――俺は、この世界の未来を知っている。
それが、この状況において唯一の救いだった。
「…………」
寺の縁側に座り、獪岳は朝焼けの空を睨んでいた。
昨日までなら、ただの美しい朝だっただろう。
だが、今の彼には違う。
この先に起こる出来事を知っている。
鬼が来る。
子供たちが殺される。
悲鳴嶼行冥が疑われる。
そして――。
「……ふざけんな」
小さく呟く。
拳が震えた。
「そんな未来、誰が受け入れるかよ」
もちろん、未来を知っていると言っても万能ではない。
原作の物語が、そのまま進む保証などない。
自分がこの世界に転生した時点で、すでに物語は変わり始めている。
それでも。
大筋の流れは覚えている。
『鬼滅の刃』。
自分が前世で知っていた物語。
鬼舞辻無惨という鬼の始祖。
鬼殺隊。
呼吸。
柱。
そして数え切れないほどの悲劇。
獪岳は、頭の中で必死に情報を整理していた。
「まず……俺自身の未来だ」
原作の獪岳。
自分と同じ身体を持つ少年。
雷の呼吸の使い手。
才能があり、努力もしていた。
しかし、常に「自分より上の存在」を恐れていた。
善逸。
黒死牟。
そして鬼。
「俺は鬼にならない」
これは絶対条件だ。
鬼になれば終わる。
人を喰う。
仲間を裏切る。
そして最後には――善逸に殺される。
「……冗談じゃねぇ」
善逸の顔が脳裏に浮かんだ。
まだ会っていない。
だが、未来の記憶には知っている。
泣き虫で。
臆病で。
女好きで。
騒がしくて。
それでも――最後の最後では、誰よりも強くなる男。
「……あいつと殺し合う未来なんて、絶対に嫌だ」
ならば、善逸との関係も変える。
敵ではなく。
兄弟弟子として。
「俺が兄貴になってやる」
獪岳は、自分でも驚くほど自然にそう呟いていた。
そして次。
「悲鳴嶼さん」
寺の中を見る。
そこには、一人の盲目の僧侶がいる。
悲鳴嶼行冥。
鬼殺隊最強の柱。
しかし、原作ではこの頃――。
悲劇によって、全てを失う。
「……それも、絶対に変える」
悲鳴嶼は悪くない。
子供たちを守ろうとしていた。
それなのに。
一人の子供の行動によって、最悪の誤解が生まれてしまう。
その誤解を知っているなら。
「俺が止めればいい」
獪岳は立ち上がった。
だが、そこで問題に気づく。
「……どうやって?」
自分は子供だ。
鬼と戦う力なんてない。
剣もない。
呼吸もない。
ましてや、鬼が本当に存在することすら、この時点では自分以外には証明できない。
「……だったら、証明する必要なんてねぇ」
重要なのは。
悲鳴嶼に信じてもらうこと。
「鬼が来る」
それを伝える。
だが――。
「俺がそんなこと言ったら、どう思われる?」
ただの子供の妄言。
夢でも見たのかと思われるかもしれない。
最悪、頭がおかしくなったと思われる。
「……なら」
獪岳は考える。
「未来を全部話す必要はない」
鬼の特徴。
夜に来ること。
人間を食うこと。
寺を狙っていること。
これだけを伝えればいい。
そして――。
「寺の戸締まりを徹底する」
「子供たちを一人にしない」
「夜になったら絶対に外へ出さない」
少しずつ対策する。
それでも。
一番重要なことがある。
「あいつだ」
獪岳の脳裏に、一人の少年の姿が浮かぶ。
寺にいる子供の一人。
原作で悲劇の引き金となる少年。
彼が夜中に寺を抜け出し、鬼と遭遇する。
だからこそ。
「こいつを絶対に外へ出さない」
それが第一だ。
「……やることは決まったな」
獪岳は拳を握った。
その時。
「獪岳」
「!」
背後から声がした。
振り返る。
そこには悲鳴嶼行冥が立っていた。
「朝から何を考えているのだ」
「……悲鳴嶼さん」
思わず緊張する。
原作を知っているからこそ。
目の前の男が、どれほど重要な人物なのか分かっている。
「……話があります」
「何だろうか」
獪岳は一瞬迷った。
そして――。
「この寺に、鬼が来ます」
空気が止まった。
悲鳴嶼の表情が変わる。
「…………何?」
「今夜か、近いうちに来る」
「なぜ、そう思う」
「……勘です」
嘘だ。
本当は未来を知っている。
しかし、それを言えるわけがない。
悲鳴嶼は黙っている。
「獪岳」
「はい」
「それは、夢か?」
「違います」
「では、何故だ」
獪岳は答えられない。
それでも。
「……俺には、そう思えるんです」
「…………」
「だから、信じてください」
頭を下げる。
「子供たちを、絶対に外へ出さないでください」
悲鳴嶼は何も言わない。
獪岳は唇を噛む。
やはり無理か。
そう思った瞬間。
「分かった」
「……え?」
「今夜から警戒しよう」
獪岳は目を見開いた。
「信じるんですか?」
「ああ」
悲鳴嶼は静かに頷いた。
「お前が、嘘をついているとは思えない」
「…………」
胸の奥が熱くなる。
「それに」
悲鳴嶼は、獪岳の頭にそっと手を置いた。
「子供がそこまで怯えているのならば、守るのが大人の役目だ」
「…………っ」
獪岳は顔を俯けた。
原作では。
この人を救えなかった。
でも。
今回は違う。
「……ありがとうございます」
小さく呟く。
悲鳴嶼は微笑んだ。
「礼を言うのはこちらだ」
「え?」
「仲間を心配してくれたのだろう」
「……仲間?」
「そうだ」
悲鳴嶼は、穏やかに言った。
「ここにいる子供たちは、皆、お前の家族だ」
「…………」
その言葉が。
胸の奥に突き刺さった。
家族。
前世では、そんな言葉を深く考えたことなどなかった。
だが今。
この寺の子供たちは。
目の前の悲鳴嶼は。
自分にとって、守るべき存在なのだと。
初めて実感した。
「……分かりました」
獪岳は顔を上げた。
「俺が守ります」
「無理をしてはいけない」
「それでも」
「……獪岳」
「俺は……」
拳を握る。
「この世界の未来を知っている」
もちろん、その言葉は口には出さない。
「だから、今度は――」
誰も死なせない。
それが。
獪岳の二度目の人生で最初に決めた約束だった。
――夜。
寺の外で。
風が吹いた。
木々がざわめく。
獪岳は暗闇を睨む。
「……来る」
遠くから。
何かが近づいている。
人間ではない。
獪岳はまだ知らない。
いや。
本当は知っている。
原作の物語なら。
ここから――寺の悲劇が始まる。
だが。
今回は違う。
寺の中では、悲鳴嶼が子供たちを守っている。
そして獪岳もまた。
小さな身体で拳を握り締めていた。
「来いよ」
少年の瞳に、恐怖はなかった。
あるのは――決意だけ。
「俺が、お前らの未来をぶっ壊してやる」
その夜。
本来ならば悲劇の始まりとなるはずだった寺に。
運命を変えるための最初の一歩が刻まれた。
【大正コソコソ噂話】
この頃の獪岳は、まだ悲鳴嶼行冥のことを「悲鳴嶼さん」と呼んでいる。
しかし、悲鳴嶼はすでに獪岳のことをかなり気にかけている。
そして後に、獪岳が悲鳴嶼を「親父」と呼ぶようになる未来を知る者は――まだ誰もいない。
なお、獪岳本人はその未来を想像しただけで、
「……絶対に呼ばねぇからな」
と顔を真っ赤にしていた。
――大正コソコソ噂話・終。