「……おい、天元」
吉原・京極屋。
その裏手にある細い路地で、一人の「女」が凄まじい殺気を放っていた。
艶やかな漆黒の髪は美しく結い上げられ、そこには金細工の簪が何本も差し込まれている。身に纏うのは漆黒を基調に金糸の雷模様が走る豪奢な振袖。白粉を施した肌は雪のように白く、切れ長の瞳には鋭い光が宿っていた。
しかし、その「美女」は額に青筋を浮かべている。
「……ふざけてんのか?」
鳴柱・獪岳。
本人である。
「ハーッハッハ! 何をそんなに怒ってるんだ、鳴柱!」
その隣で腹を抱えて笑っているのは、音柱・宇髄天元だった。
「俺は至って真面目だぜ? 炭治郎たちを潜入させた以上、俺たちも店の内部を探る必要がある。だが、男の姿じゃ目立ちすぎる」
「だからって、なんで俺なんだよ」
「決まってるだろう!」
天元は獪岳を指差し、堂々と言い放った。
「お前、顔が良すぎるんだよ!」
「…………」
「身長もある。体つきもいい。目つきは鋭いが、それすら遊郭じゃ『気の強い美女』として武器になる!」
「褒めてんのか、貶してんのか分かんねえな……」
獪岳は苛立たしげに前髪を払う。
「俺は鬼を探しに来たんだぞ。遊女の真似事をするためじゃねえ」
「だからこそ潜入捜査なんだよ!」
天元はニヤリと笑った。
「それに、お前ならできる。いや——お前にしかできない」
「……何?」
「鬼が潜んでいる可能性が高い京極屋の内部に、自然に入り込める奴が必要なんだ。炭治郎たちは下働きとして潜り込んでいる。なら、お前はもっと上の階層へ行けばいい」
獪岳は黙り込んだ。
確かに理屈は通っている。
そして何より——。
「……鬼の気配を直接探れる」
「ああ」
天元が頷く。
「お前の聴覚なら、普通の人間じゃ聞き取れない異変も拾える。俺たちが探している『何か』が、ここにいるならな」
獪岳は大きく息を吐いた。
「……チッ」
そして振袖の袖を乱暴に整える。
「分かった。やる」
「おお!」
「ただし」
獪岳は天元を睨みつけた。
「この任務が終わったら、お前には絶対に借りを返す」
「ハハハ! 怖いねぇ!」
天元はまるで気にしていない。
むしろ満足そうだった。
「よし。それじゃあ、仕上がりを確認してみるか!」
「仕上がり?」
獪岳が振り返る。
その瞬間。
京極屋の者たちが、一斉に息を呑んだ。
「…………」
「…………」
「な、なんて……」
誰も言葉を発せない。
やがて、遣手婆が震える声を漏らした。
「な……なんて綺麗な姐さん……」
「え?」
「ちょっと待ってください! こんな方、今まで京極屋にいました!?」
「いや、知らねえぞ……!」
「どこの店から来たんだ……?」
獪岳は眉間に皺を寄せた。
「……何見てんだよ」
その低い声に、周囲の者たちがビクッと震える。
だが——。
「まあ……!」
遣手婆の目が輝いた。
「その気の強そうなお顔!」
「……は?」
「それに、その冷たい目! 素晴らしいじゃありませんか!」
獪岳のこめかみに青筋が浮かぶ。
「おい、婆さん。俺は遊女になるつもりは——」
「今すぐ店に入りなさい!」
「話を聞け!」
遣手婆は獪岳の手を取ると、そのまま強引に引っ張っていく。
「こんな逸材、絶対に逃がしませんよ!」
「離せ! 俺は鬼殺隊だぞ!」
「まあ、随分と勇ましい姐さんだこと!」
「違うっつってんだろ!」
その声を聞いた天元が、腹を抱えて笑った。
「ハハハハハ! 大成功じゃねえか!」
「天元ァァァッ!」
獪岳が振り返って怒鳴る。
だが、その姿を見た通行人たちまで足を止めてしまった。
「おい、あの女……誰だ?」
「見たことねえぞ」
「すげえ美人だな……」
「いや、あの目つき……怖ぇ……」
「そこがいいんじゃねえか!」
「…………」
獪岳の表情が引きつった。
「……なんでこうなる」
天元は肩を叩く。
「吉原じゃあ、派手さと個性が武器になる。お前は完璧だぜ!」
「誰が好き好んで武器になりてえんだよ……」
さらに最悪なことに、獪岳の鋭い口調まで遊郭では好意的に受け取られてしまった。
「おい、近づくな」
「はい!」
「触るな」
「喜んで!」
「俺を舐めてんのか?」
「もっと罵ってください!」
「…………」
獪岳は完全に無言になった。
「……吉原って頭おかしい奴しかいねえのか?」
「それが遊郭だ!」
天元が豪快に笑う。
「さあ行け! 『獪子』姐さん!」
「その名前をつけたのもお前かァァァッ!」
「似合ってるぜ!」
「殺す!」
「ハハハハハ!」
こうして、本人の意思とは完全に無関係に——。
鳴柱・獪岳。
吉原における仮の名、『獪子』として京極屋への潜入を開始した。
だが、門を潜った瞬間。
「……!」
獪岳の表情が変わった。
笑い声。
三味線。
客の足音。
遊女たちの囁き。
それら無数の音の奥に、ほんのわずかな異音が混じっている。
ズ……。
まるで壁の向こうで、何か巨大なものが蠢いたような音。
獪岳は足を止めた。
「…………鬼か?」
耳を澄ます。
だが、音はもう聞こえない。
「獪子姐さん?」
呼ばれて、獪岳はすぐに表情を戻した。
「……なんでもねえ」
しかし、その瞳だけは鋭く細められていた。
「いる」
確信。
「この店には……何かいる」
華やかな京極屋の奥。
そこには、炭治郎たちがまだ知らない恐ろしい存在が、静かに息を潜めていた。
そして獪岳は、誰よりも早くその気配へと近づいていく。
「待ってろよ……」
振袖の袖口に隠した日輪刀へ、そっと指を添える。
「必ず正体を暴いてやる」
吉原潜入捜査。
その裏側で、鳴柱・獪岳による独自の追跡が始まった。