「ヒィィィィッ!! 助けてくれぇぇッ!! わしは何も悪くない! 悪いのはあいつらじゃぁぁッ!!」
夜明け前の森を、半天狗の悲鳴が不気味に駆け抜けていく。
上空では、憎珀天が生み出した巨大な木竜が何本も絡み合い、地面を抉りながら暴れ狂っていた。
「甘露寺さん! 右です!」
「分かってるわ!」
ドゴォォォン!!
木竜の一撃を、甘露寺蜜璃が紙一重でかわす。
「恋の呼吸――伍ノ型・揺らめく恋情・乱れ爪!」
しなやかな日輪刀が鞭のようにしなり、巨大な木竜を次々と切り刻んでいく。
「はぁ……はぁ……! まだよ……! 炭治郎君たちが頑張ってるんだもの! 私も負けられないわ!」
蜜璃の頬には汗と泥が付着していた。
腕は痺れ、脚にも疲労が溜まっている。
それでも、彼女は一歩も退かなかった。
その頃――。
森のさらに奥。
「逃がすかぁぁぁッ!!」
炭治郎が全速力で駆けていた。
その前方を、豆粒ほどの大きさしかない半天狗の本体が必死に逃げている。
「ひぃっ! 来るな! わしは弱い! わしは可哀想な老人じゃぁぁッ!」
「ふざけるな!」
炭治郎の目が怒りに燃える。
「お前が弱いかどうかなんて関係ない! お前はたくさんの人を殺した! 刀鍛冶の人たちを苦しめた!」
隣では玄弥が銃を構えながら追走していた。
「炭治郎! あと少しだ!」
「分かってる!」
半天狗は木々の隙間を縫うように逃げる。
小さな身体。
異常なまでの逃走能力。
そのうえ、憎珀天によって時間を稼がれている。
「くそっ……!」
炭治郎が歯を食いしばる。
その時だった。
ふっと、世界の音が遠のいた。
木々の揺れ。
土を踏む音。
半天狗の鼓動。
すべてが鮮明になる。
炭治郎の瞳が研ぎ澄まされた。
透き通る世界。
「……見えた」
半天狗の小さな身体。
その内部。
「そこだ……!」
心臓。
血管。
筋肉。
そして、命の核。
「逃がさない!!」
炭治郎が跳躍する。
しかし――。
東の空が、白み始めた。
「……え?」
炭治郎の顔から血の気が引いた。
朝。
太陽が昇る。
そして、そのすぐ後ろから――。
「炭治郎!!」
玄弥の叫びが響いた。
「禰豆子が!」
「……ッ!?」
炭治郎が振り返る。
そこには、朝焼けの光を浴びた禰豆子がいた。
「禰豆子!!」
ジュッ……。
白い煙が立ち上る。
「いやぁぁぁぁッ!!」
禰豆子の皮膚が焼ける。
苦しそうな声。
炭治郎の身体が凍りついた。
前方には、逃げ続ける半天狗。
背後には、陽光に焼かれる禰豆子。
「……どうすれば……」
刀を握る手が震える。
(半天狗を追えば、禰豆子が……!)
(禰豆子を助ければ、半天狗を逃がしてしまう……!)
どちらか一つしか選べない。
「くそ……!」
炭治郎の脳裏に、これまで出会ってきた人々の姿が浮かぶ。
守るべき人。
失いたくない命。
そして、自分のために命を懸けてくれた仲間たち。
「俺は……!」
その時だった。
ドンッ!!
背中に衝撃が走った。
「うわぁぁっ!?」
炭治郎の身体が前方へ吹き飛ばされる。
「禰豆子!?」
振り返った炭治郎の目に映ったのは――。
焼けただれながらも、必死に笑う妹の姿だった。
「い……って……」
禰豆子は痛みに耐えながら、両手を伸ばす。
そして――。
炭治郎を太陽の下へ蹴り飛ばした。
炭治郎の目から涙が溢れた。
「禰豆子ォォォォッ!!」
叫びながら、日輪刀を強く握り締める。
怒り。
悲しみ。
決意。
すべての感情が一つに重なっていく。
刀身が、徐々に赤く染まった。
「ヒノカミ神楽――」
半天狗が振り返る。
「ひ、ひぃぃっ!?」
「飛輪陽炎!!」
ズバァァァァッ!!
赫く染まった刃が閃いた。
逃げ惑う極小の身体を正確に捉え――。
「ぎゃあああああああッ!!」
半天狗の首が宙を舞った。
「わしは悪くない……! わしは……!」
その言葉を最後に、上弦の肆の身体が崩れ始める。
「ぎ……ぎぎ……!」
肉体が灰となり、朝風にさらわれていく。
「やった……!」
玄弥が息を呑む。
だが、炭治郎は勝利を喜ばなかった。
「禰豆子……!」
刀を放り捨て、炭治郎は妹のもとへ駆け戻る。
「禰豆子! 禰豆子ぉぉぉッ!!」
膝をつき、焼け焦げた身体を抱きしめる。
「ごめん……! ごめんな禰豆子! 俺が……俺が選んだせいで……!」
返事がない。
「禰豆子……!」
炭治郎の頬を、大粒の涙が伝う。
その時――。
「……お……はよう……」
「……え?」
聞き間違いかと思った。
炭治郎がゆっくり顔を上げる。
そこには――。
朝日の中に立つ禰豆子がいた。
「お……はよう……」
「禰豆子……?」
炭治郎の瞳が大きく見開かれる。
「太陽の下に……いる……?」
禰豆子の身体から、もう煙は上がっていない。
焼けた皮膚も、ゆっくりと元へ戻っている。
「禰豆子……!」
炭治郎は妹を強く抱きしめた。
「禰豆子ぇぇぇぇッ!!」
「お兄ちゃん……」
二人は朝日の中で抱き合い、涙を流した。
「生きてる……! 禰豆子が生きてる!」
少し離れた場所では、玄弥が呆然とその光景を見つめていた。
「鬼が……太陽を……克服した……?」
さらに森の向こう。
玉壺との戦いを終えた獪岳、しのぶ、無一郎。
憎珀天との激戦を終えた蜜璃。
全員が、朝日の中で立つ禰豆子を見つめていた。
「……あれが、太陽を克服した鬼……」
しのぶが静かに呟く。
無一郎も珍しく驚いた表情を浮かべている。
「鬼なのに……日光を浴びても平気なんだ」
蜜璃の瞳には、驚きと喜びが入り混じっていた。
「すごい……! 本当に奇跡よ……!」
そして獪岳は、黙って禰豆子を見つめていた。
「……太陽を克服、か」
その言葉の意味を、彼は直感的に理解していた。
これは単なる奇跡ではない。
鬼舞辻無惨が、千年以上もの間追い求めてきたもの。
太陽を克服する鬼。
「……無惨の野郎が、黙って見てるわけねえな」
獪岳の眼光が鋭くなる。
「これで、戦いが終わったわけじゃねえ」
むしろ――始まったのだ。
鬼舞辻無惨が、禰豆子を狙う。
そして鬼殺隊もまた、最後の戦いへ向けて動き出す。
「炭治郎!」
獪岳が声を飛ばす。
「妹を守りたきゃ、もっと強くなれ!」
炭治郎は涙を拭い、力強く頷いた。
「はい!」
東の空から昇った太陽が、刀鍛冶の里を照らしていく。
長かった夜が終わった。
だが――。
その朝日は、鬼殺隊にとって希望であると同時に、鬼舞辻無惨にとっても最大の標的を知らせる光となった。
太陽を克服した少女。
その存在によって、千年以上続いた鬼と人間の戦いは、ついに最終局面へと動き始める。
――夜明けは、終わりではない。
――最後の戦いの、始まりだった。