」
「だから絶対に極めろ」
「……分かった」
善逸は拳を握る。
「兄貴には負けないからね」
「上等だ」
二人は笑う。
――まだ。
二人とも知らない。
いつかこの兄弟弟子が。
鬼殺隊の歴史を変えるほどの雷の使い手になることを。
そして。
それぞれの「漆ノ型」を手にすることを。
今はただ。
一歩ずつ。
雷の道を進んでいく。
【大正コソコソ噂話】
壱ノ型を千回成功させた日の夜。
善逸が嬉しそうに、
「俺もいつか、兄貴みたいに速くなる!」
と言った。
すると獪岳は、
「俺より速くなってもいいぞ」
と答えた。
善逸は驚いて、
「いいの?」
と尋ねた。
獪岳は笑って、
「ああ。その時は俺が、お前を追いかける」
と答えたという。
なお、その会話を聞いていた桑島は、
「……良い兄弟弟子になったのう」
と一人でしみじみしていた。
ちなみに翌朝。
善逸が、
「じゃあ今日から兄貴より速くなるための修行を――」
と言った瞬間。
獪岳は、
「まず朝飯食ってからだ」
と即答。
善逸は、
「兄貴やっぱり優しい!」
と大喜びしたそうだ。
――大正コソコソ噂話・終。