京極屋。
夜が更けるほどに、その大広間は熱を増していた。
豪奢な座敷には何人もの客が集まり、酒と料理が次々と運ばれていく。三味線の音が響き、遊女たちの華やかな笑い声が重なる。
そんな喧騒の中心に、一人の女が座っていた。
漆黒の髪を結い上げ、金糸の雷模様が描かれた黒い振袖を纏った美女。
扇子で口元を隠しながら、つまらなそうに酒席を眺めている。
「……おい」
低く、冷たい声。
その一言だけで、周囲の空気が変わった。
「離れろと言ってるのが聞こえねえのか、豚ども」
「…………」
「…………」
一瞬の沈黙。
そして。
「くぅぅぅっ! たまらん!」
「もっと言ってくれ、獪子姐さん!」
「俺を豚と呼んでください!」
「金ならいくらでも出す!」
大広間が歓声に包まれた。
獪岳は露骨に顔をしかめる。
「…………何で喜ぶんだよ」
「獪子姐さん! 今のもう一回!」
「うるせえ」
「最高だぁぁぁっ!」
「…………」
獪岳は心底うんざりした。
(何なんだ、この街は……)
潜入任務。
本来なら、鬼の痕跡を探すために京極屋へ入り込んだだけだった。
ところが——。
「獪子姐さん、お酌を!」
「自分で飲め」
「そこを何とか!」
「断る」
「では隣に座っていただくだけでも!」
「近寄るな」
「はい!」
(……話が通じねえ)
しかも、獪岳が鬼を警戒するため酒を飲まず、ほとんど喋らず、ただ座っているだけなのが逆効果だった。
鋭い切れ長の目。
整った顔立ち。
一切媚びない態度。
そして、他人を寄せ付けない凛とした気配。
それらすべてが、吉原の客たちにとっては「高嶺の花」として映ってしまった。
結果——。
「本日の獪子姐さんの指名、また増えました!」
「…………は?」
遣手から告げられた数字に、獪岳の眉が跳ね上がる。
「昨日の倍です」
「知るか」
「さらに明日の予約も埋まっています!」
「だから知るかっつってんだろ!」
「獪子姐さん、京極屋始まって以来の逸材です!」
「俺は鬼殺隊の柱だぞ……」
思わず小声で呟く。
だが、誰にも聞こえていない。
いや。
聞こえていたとしても、信じてもらえないだろう。
こうして潜入二日目。
鳴柱・獪岳は、本人の意思とは一切関係なく、京極屋における最高位の遊女へと押し上げられていた。
「……最悪だ」
獪岳は扇子で口元を隠す。
しかし、その瞳だけは遊郭の隅々まで観察していた。
(だが……悪いことばかりじゃねえ)
ここまで上の立場に上がれば、店の内部を自由に動ける。
従業員の動き。
客の出入り。
遊女たちの部屋。
そして、店の奥へ続く立入禁止区域。
獪岳はそれらをすべて把握していた。
そして何より——。
(やっぱり、いる)
獪岳の耳が僅かに動く。
人間の匂い。
酒の匂い。
香の匂い。
料理の匂い。
それらに紛れている、異質な気配。
冷たい。
湿っている。
そして、人間のものではない。
(鬼の匂い……)
獪岳は扇子を閉じた。
「…………」
表情は変わらない。
しかし、全身の筋肉が僅かに引き締まった。
(この店のどこかにいる)
鬼殺隊の柱として、何度も鬼と対峙してきた。
だが、今回の相手は違う。
気配を完全に隠している。
まるで京極屋そのものに溶け込んでいるようだった。
(下弦……いや)
獪岳は目を細める。
(もっと濃い)
その時だった。
「皆さん、お静かに」
大広間の奥から声が響いた。
三味線の音が止まる。
客たちが一斉に振り返った。
そして、ゆっくりと襖が開く。
現れたのは、一人の花魁だった。
豪奢な打掛。
鮮やかな髪飾り。
完璧に整えられた化粧。
そして、他の遊女とは明らかに違う圧倒的な存在感。
「蕨姫花魁……!」
客たちから感嘆の声が上がる。
京極屋を頂点から支配する女。
蕨姫。
その美貌に誰もが魅了される一方で、遊女たちは彼女を恐れていた。
蕨姫はゆっくりと大広間を進む。
そして——。
獪岳の前で足を止めた。
「…………」
「…………」
二人の視線がぶつかった。
蕨姫の瞳に、明確な苛立ちが浮かぶ。
「最近、随分と調子に乗っているそうじゃないか」
「……そうかよ」
獪岳は興味なさそうに返す。
「新入りの分際で、私より客を集めるなんて……随分と生意気な女だね」
「客が勝手に来てるだけだ。俺……じゃねえ、私は何もしてねえよ」
一瞬、獪岳は言葉を詰まらせた。
自分で「私」と言うことに、未だに慣れない。
蕨姫の眉が吊り上がる。
「その態度……気に入らないね」
「…………」
「この店で私に逆らえば、どうなるか教えてやろうか?」
大広間の空気が凍りついた。
客たちも遊女たちも、息を殺して二人を見つめている。
しかし。
獪岳は一歩も退かなかった。
むしろ、僅かに口元を吊り上げる。
「へえ」
「何だい?」
「じゃあ、やってみろよ」
「…………!」
蕨姫の瞳が鋭くなる。
その瞬間。
獪岳の鼻腔を、強烈な鬼の匂いが刺激した。
(——間違いねえ)
獪岳の心臓が一度だけ大きく鳴った。
(こいつだ)
目の前の女。
この圧倒的な美貌。
人間離れした存在感。
そして、隠しきれない鬼の気配。
(見つけたぞ……バケモノ)
着物の袖の中で、獪岳の指が日輪刀の柄に触れる。
いつでも抜ける。
雷を走らせられる。
だが——。
(まだだ)
ここで斬れば、潜入捜査が全て台無しになる。
何より、相手の正体と能力がまだ分からない。
獪岳は怒りを押し殺し、花魁らしい冷たい笑みを浮かべた。
「……随分と偉そうな花魁だな」
「何だと?」
「俺……じゃなくて、私が気に入らねえなら、勝手にすればいい」
獪岳は立ち上がった。
そして、蕨姫の横を通り過ぎる。
すれ違う瞬間。
「……お前」
蕨姫が小さく呟いた。
「何者だ?」
獪岳は振り返らない。
ただ、口元だけを僅かに歪めた。
「ただの新入りの花魁だよ」
「…………」
蕨姫は獪岳の背中を睨みつける。
その瞳の奥には、明確な殺意が宿り始めていた。
一方、廊下を歩く獪岳の表情からは、完全に笑みが消えていた。
(間違いない)
(あの女……鬼だ)
獪岳は窓の外へ視線を向ける。
吉原の夜は、相変わらず華やかだった。
だが、その光の裏側では、確実に何かが蠢いている。
(問題は……あいつが何者なのか)
そして。
(どれだけ強いのかだ)
獪岳の瞳に、戦士としての鋭い光が宿る。
「……面白え」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「上等だ。俺が化けの皮、剥がしてやるよ」
こうして、京極屋の頂点に立った「獪子」と、遊郭を支配する「蕨姫」。
二人の美女が、互いの正体を探り合う静かな戦いが始まった。
そしてその夜。
獪岳はまだ知らなかった。
蕨姫の背後に潜む存在が、自分たちがこれまで遭遇した鬼とは比較にならないほどの怪物であることを——。