吉原遊郭が夜の華やかな喧騒に包まれている頃。
その遥か遠く、鬼殺隊の療養施設である蝶屋敷には、対照的な静けさが流れていた。
薬研部屋の障子越しに月明かりが差し込み、薬草を煎じる香りがほのかに漂っている。
胡蝶しのぶは文机に向かい、いつものように薬の調合を続けていた。
「……すり、すり……」
乳鉢の中で薬草を細かくすり潰す。
一定のリズム。
普段ならば乱れることなどない、しのぶの精密な作業だった。
しかし――。
「……はぁ」
小さな溜息が漏れた。
しのぶ自身も、それに気づいて僅かに眉を下げる。
「……困りましたね」
手を止め、窓の外へ視線を向ける。
そこにいるはずのない人物の姿を、無意識に探してしまう。
「獪岳さん……今頃、どうしているでしょうか」
脳裏に浮かぶのは、漆黒の羽織を纏い、雷を操りながら戦場を駆け抜ける恋人の姿。
そして――無限列車での死闘。
上弦の参・猗窩座との戦い。
限界を超えて放った『帝釈天』。
その代償として、獪岳の全身は凄まじい損傷を負った。
筋肉。
血管。
神経。
身体中の至るところが悲鳴を上げ、しのぶ自身が治療を施しても、完全に回復するまでには相応の時間が必要だった。
それなのに。
「少しくらい大人しくしていてください、と何度言えば分かるのでしょう」
しのぶは頬杖をつき、困ったように笑った。
「『誰の下にもつかない』」
「『俺が一番上に立つ』」
「『俺はまだ戦える』……ですか」
獪岳の口癖を真似るように呟く。
「まったく……本当に意地っ張りなんですから」
口では呆れている。
けれど、その瞳に浮かんでいるのは怒りではない。
深い心配だった。
獪岳という男は、決して器用な人間ではない。
誰かに弱みを見せることを嫌い、助けられることを嫌い、何よりも「弱者」と見られることを嫌う。
だからこそ、どれほど傷ついても立ち上がる。
泥をすすってでも前へ進む。
その不器用な生き方を、しのぶは誰よりも知っていた。
「……でも」
しのぶは静かに微笑む。
「私は、そんなあなたが好きなんですよ」
その瞬間だった。
バサッ!
「?」
窓辺へ、一羽の鎹鴉が舞い降りた。
「カァ! カァ!」
「まあ。こんな時間に報告ですか?」
しのぶは立ち上がり、鎹鴉から小さく折り畳まれた文を受け取る。
任務中の獪岳に関する報告だろう。
そう思って、何気なく紙を開いた。
そこには簡潔な文字が並んでいた。
『鳴柱・獪岳』
『吉原・京極屋へ潜入』
『女遊女として潜入捜査中』
「…………」
しのぶの笑顔が止まった。
「…………女遊女?」
さらに読み進める。
『名は獪子』
『容姿端麗』
『京極屋最高位の遊女として人気急上昇』
『連日、多数の男性客から指名が殺到』
「…………」
しのぶのこめかみに、ピキッ、と小さな青筋が浮かぶ。
「……なるほど」
静かな声だった。
だが――怖い。
「獪岳さんは、怪我が治りきっていない身体で……」
一枚の添付資料が落ちる。
そこには、天元が描いたと思われる似顔絵があった。
漆黒の髪を美しく結い上げ、豪華な振袖を身に纏った絶世の美女。
切れ長の瞳。
整った鼻筋。
艶やかな唇。
そして、見る者を射殺しそうなほど鋭い眼差し。
『獪子姐さん』
「…………」
しのぶは似顔絵をじっと見つめる。
「…………綺麗ですね」
それは紛れもない本音だった。
獪岳の顔立ちが整っていることは、恋人であるしのぶ自身がよく知っている。
しかし――。
「ですが」
笑顔が戻る。
にっこり。
あまりにも可憐な笑顔。
「『男性客から指名が殺到』ですか」
ミチ……。
手元の乳鉢に亀裂が走った。
「……ふふ」
ミシッ。
「ふふふふ……」
ミシミシッ。
「そうですか……」
乳鉢が限界を迎え、パキンッと音を立てて砕けた。
「なるほど……獪岳さんは、吉原でとても人気なのですね」
鎹鴉が、なぜか一歩後ずさる。
「カァ……」
「心配して損をしました」
しのぶは立ち上がる。
その笑顔は穏やかだ。
あくまでも穏やか。
「無限列車であれほど無茶をして、身体がまだ完全ではないというのに……」
棚から薬箱を取り出す。
「女装して」
薬箱を閉じる。
「遊郭へ潜入して」
藤の花の毒薬を数本、懐へしまう。
「しかも男の人たちに囲まれて……」
さらに一本。
「人気者になっている、と」
最後の薬を懐へ入れた。
「……少し、お話し合いが必要ですね」
笑顔。
だが、その背後には禍々しい何かが見える。
「お仕置き……ではありませんよ?」
誰に言うでもなく、しのぶは微笑んだ。
「ちゃんと怪我を治してもらって、無茶をしないようにお願いするだけです」
――その言葉とは裏腹に。
懐の毒薬が、月明かりを反射して怪しく輝いていた。
一方、その頃。
吉原・京極屋。
「へっくしょい!!」
最高位の遊女『獪子』こと獪岳が、突然くしゃみをした。
「……?」
客たちが一斉に振り返る。
「獪子姐さん、風邪ですか!?」
「触るな。近づくな。暑苦しい」
「たまらねえ!」
「もっと罵ってくれ!」
「……死ね」
「最高だぁぁぁ!!」
獪岳のこめかみに青筋が浮かぶ。
「……なんだ、このクソみてえな客どもは」
その時。
理由もなく、獪岳の背筋に猛烈な悪寒が走った。
「…………」
「……嫌な予感がする」
獪岳は知らない。
自分が今、鬼よりも恐ろしい存在――愛する恋人の『お仕置き』を呼び寄せていることを。
そして、吉原の潜入任務が始まったばかりだということを。
夜の遊郭には、上弦の鬼だけではない。
恋人の怒りという、もう一つの脅威が静かに迫っていた。