――静かだった。
あれほどまでに凄まじい戦いが繰り広げられていた刀鍛冶の里から、鬼の気配が消えている。
半天狗は討たれ、玉壺もまた滅びた。
破壊された家々。
へし折れた木々。
大地に刻まれた無数の爪痕。
そして、鬼たちとの戦いによって傷ついた刀鍛冶たち。
夜通し続いた死闘の爪痕は、里の至るところに残されていた。
そんな荒れ果てた里へ――。
ぽつり。
ぽつり、ぽつり。
「……雨?」
誰かが呟いた。
空を覆っていた雲から、細かな雨粒が落ち始める。
やがて雨は少しずつ強くなり、焼け焦げた大地を、砕けた瓦を、血と泥に汚れた戦場を優しく濡らしていった。
まるで、長い戦いを終えた者たちを労るかのように。
「……慈雨、ですね」
しのぶが静かに空を見上げる。
冷たい雨だった。
けれど、不思議と嫌な冷たさではない。
炎に焼かれた大地を冷まし、戦士たちの熱を鎮め、傷ついた里そのものを包み込んでいくような雨だった。
「本当によかった……」
隣に立つ甘露寺蜜璃が、胸元で両手を握り締める。
「禰豆子ちゃんが……太陽を克服したなんて……! あんな奇跡、本当にあるのね……!」
「うん」
時透無一郎も静かに頷いた。
以前の彼ならば、他人の奇跡など深く考えなかったかもしれない。
だが、今の無一郎は違う。
仲間と共に戦い、生き残り、そして誰かの未来を繋いだ。
「……禰豆子が生きていてよかった」
その言葉には、確かな温かさがあった。
少し離れた場所では、炭治郎が禰豆子を抱き締めながら泣いている。
「禰豆子……! 本当に……本当に良かった……!」
「お兄ちゃん……」
禰豆子もまた、穏やかな笑顔を浮かべていた。
その光景を見ながら、しのぶは小さく微笑む。
「……奇跡、ですか」
そして、その視線を別の場所へ向けた。
崩れた家屋の軒下。
そこには一人の男が座り込んでいた。
「…………」
鳴柱・獪岳。
その手には、新しく打ち直されたばかりの日輪刀が握られている。
刀身は以前のものとは僅かに違っていた。
遊郭での戦い。
そして今回の刀鍛冶の里での戦い。
幾度も限界を超えた雷の呼吸を叩き込んだ結果、以前の日輪刀は完全に限界を迎えていた。
そのため、里の刀鍛冶たちは総力を挙げて獪岳のための刀を鍛え直した。
「……悪くねえ」
獪岳は新しい刀を鞘へ納める。
「前より……馴染む」
刀を握った感触は確かだった。
まるで手の延長。
否。
以前よりもさらに鋭く、雷の呼吸を受け止めるために生まれ変わった刃だった。
だが――。
「獪岳さん」
「……なんだよ」
声を掛けてきたしのぶへ、獪岳は不機嫌そうに視線だけを向ける。
しのぶはそのまま彼の前にしゃがみ込んだ。
「腕を出してください」
「必要ねえ」
「出してください」
「……チッ」
渋々、獪岳が腕を差し出す。
しのぶはその腕に残された傷を確認すると、小さく息を吐いた。
「酷い傷ですね」
「上弦とやり合ったんだ。これくらい普通だろ」
「普通ではありません」
「……」
「遊郭であれほど無茶をして、ようやく回復したと思ったら、今度は上弦の伍と交戦。そのうえ最後には、また『帝釈天』まで使っている」
しのぶの声は穏やかだった。
だからこそ、獪岳には分かる。
怒っている。
かなり怒っている。
「……別に、死んでねえだろ」
「ええ」
しのぶは包帯を巻きながら微笑んだ。
「生きていますね」
「ならいいだろ」
「よくありません」
即答だった。
獪岳が眉を寄せる。
「……面倒くせえ女だな」
「ふふ。恋人の心配をするのが面倒くさいなら、私は喜んで面倒な女になりますよ」
「……」
獪岳は何も言わなかった。
しのぶの細い指が、傷口に薬を塗っていく。
痛みはある。
だが、それ以上に――。
その手の温かさが、妙に心地よかった。
「獪岳さん」
「なんだ」
「今回も……本当に、よく頑張りましたね」
「……上弦を一体倒しただけだ」
「二体です」
「……」
「遊郭でも妓夫太郎と堕姫を倒し、今回は玉壺を討った。しかも、時透くんや私と連携して」
「だからなんだよ」
「誇っていいと思います」
その言葉に、獪岳は一瞬だけ目を伏せた。
「……俺は」
低い声が漏れる。
「俺は、誰かに褒められるために戦ってるんじゃねえ」
「ええ」
「誰かに認められるためでもねえ」
「はい」
「ただ……」
獪岳は握り締めた拳を見る。
「……誰にも負けたくねえだけだ」
しのぶは微笑んだ。
「知っています」
「だったら――」
「ですが」
しのぶは獪岳の手を、そっと両手で包み込んだ。
「私は、あなたが生きて帰ってきてくれたことが一番嬉しいです」
獪岳の瞳が僅かに揺れる。
「……」
「どれだけ強くなっても、どれだけ上弦を倒しても……あなたが死んでしまったら、私は嬉しくありません」
雨音だけが響く。
「だから……もう少しだけ、ご自分の命を大切にしてください」
「…………ハッ」
獪岳は鼻で笑った。
「俺が死ぬわけねえだろ」
「どうして?」
「俺は――」
黒い瞳が、まっすぐにしのぶを見つめる。
「誰の下にも伏さねえ」
そして、僅かに口元を緩める。
「……それに、お前を置いて死ぬなんざ、俺の趣味じゃねえ」
「……」
しのぶの瞳が大きく見開かれた。
「獪岳さん」
「なんだよ」
「今の言葉……もう一度言っていただけますか?」
「断る」
「残念です」
しのぶは笑った。
その笑顔は、いつもの柱としての微笑みではない。
一人の女性として、愛する男が生きて帰ってきたことを喜ぶ笑顔だった。
「ですが、ちゃんと覚えておきますね」
「……勝手にしろ」
獪岳は顔を背ける。
耳が僅かに赤い。
その様子を見て、しのぶは小さく笑った。
やがて雨は弱くなっていく。
雲の切れ間から、一筋の光が差し込んだ。
その光は、傷ついた刀鍛冶の里を照らし、炭治郎と禰豆子を照らし、そして軒下に座る二人の姿も優しく包み込んだ。
「……雨、上がりそうですね」
「ああ」
獪岳が立ち上がる。
まだ身体には痛みが残っている。
完全に癒えたわけではない。
それでも――。
「行くぞ、しのぶ」
「どちらへ?」
「決まってんだろ」
腰に新しい日輪刀を差す。
「次の戦場だ」
しのぶはその隣へ並んだ。
「はい」
その手が自然に伸びる。
獪岳も拒まなかった。
二人の手が重なる。
遠くでは、炭治郎たちの笑い声が聞こえていた。
太陽を克服した少女。
上弦を討ち取った柱たち。
そして、死闘を生き抜いた仲間たち。
しかし――彼らはまだ知らない。
この奇跡が、鬼舞辻無惨を大きく動かすことを。
太陽を克服する鬼。
それは千年以上もの間、無惨が追い求め続けた唯一無二の存在だった。
「……無惨」
獪岳が遠くの空を睨む。
「次は、お前だ」
その瞳に宿るのは、恐怖ではない。
さらなる高みを目指す、燃えるような闘志。
刀鍛冶の里に降った慈雨は、やがて止んだ。
そして雲の向こうから差し込む陽光が、次なる戦いの始まりを告げていた。