京極屋――。
吉原でもひときわ高く聳え立つ建物の最上階。その豪奢な回廊には、夜の冷たい風が吹き抜けていた。
昼間の華やかさとは打って変わり、そこには異様な静寂が漂っている。
獪岳は一人、廊下の中央に立っていた。
漆黒と金の振袖。
美しく結い上げられた黒髪。
化粧によって際立った切れ長の瞳。
誰がどう見ても、この世のものとは思えないほどの美女――。
だが、その正体を知る者が見れば、背筋が凍るだろう。
鳴柱・獪岳。
そして、その正面には。
「……いつまで私の前でいい気になっているんだい?」
艶やかな声。
だが、その声に宿っているのは明確な敵意だった。
「不愉快なんだよ。新入りの分際で、私より客を集めるなんて」
京極屋の最高位遊女――蕨姫。
その女が、ゆっくりと扇子を閉じた。
瞬間。
バサァッ!!
背中から何本もの帯が蛇のように飛び出した。
人間の身体から出るはずのない、異形の帯。
それを見た獪岳の目が細くなる。
「……やっぱりな」
獪岳の鼻が、わずかに動いた。
血。
腐臭。
そして、これまでに嗅いだことのないほど濃密な鬼の匂い。
「人間の匂いじゃねえと思ってたが……」
獪岳は口元を歪めた。
「ようやく尻尾を出しやがったな、バケモノ」
「……なんだって?」
蕨姫の表情が凍りつく。
獪岳は扇子を床へ放り投げた。
カラン、と乾いた音が響く。
「それにしても……」
獪岳は目の前の女を上から下まで眺める。
「お前、よくそんな贅肉をぶら下げて『美人』を名乗れるな」
「…………」
「鏡を見る前に、目についてるその贅肉でも削ぎ落としてから喋り直せよ」
空気が凍った。
「……私が」
堕姫の顔が引きつる。
「私が……贅肉ですって……?」
「聞こえなかったのか?」
獪岳はニヤリと笑った。
「デブ女」
「殺すッ!!」
瞬間――。
バシュンッ!!
堕姫の帯が一斉に襲い掛かった。
刃物のように鋭く変化した帯が、上下左右から獪岳の首を狙う。
「死ねぇぇぇッ!!」
だが。
獪岳は一歩も退かなかった。
次の瞬間、着物の裾を掴む。
ビリィッ!!
動きを阻害する部分を豪快に引き裂き、両足を自由にする。
「……こんな動きにくい格好で戦えるかよ」
その身体から――。
バチバチバチッ!!
黒紫の雷気が爆発的に迸った。
「な……!?」
堕姫が目を見開く。
「雷の呼吸――」
獪岳の姿が消える。
「肆ノ型・遠雷!!」
ズドォォォンッ!!
一瞬。
本当に一瞬だった。
黒紫の雷光が回廊を駆け抜け、襲い掛かっていた帯を次々と斬り裂いていく。
ズババババッ!!
「なっ……!?」
切断された帯が宙を舞う。
堕姫が驚愕している間に、獪岳はすでに懐へ入り込んでいた。
「浅いんだよ、バケモノがぁッ!!」
ギィンッ!!
日輪刀が堕姫の首へと食い込む。
「ぐっ……!」
だが――。
斬れない。
「ふふっ……!」
堕姫の首が異様なほど柔らかくしなった。
刀身が肉を断つ寸前、首そのものが帯のように変形して斬撃を受け流す。
「残念だったねぇ!」
堕姫が笑う。
「私の首は普通の鬼とは違うんだよ! そんな刀じゃ――」
「誰が刀だけで斬るっつった?」
「……え?」
獪岳の目が鋭く光った。
「雷の呼吸――伍ノ型」
至近距離。
逃げ場など存在しない。
「熱界雷!!」
ドカァァァァンッ!!
「ぎゃああああああッ!?」
黒紫の高熱雷が、堕姫の首元で炸裂した。
凄まじい熱量が帯状に変化した首を焼き、堕姫の身体を大きく吹き飛ばす。
ガシャァァン!!
堕姫の身体が窓を突き破り、屋根へと叩き落とされた。
「ぎ……ぎぎ……!」
焼け焦げた肉体を再生させながら、堕姫は怒りに顔を歪める。
「よくも……!」
髪が逆立つ。
血走った目が獪岳を睨みつける。
「よくも私の顔を傷つけたねぇぇぇッ!!」
ズズズズズ……。
堕姫の背後から、さらに大量の帯が湧き出していく。
「私は上弦の陸なんだよ!」
その声が吉原全体を震わせた。
「何十年、何百年……私は何人もの人間を喰ってきたと思ってる! 柱だって何人も殺してきたんだ!」
「……へえ」
獪岳は屋根の上へ降り立つ。
そして、日輪刀を肩に担いだ。
「だったら――」
バチバチッ。
雷気が刀身を覆う。
「俺が、その記録を今日で止めてやるよ」
「生意気なぁぁぁッ!!」
堕姫が大量の帯を放つ。
その瞬間だった。
「獪岳さん!!」
屋根の向こうから、聞き慣れた声が響いた。
獪岳が振り返る。
瓦を蹴散らしながら、二つの影が飛び込んできた。
「お待たせしました!」
「待たせたなァ!!」
竈門炭治郎。
そして――。
「派手に待たせちまったな!」
巨大な二本の日輪刀を構えた音柱・宇髄天元。
獪岳は二人を見て、露骨に眉をしかめた。
「……遅えんだよ」
「ハッハッハ! そう言うな鳴柱! ここからが本番だぜ!」
天元が三本の刀を構える。
「派手に行くぞ!!」
「お前らは下がってろ」
獪岳が前へ出る。
「こいつは俺が――」
「いや」
天元が獪岳の横へ並んだ。
「上弦相手に一人で張り合うほど、俺は野暮じゃねえ」
炭治郎も刀を握り締める。
「俺も戦います!」
「チッ……」
獪岳は舌打ちする。
だが、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
「……足だけは引っ張るなよ」
「はい!」
「おう!」
夜空の下。
屋根を埋め尽くす無数の帯。
それに対峙する三人の鬼殺隊士。
そして――。
「まとめて殺してあげるよぉぉぉッ!!」
上弦の陸・堕姫。
吉原を支配していた鬼が、ついにその本性を露わにした。
眠らない街の屋根の上で、鳴柱・獪岳、音柱・宇髄天元、そして竈門炭治郎。
三人の刃と、上弦の陸の帯が激突する。
遊郭編最大の戦いが、ここから始まった。