――鬼殺隊本部から少し離れた山中。
朝靄の残る広場には、数十人の隊士たちが集められていた。
柱稽古。
最終決戦を目前に控え、鬼殺隊士一人ひとりの実力を底上げするために始まった、過酷極まりない鍛錬である。
その最初の担当は――水柱・冨岡義勇。
「……もっと踏み込め」
静かな声が響く。
「足が遅い。構えが甘い。これでは鬼の攻撃を受ける」
「は、はいっ!」
隊士たちは必死に刀を振る。
しかし、誰一人として義勇に一太刀も届かない。
水の呼吸を極めた剣士の動きは、まるで流れる水そのもの。
力みがない。
無駄がない。
それでいて、一瞬の隙も存在しなかった。
「もう一度」
「は、はい!」
何度倒されても隊士たちは立ち上がる。
だが――。
「……俺は、お前たちとは違う」
ふと、義勇が呟いた。
その声は決して大きくなかった。
だが、その場にいた全員の耳にははっきりと届いた。
隊士たちの動きが止まる。
そして――。
少し離れた場所で腕を組みながら稽古を見ていた獪岳の眉間に、深い皺が刻まれた。
「……あぁ?」
低い声。
周囲の空気が、一瞬で変わった。
「今、なんつった?」
義勇が振り返る。
「俺は、お前たちとは違うと言った」
「ハッ……」
獪岳の口元が歪む。
「相変わらず、人を舐め腐ったような物言いしやがるな。水柱様よぉ」
「そういう意味ではない」
「じゃあ、どういう意味だ?」
義勇は黙った。
「……」
「……おい」
「……」
「黙ってねえで答えろ」
獪岳が一歩踏み出す。
その瞬間――。
バチッ!
黒紫色の雷気が、獪岳の身体から漏れ出した。
隊士たちが思わず後退する。
「自分だけ特別だって言いたいのか?」
「違う」
「俺たちと一緒に鍛えるのが嫌だってのか?」
「そういうことでもない」
「だったら、なんでそんな言い方しやがる!」
獪岳の声が山中に響き渡る。
義勇はただ、静かに獪岳を見つめていた。
その表情からは、感情がほとんど読み取れない。
それが余計に獪岳を苛立たせる。
「てめぇ……!」
刀の柄へ手が伸びる。
「柱の分際で自分だけ稽古を拒否するってんなら――」
バリバリバリッ!
雷気が一気に膨れ上がる。
「俺が力ずくで引きずり出してやるよ!」
「待ってください、獪岳さん!」
その間に飛び込んだのは、竈門炭治郎だった。
「義勇さんは、そんなつもりで言ったんじゃありません!」
「だったら説明しろ!」
「それは……!」
炭治郎は義勇を見る。
そして、少しだけ苦しそうに眉を下げた。
「義勇さんには……義勇さんにしか分からない苦しみがあるんです」
「……」
「最終選別の時、義勇さんは親友だった錆兎さんに助けられた。でも、その錆兎さんは亡くなった」
義勇の瞳が僅かに揺れる。
「自分だけが生き残ったことを、ずっと責めていたんです」
炭治郎は続けた。
「だから、自分は柱にふさわしくない。自分は他の柱とは違う。……そう思ってしまっているんです」
獪岳は黙って義勇を見る。
「……俺は」
義勇が口を開いた。
「錆兎がいなければ、あの日死んでいた」
静かな声だった。
「俺は何もできなかった。鬼を倒したのも、最終選別を生き残ったのも……俺の力ではない」
「義勇さん……」
「だから俺は、柱になっていい人間ではない」
その言葉を聞いた獪岳は――。
「……くだらねえ」
「……何?」
「くだらねえって言ったんだよ」
獪岳が義勇の前まで歩いていく。
「死んだ奴に生きろって言われたから生きた。だったら、生き残ったてめぇがやることは何だ?」
義勇は答えない。
「死んだ奴の分まで生きることだろうが」
「……」
「『俺は柱にふさわしくねえ』?」
獪岳が鼻で笑う。
「だったら今からふさわしくなれ」
その言葉に、義勇の目が僅かに見開かれた。
「錆兎って奴が命懸けで繋いだてめぇの命を、てめぇ自身が腐らせてどうすんだ」
炭治郎も静かに頷く。
「義勇さん。俺も、錆兎さんに会っていなかったら、ここまで来られなかったと思います」
「炭治郎……」
「だから、義勇さんが生きていることは、錆兎さんが無駄に死んだってことじゃありません」
炭治郎はまっすぐ義勇を見つめる。
「義勇さんが生きて、戦って、誰かを守っている。それが……錆兎さんが繋いだ命なんじゃないでしょうか」
長い沈黙。
やがて義勇が、ゆっくりと自分の手を見る。
脳裏に蘇る。
錆兎の笑顔。
あの日、鬼の前に立ちはだかった背中。
そして――。
『お前は生きろ』
「……錆兎」
義勇が目を閉じる。
「……俺は」
静かに息を吐く。
「……生きる」
その声には、今までとは違う力が宿っていた。
「錆兎に託された命を……繋がなければならない」
そして義勇は、腰の刀を抜いた。
「獪岳」
「なんだ」
「……手合わせを頼む」
一瞬。
獪岳の口元が吊り上がった。
「ハッ!」
黒紫の雷気が弾ける。
「やっとその気になりやがったか!」
義勇が構える。
「水の呼吸――」
獪岳も刀を抜く。
「雷の呼吸――」
隊士たちが一斉に距離を取った。
「始め!」
誰かの声と同時に――。
ドォンッ!
二人の姿が消えた。
「雷の呼吸・肆ノ型――遠雷!」
バリィィンッ!
黒紫の雷光が地面を走る。
対する義勇は、その軌道を読むように身体を滑らせた。
「水の呼吸――弐ノ型・水車」
ガキィィィンッ!
雷と水が激突する。
衝撃で土煙が舞い上がる。
「……速い」
隊士の一人が呆然と呟く。
「これが……柱同士の戦い……」
獪岳が笑う。
「悪くねえな、水柱!」
「……君も」
義勇の瞳に、初めて明確な闘志が宿る。
「以前より速くなった」
「当たり前だ!」
獪岳が踏み込む。
「俺は止まらねえ!」
再び雷光が弾ける。
水が舞う。
雷が轟く。
互いに一歩も引かない剣戟が、山中へ轟音を響かせていく。
その姿を見つめながら、炭治郎は嬉しそうに笑った。
「……よかった」
水柱・冨岡義勇。
自分は他の柱とは違う。
その言葉の意味は、孤独を示すものではなかった。
自分だけが生き残ったという罪悪感。
その過去を抱えたまま、それでも前へ進むための言葉だった。
そして――。
柱稽古は、ようやく本当の意味で始まった。
水柱が前を向いた。
ならば次に待つのは――。
さらに苛烈な柱たちによる、地獄のような鍛錬である。