「ったく……なんで俺が、こんな山奥の隠れ里まで足を運ばなきゃならねえんだ……」
深い霧に覆われた山道を、一人の男が歩いていた。
漆黒の髪を風になびかせ、鋭い眼光を周囲へ走らせる。その肩には黒地に金の雷模様が入った羽織。
鬼殺隊・鳴柱、獪岳。
遊郭での死闘を終えてから、まだ完全に本調子へ戻ったわけではない。
それでも本人は、そんなことなど意に介していないようだった。
「俺はもう戦える。なのに刀が使えねえだと? ふざけた話だぜ」
腰に差された日輪刀へ視線を落とす。
鞘に収められているため外見上は分からない。
だが、その刀身は限界を迎えていた。
妓夫太郎との戦いで幾度となく血鬼術を受け止め、堕姫の帯を斬り裂き、さらに獪岳自身が放った究極の雷撃――『帝釈天』。
あまりにも強大な雷気を流し込んだ結果、日輪刀そのものに異常が生じていた。
刀身を構成する鋼が変質し、細かな亀裂まで発生している。
このまま使い続ければ、戦闘中に刀が折れる可能性すらある。
だからこそ、刀鍛冶の里へ向かうことになった。
「文句ばかり言っていないでください、獪岳さん」
後ろから聞こえた穏やかな声。
振り返ると、蝶の羽織を纏った少女が静かに歩いていた。
蟲柱・胡蝶しのぶ。
獪岳の恋人でもある彼女は、今回の刀の修理と身体の経過観察を兼ねて同行していた。
「あなたの戦い方が無茶苦茶だから、刀が悲鳴を上げているんですよ?」
「……うるせえな。勝つために必要だったんだ」
「ええ。だから生き残れたことには感謝しています」
しのぶは柔らかく微笑む。
「ですが、刀まで死にかけていますよ」
「刀を人間みてえに言うんじゃねえ」
「では、道具として大切に扱ってください」
「……チッ」
獪岳は反論できず、舌打ちして前を向いた。
しばらく歩く。
やがて、案内役を務める鎹鴉が霧の中へ飛び去った。
その直後だった。
「到着しましたよ」
しのぶの言葉と同時に、二人の視界が大きく開けた。
「……ほう」
獪岳が思わず足を止める。
そこに広がっていたのは、山奥に存在するとは到底思えないほど美しい里だった。
木々に囲まれた道。
そこから立ち上る白い湯煙。
小さな建物がいくつも並び、刀を打つ金属音が遠くから響いている。
秘境でありながら、そこには確かな生活の息遣いがあった。
「刀鍛冶の里……」
しのぶも周囲を見渡す。
「何度来ても、不思議な場所ですね」
「俺は刀を直したら帰る。観光に来たわけじゃねえ」
「そう言うと思いました」
しのぶが微笑んだ。
「でも、温泉くらいは入っていきましょう?」
「温泉?」
その言葉に、獪岳が少しだけ眉を動かす。
「遊郭での毒も、帝釈天で無茶をした身体も、少しは休ませたほうがいいでしょう」
「俺は平気だ」
「では、私が平気ではないと言ったら?」
「……」
「恋人が心配しているのです。少しくらい言うことを聞いてください」
「……お前、そういう言い方は卑怯だろ」
「ふふっ」
しのぶが楽しそうに笑う。
その時だった。
「獪岳さーん! しのぶさーん!」
「……あ?」
聞き覚えのある明るい声。
次の瞬間、桃色と緑色の髪を揺らしながら、一人の少女が猛烈な勢いで駆けてきた。
「二人とも来たのねーっ!」
恋柱・甘露寺蜜璃である。
「お久しぶりです、甘露寺さん」
「しのぶちゃん! 獪岳さん!」
蜜璃は嬉しそうに二人の手を取った。
「刀を直しに来たの? それなら滞在中は一緒に温泉に入りましょう! この里のお湯、とっても気持ちいいのよ!」
「私は賛成です」
「俺は反対だ」
即答する獪岳。
「ええーっ!?」
蜜璃が悲しそうな顔をする。
「だってせっかく三人で来たのに……!」
「俺は刀を直すために来たんだ。遊びに来たわけじゃねえ」
「でも獪岳さん、最近ずっと働き詰めだったでしょう?」
「……」
「身体も休めなきゃ駄目よ?」
「……しのぶまで同じこと言いやがって」
「当然です」
二人の柱に挟まれ、獪岳は深々とため息を吐いた。
「……刀を受け取ったら帰る。それまでは好きにしろ」
「やったー!」
蜜璃が両手を上げて喜ぶ。
「温泉! 温泉!」
「……うるせえ」
そう言いながらも、獪岳の表情はほんの少しだけ緩んでいた。
だが、その直後。
「お待ちしておりましたぞ!」
大きな声と共に現れたのは、刀鍛冶の里を取り仕切る鉄地河原鉄珍だった。
「おお……これが鳴柱殿の刀か!」
鉄珍が獪岳の腰へ視線を向ける。
「噂には聞いておりましたが、随分と酷使されたようですな」
「直せるのか?」
「当然!」
鉄珍は豪快に笑った。
「ただし……」
「ただし?」
「これは普通の日輪刀ではない」
鉄珍の表情が真剣になる。
「『帝釈天』……でしたかな。あの極限の雷気を刀身へ流し込んだ結果、鋼そのものが変質しておる。通常の研ぎや打ち直しでは、完全には戻せません」
獪岳の眉間に皺が寄る。
「つまり?」
「時間がかかります」
「……どれくらいだ」
「最低でも数日は必要でしょうな。場合によっては、それ以上」
「チッ……」
「焦ってはいけませんぞ。あなたの刀は、あなた自身の戦い方に合わせて作り直す必要がある」
鉄珍は獪岳を真っ直ぐに見据えた。
「雷の呼吸、その極意を受け止められる刀にする。そのためには、こちらも職人として全力を尽くさねばなりません」
獪岳はしばらく黙っていた。
やがて刀の柄へ手を置く。
「……なら、最高の刀にしろ」
「もちろん!」
鉄珍が笑う。
「鳴柱殿がこれまで以上の力を引き出せる刀に仕上げてみせましょう!」
「言ったな?」
獪岳の口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
「だったら俺も、今まで以上の雷を叩き込めるようになってやる」
その夜。
温泉から立ち上る湯煙が、刀鍛冶の里を白く包んでいた。
獪岳は一人、宿の縁側に座っていた。
右手をゆっくり握る。
「……帝釈天」
あの戦いを思い出す。
限界を超えた雷。
肉体を引き裂くほどの力。
それでも、上弦を倒すためには必要だった。
「まだ足りねえ」
獪岳の瞳が鋭く輝く。
「もっと速く。もっと強く。もっと高く……」
誰よりも上へ。
誰にも屈せず。
誰の足元にも立たず。
そのためには、まだ力が必要だった。
その背後から、しのぶの声がする。
「獪岳さん」
「……なんだ」
「また無茶なことを考えていますね?」
「考えてねえ」
「嘘ですね」
「……チッ」
しのぶが隣へ腰掛ける。
そして、そっと獪岳の手を取った。
「焦らなくても大丈夫ですよ」
「俺は焦ってねえ」
「では、今日は休みましょう」
「……」
「明日から刀鍛冶の方々に付き合ってもらって、ゆっくり仕上げればいいんです」
獪岳は何も言わなかった。
ただ、握られた手を振り払うこともしなかった。
その頃。
里から遥か離れた山中。
月明かりの下を、一つの影が歩いていた。
そして、もう一つ。
二つの異質な気配が、静かに刀鍛冶の里へ近づいていた。
鬼舞辻無惨から下された命令。
――鬼殺隊の刀鍛冶を殺せ。
――そして、里にいる柱を始末しろ。
静かな秘境は、まだその脅威に気づいていない。
だが間もなく。
刀を鍛える槌音と共に、刀鍛冶の里を舞台とした新たな死闘の幕が上がろうとしていた。