第十話「慈雨の朝、恋人たちの帰還」
夜明けを迎えた吉原には、静かな雨が降っていた。
激しい戦いによって焼け落ち、崩れ果てた街並みを、細かな雨粒が優しく濡らしていく。
上弦の陸――妓夫太郎と堕姫が消えた場所にも雨は降り注ぎ、血と灰に汚れた地面を少しずつ洗い流していた。
まるで、長く続いた悪夢そのものを天が洗い流しているかのようだった。
「……雨だ」
炭治郎が空を見上げる。
雨粒が頬を伝い、涙と混ざって落ちていく。
「終わったんだ……本当に……」
その声には、安堵と疲労、そして生き残れた喜びが滲んでいた。
「炭治郎!」
「おーい、炭治郎!」
「炭治郎ぉぉぉ!」
そこへ、救援に駆けつけた隠たちが次々と姿を現した。
負傷者の確認。
毒の処置。
瓦礫の下に残された人々の救助。
やるべきことは山ほどあった。
その救援部隊の先頭に立っていたのは――胡蝶しのぶだった。
「皆さん、落ち着いてください! 重傷者から順番に処置します!」
蝶の羽織を雨に濡らしながら、しのぶは負傷者たちを次々と確認していく。
「宇髄さんは?」
「こちらです!」
「獪岳さんは?」
「まだ向こうに!」
その報告を聞いた瞬間、しのぶの表情がほんの僅かに変わった。
普段の柔らかな微笑みが消える。
「……案内してください」
その声だけで、隠の隊士は緊張した。
恋人がどれほどの傷を負っているのか。
それを確かめるまで、しのぶは安心できない。
一方、別の場所では――。
「おおおおおっ!! 勝ったぜぇぇぇッ!!」
宇髄天元が両腕を広げて叫んでいた。
その周囲には、彼の三人の妻たちが駆け寄っている。
「天元様!」
「よかった……!」
「本当に心配したんだから!」
「派手に心配させちまったな!」
天元は豪快に笑いながら三人をまとめて抱き寄せる。
しかし、その身体には無数の傷が刻まれていた。
「……天元様、毒は?」
「まだ残ってるが、俺はこの程度じゃ死なねえよ」
そう言って笑う天元。
だが、その顔には確かな疲労があった。
今回の戦いが、それほどまでに苛烈だったのだ。
そして――。
崩れ落ちた建物の軒下。
雨を避けられる場所に、一人の男が座っていた。
「……チッ」
鳴柱・獪岳。
全身には包帯が巻かれ、首筋には毒による傷跡が残っている。
無限列車での戦いに続いて、今回も限界を超えた『帝釈天』を使用した。
肉体への負担は尋常ではない。
それでも生きている。
それだけで奇跡だった。
そして、彼の傍らには――。
「動かないでください」
胡蝶しのぶがいた。
「傷口が開きますよ」
「もう止血は済んでるだろ」
「止血したからといって、治ったわけではありません」
しのぶは淡々と包帯を確認する。
「毒も完全には抜けていません。今回の血鬼術はかなり強力でしたからね」
「……大袈裟だ」
「大袈裟ではありません」
しのぶの手が止まる。
そして、獪岳を真っ直ぐ見つめた。
「あと少し毒が回っていたら……あなたは助からなかったかもしれません」
「……」
獪岳は何も言わなかった。
しのぶは怒っている。
声を荒らげてはいない。
それでも、その静かな声の奥にある感情を、獪岳には理解できた。
「……悪かった」
「え?」
「……心配かけた」
獪岳が小さく呟く。
しのぶが目を丸くする。
「……今、何と?」
「二度言わせるな」
「ふふっ」
しのぶの表情が、ふっと柔らかくなる。
「はい。聞こえました」
しのぶは濡れた獪岳の黒髪を手拭いで丁寧に拭き始めた。
「それにしても……」
「なんだよ」
「『獪子』姐さん、とても綺麗でしたね」
「……」
ピタリ。
獪岳の表情が固まった。
「……忘れろ」
「京極屋でも大人気だったそうですね?」
「忘れろ」
「最高位の遊女にまで上り詰めたとか」
「忘れろっつってんだろ!!」
獪岳の怒声が軒下に響く。
しのぶは口元を手で隠して笑った。
「ふふふ……ごめんなさい」
「絶対楽しんでるだろ、お前……!」
「ええ。少しだけ」
「……この性悪女」
「恋人にそんなことを言うんですか?」
「……」
獪岳が言葉を失う。
しのぶは楽しそうに微笑んだ。
やがて獪岳は、諦めたようにため息を吐く。
「……あのド派手野郎が勝手にやったんだ。俺だって好きで女装したわけじゃねえ」
「分かっています」
「……本当にか?」
「もちろんです」
しのぶの声が優しくなる。
「でも……無事に戻ってきてくれたことのほうが、今は嬉しいです」
獪岳は黙った。
雨音だけが二人の間に流れる。
「無限列車の時もそうでした」
しのぶは獪岳の手を取った。
「あなたはいつも、自分の限界まで戦います」
「……」
「誰かを守るためでも、自分の誇りのためでも……命を削ってまで」
「俺は……」
獪岳は一度言葉を止めた。
「……俺は、負けたくねえんだよ」
「はい」
「誰にも負けたくねえ。鬼にも、人間にも……自分自身にもだ」
握られた手に、獪岳の指がゆっくり絡む。
「だから……お前を置いて死ぬつもりなんかねえ」
しのぶの瞳が僅かに揺れた。
「……獪岳さん」
「俺は絶対に生き残る」
獪岳はまっすぐにしのぶを見つめる。
「お前を残して死ぬなんざ、絶対にごめんだ」
その言葉に、しのぶはしばらく黙っていた。
そして――。
「……はい」
微笑む。
今度の笑顔には、蟲柱としてのものではない。
一人の恋人としての、心からの笑顔があった。
「では、約束してください」
「何をだ?」
「どれだけ無茶をしても……必ず私のところへ帰ってきてください」
「……当たり前だ」
「絶対ですよ?」
「しつけえな」
そう言いながらも、獪岳は握った手を離さなかった。
むしろ、少しだけ強く握り返した。
その二人の姿を、少し離れた場所から天元が見ていた。
「……おいおい」
ニヤリと笑う。
「朝っぱらから随分と仲がいいじゃねえか」
「宇髄さん」
しのぶの笑顔が一瞬で怖くなる。
「何か?」
「いや、何でもねえ」
天元は即座に視線を逸らした。
「……俺は何も見てねえ」
「賢明ですね」
「おいド派手野郎」
獪岳が睨む。
「こっち来い」
「嫌だ」
「逃げんな!」
「病人が無理すんな!」
二人の怒鳴り声が、雨の吉原に響き渡る。
その様子を見ていた炭治郎たちは、思わず笑った。
「よかった……」
炭治郎が微笑む。
「みんな、生きてる」
そして、しばらくすると雨が弱まり始めた。
雲の切れ間から、柔らかな朝陽が差し込む。
焼け落ちた吉原を照らす光。
壊れた建物。
崩れた屋根。
戦いの爪痕。
そのすべてを、朝の光が静かに包み込んでいく。
獪岳は空を見上げた。
「……朝か」
「ええ」
隣に座るしのぶが答える。
「綺麗ですね」
「……ああ」
ほんの僅かな沈黙。
そして獪岳は、しのぶの手を握ったまま呟いた。
「……帰るぞ」
「はい」
二人はゆっくりと立ち上がった。
音柱・宇髄天元と鳴柱・獪岳。
そして、炭治郎たち鬼殺隊士。
誰一人欠けることなく、長く恐ろしい遊郭の夜を越えた。
それは決して完全な勝利ではなかった。
多くの傷を負い、街は壊れ、敵もまた最後まで人の心に爪痕を残した。
それでも――。
生きている。
帰る場所がある。
待っていてくれる人がいる。
だからこそ、彼らは再び歩き出せる。
慈雨に濡れた吉原に朝陽が差し込む。
その光の中で、獪岳は隣の恋人を見つめた。
「……次の任務でも、俺は生きて帰る」
「ええ。私も、あなたを待っています」
二人の影が朝陽の中で寄り添う。
長い夜は終わった。
だが、鬼との戦いは――まだ終わらない。