「お前ら全員、遅ぇんだよ」
月明かりに照らされた京極屋の屋根の上。
激しい戦闘によって瓦は無数に砕け、夜風が焼け焦げた帯の切れ端を宙へと舞い上げていた。
その中心に立っていたのは、一人の美しい花魁だった。
――否。
それは花魁などではない。
鬼殺隊・鳴柱、獪岳。
先ほどまで彼を覆っていた豪華絢爛な漆黒と金の振袖は、もはや原形を留めていなかった。
裾は大きく裂け、帯は引き千切られ、長い黒髪も激しい戦闘によって乱れている。
それでもなお、その姿は異様なほど美しかった。
月光を浴びる白い肌。
鋭く吊り上がった瞳。
そして、その全身から迸る凄まじい殺気。
吉原中の男たちを魅了した「獪子」という絶世の美女は、完全に消え失せていた。
そこにいるのは、鬼を斬るためだけに鍛え上げられた一人の剣士だった。
「獪岳さん……!」
屋根へ駆け上がった炭治郎が、目を丸くする。
「その姿……!」
「見るな、クソガキ」
「えっ?」
「今の俺の格好を見て笑ったら、鬼より先にお前の首を斬る」
「笑いませんよ!?」
炭治郎は慌てて首を横に振った。
だが、その隣では宇髄天元が腹を抱えて笑っている。
「ハーッハッハッハッ! おいおい獪岳! お前、最高に派手じゃねえか!」
「……」
獪岳のこめかみに青筋が浮かぶ。
「何が派手だ」
「これほど見事な女装で大立ち回りする柱なんざ、俺は初めて見たぜ!」
「黙れ、ド派手野郎」
「おう!」
「この格好のまま戦わせたこと……後で絶対に後悔させてやるからな」
「ハッハッハ! 元気そうで何よりだ!」
「誰のせいだと思ってやがる!!」
獪岳が怒鳴った瞬間だった。
「よくも……!」
低く、震える声が響いた。
屋根の向こう。
瓦礫の中から、堕姫がゆっくりと立ち上がる。
その美しい顔には、獪岳によって焼かれた傷が残っていた。
帯も大部分が焼け落ち、着物は乱れ、白い肌には焦げ跡が走っている。
何よりも――その表情には、これまでの余裕が完全に消えていた。
「よくも私の顔を……!」
堕姫の瞳が血走る。
「私の綺麗な顔を傷つけたわねぇぇぇッ!!」
「知るか」
獪岳は冷たく吐き捨てた。
「お前が鬼だってことは、もう分かってんだ。化粧が崩れた程度で騒ぐんじゃねえよ」
「なんですってぇぇぇッ!?」
堕姫の背後から、無数の帯が噴き出した。
まるで巨大な蛇の群れ。
一本一本が鋭利な刃物のように変化し、夜空を切り裂きながら四人へ襲いかかる。
「死ねぇぇぇッ!!」
「炭治郎、下がれ!」
「はい!」
天元が炭治郎の腕を掴み、後方へ跳ぶ。
しかし獪岳は退かなかった。
むしろ――前へ出た。
「邪魔だ」
右手が日輪刀の柄を握る。
「雷の呼吸――」
バチッ。
刀身から青白い電光が迸った。
次の瞬間。
「陸ノ型・電轟雷轟!!」
バリバリバリバリィィィッ!!
凄まじい雷鳴が吉原の夜空を震わせた。
獪岳の身体を中心として、幾筋もの雷撃が爆発的に放たれる。
襲いかかってきた帯が次々と雷に貫かれた。
一本。
二本。
十本。
二十本。
瞬く間に無数の帯が黒焦げになり、夜空へと散っていく。
「なっ……!?」
堕姫の目が大きく見開かれた。
「私の帯が……!」
「遅ぇんだよ」
獪岳の姿が消える。
「――え?」
次の瞬間。
ドンッ!!
堕姫の目の前に獪岳が現れた。
「がっ……!?」
刀の峰が堕姫の腹部へ叩き込まれる。
その細身の身体が大きく吹き飛び、屋根を何枚も破壊しながら転がっていく。
「ぐぁぁぁっ!!」
「獪岳さん……速い……!」
炭治郎は息を呑んだ。
無限列車での戦い。
上弦の参・猗窩座との死闘。
そして己の限界を超えて放った『帝釈天』。
あの戦いを経て、獪岳の剣技は明らかに以前とは違っていた。
雷の速度。
踏み込み。
刀の威力。
そして、敵を仕留める判断力。
すべてが一段上の領域へと進んでいる。
「なんなの……こいつ……!」
堕姫が立ち上がる。
「柱……? こんな奴が……柱だっていうの!?」
「鳴柱だ」
獪岳が刀を肩に担ぐ。
「覚えとけ」
「俺はな――」
黒紫の雷気が、全身から噴き上がる。
「お前みたいな三流の鬼に、手間取ってる暇はねえんだよ」
「三流……ですって?」
堕姫の顔が醜く歪んだ。
「私は上弦の陸よ!」
叫びと共に、堕姫の帯が再び膨れ上がる。
今度は先ほどとは比較にならない。
屋根の上だけではない。
隣接する建物。
路地。
遊郭の大通り。
あらゆる場所から帯が伸び、吉原そのものを覆い尽くそうとしていた。
「この私を馬鹿にしたこと……絶対に許さない!」
「来るぞ!」
天元が二本の日輪刀を抜いた。
「炭治郎、俺の後ろから離れるな!」
「はい!」
獪岳も刀を構える。
「おい、ド派手野郎」
「なんだ?」
「こいつの相手、俺一人で十分だ」
「馬鹿言え!」
天元が笑う。
「上弦相手に一人で突っ込む奴があるか! それに俺は音柱だぜ? 派手に参戦させてもらう!」
「チッ……」
獪岳は舌打ちした。
しかし、その口元には僅かな笑みが浮かんでいる。
「なら足手まといになるなよ」
「そっくりそのまま返してやるぜ!」
二人の柱が並び立つ。
その光景を見た炭治郎は、刀を強く握り直した。
――その時だった。
堕姫が突然、背後を振り返った。
「お兄ちゃん……!」
声が震える。
「お兄ちゃん、出てきて……!」
「……?」
炭治郎の鼻が反応する。
強烈な鬼の匂い。
しかも、先ほどまで感じていた堕姫の匂いとは明らかに違う。
もっと濃い。
もっと禍々しい。
そして――恐ろしい。
「獪岳さん……!」
「ああ」
獪岳も気づいていた。
「まだいやがるな」
堕姫の背中から、黒い血肉がゆっくりと盛り上がっていく。
「お兄ちゃん……!」
堕姫の顔に、安堵と狂気が入り混じった笑みが浮かぶ。
「私をいじめた奴らを……全部殺して……!」
ズズズズズ……。
背中から伸びた血肉が、人の形を作っていく。
やがて姿を現したのは――痩せ細った男。
異様に長い手足。
醜く歪んだ顔。
そして、手には巨大な二本の鎌。
「……妹を泣かせるたぁ」
男がゆっくりと顔を上げる。
その眼には――
『上弦』
『陸』
の文字が刻まれていた。
「随分とええ度胸しとるやないか」
空気が変わった。
炭治郎の背筋を、今まで感じたことのない悪寒が駆け抜ける。
天元の表情からも笑みが消える。
そして獪岳は、静かに日輪刀を握り直した。
「……こいつが本命か」
男――妓夫太郎が、醜悪な笑みを浮かべる。
「俺の名前は妓夫太郎や」
「妹の堕姫と合わせて――」
二本の鎌を構える。
「上弦の陸や」
吉原の夜を支配していた鬼が、ついに二人の姿を現した。
花魁・獪岳の潜入捜査は終わった。
ここから始まるのは――鳴柱・獪岳、音柱・宇髄天元、そして竈門炭治郎による、上弦の陸との本当の死闘だった。