雨が降っていた。
朝からずっと。
山道は泥濘み、木々の葉からは雨粒が絶え間なく落ちている。
それでも。
「もう一度じゃ!」
桑島慈悟郎の声が響く。
「はい!」
獪岳は答えた。
泥だらけの身体で、木刀を握る。
向かいには桑島。
今日の修行は、実戦形式。
しかも――悪天候。
「雷の呼吸は、天候に左右されてはならん!」
「はい!」
「雨だから足場が悪い?」
「…………」
「敵は待ってくれるのか?」
「いいえ!」
「ならば動け!」
「はい!」
獪岳は踏み込んだ。
――ザッ!
泥が跳ねる。
足が滑る。
「……!」
体勢が崩れた。
その瞬間。
――ゴッ!
桑島の木刀が肩に入った。
「ぐっ!」
獪岳は倒れ込む。
「立て」
「……はい!」
すぐに立ち上がる。
「もう一度」
「はい!」
再び踏み込む。
――ズルッ。
今度は足を取られた。
「くっ!」
木刀が迫る。
獪岳は咄嗟に転がって避ける。
「良い」
桑島が言った。
「だが、まだ遅い」
「……はい!」
獪岳は歯を食いしばった。
「もう一度!」
「来い!」
◇
一時間。
二時間。
三時間。
修行は続いた。
獪岳の身体は限界に近づいていた。
腕は重い。
脚は震える。
肺が痛い。
それでも。
「立て!」
桑島の声。
「…………」
獪岳は立ち上がる。
「立てるうちは立て!」
「はい!」
木刀を構える。
「来い!」
獪岳が走る。
桑島の木刀。
――ガンッ!
受ける。
――ガンッ!
また受ける。
「遅い!」
――ガンッ!
「弱い!」
――ガンッ!
「隙がある!」
――ガンッ!
獪岳の身体が何度も吹き飛ばされる。
それでも。
「……立て!」
「はい!」
また立つ。
「立て!」
「はい!」
また。
「立て!」
「はい!」
その光景を。
善逸が道場の端から見ていた。
「…………」
善逸の顔から笑顔が消える。
「兄貴……」
獪岳が倒れる。
「…………」
立ち上がる。
倒れる。
立つ。
倒れる。
立つ。
何度も。
何度でも。
善逸は思った。
――なんで。
――なんで、そこまでできるの?
やがて。
獪岳が膝をついた。
「……っ」
手から木刀が落ちる。
「…………」
桑島が見下ろす。
「今日はここまでじゃ」
「……」
獪岳は答えない。
「獪岳」
「……まだです」
「何?」
「まだ……終われません」
「もう十分じゃ」
「嫌です」
獪岳は木刀を拾う。
「……俺には」
息を切らしながら。
「時間がない」
桑島の眉が動く。
「…………」
「俺は……」
獪岳は拳を握る。
「いつか、誰かが死ぬ未来を知ってる」
善逸には意味が分からない。
桑島も詳しくは知らない。
それでも。
獪岳の声に込められた切迫感だけは伝わった。
「だから……」
獪岳は立ち上がる。
「俺がもっと強くならないと」
「…………」
「間に合わない」
◇
夜。
雨はまだ降っていた。
獪岳は一人、道場の軒下に座っている。
身体中が痛い。
「…………」
自分は本当に。
全員を救えるのか。
原作を知っている。
未来を知っている。
だからこそ。
知っているからこそ。
怖い。
どれだけ鍛えても。
どれだけ努力しても。
間に合わなかったら。
――胡蝶カナエが死ぬ。
――しのぶが復讐に囚われる。
――炭治郎たちが傷つく。
――多くの隊士が死ぬ。
――そして。
自分自身も。
鬼になる。
「……くそ」
拳を握る。
「絶対に嫌だ」
雨音が響く。
「俺は……」
拳を地面に叩きつける。
「もう、あんな未来には戻らねぇ」
その時。
「獪岳」
振り返る。
桑島が立っていた。
「……師匠」
桑島は隣に座った。
「少し話すか」
「……はい」
しばらく。
二人は雨を見ていた。
「お前は強くなりたいのう」
「はい」
「何故じゃ?」
「守りたいからです」
「誰を?」
獪岳は答える。
「……全員」
桑島は静かに聞いている。
「寺の子供たち」
「うむ」
「悲鳴嶼さん」
「うむ」
「善逸」
「うむ」
「師匠」
桑島の目が僅かに揺れる。
「そして……」
獪岳は空を見上げる。
「まだ出会っていない人たちも」
「…………」
「俺は、誰かを守るためなら何度でも立ち上がります」
桑島はしばらく黙っていた。
やがて。
「ならば、覚えておけ」
「はい」
「強さとは、倒れないことではない」
「…………」
「倒れても、もう一度立ち上がることじゃ」
獪岳は顔を上げた。
「…………」
「何度負けても」
「…………」
「何度傷ついても」
「…………」
「何度絶望しても」
桑島は獪岳を見る。
「それでも前を向く」
「…………」
「それが、お前の言う『守る』ということじゃ」
獪岳は黙っていた。
そして。
ゆっくりと。
「……はい」
頷いた。
「覚えておきます」
◇
翌朝。
雨は止んでいた。
山の空には。
薄い青空が見える。
「善逸!」
「はい!」
「今日は走り込みだ!」
「えええええ!?」
「昨日休んだ分、倍だ!」
「休んでないよ!?」
獪岳が笑う。
「ほら、行くぞ」
「兄貴ぃ!」
二人が山道を走り出す。
善逸が必死についてくる。
「待ってぇぇぇ!」
「遅い!」
「兄貴速すぎ!」
「なら速くなれ!」
「無茶言うなぁ!」
その姿を。
桑島は静かに見送った。
「…………」
そして。
小さく呟く。
「折れぬ心か」
老人は微笑んだ。
「良い目をするようになった」
◇
それから数日。
獪岳の修行はさらに厳しくなった。
雨。
風。
雪。
暑さ。
どんな状況でも鍛錬を続ける。
足を痛めても。
腕を擦りむいても。
失敗しても。
必ず立ち上がる。
「もう一度!」
「はい!」
「もう一度!」
「はい!」
「もう一度!」
「はい!」
いつしか。
獪岳の中に、一つの確かなものが生まれていた。
――折れない心。
才能でもない。
技術でもない。
身体能力でもない。
どれだけ打ちのめされても。
「まだやれる」
そう思える心。
それこそが。
鬼殺隊士として最も必要なものだった。
◇
ある日の夕暮れ。
獪岳は一人で壱ノ型を放っていた。
「雷の呼吸――壱ノ型」
――ドンッ!
「霹靂一閃!」
藁束が斬れる。
さらに。
「もう一度!」
――ドンッ!
また斬る。
「もう一度!」
――ドンッ!
そして。
獪岳は刀を納めた。
「…………」
その顔には。
以前のような焦りがなかった。
未来を変えたい。
誰も死なせたくない。
その気持ちは変わらない。
だが。
「焦る必要はない」
獪岳は呟いた。
「一歩ずつ強くなる」
そして。
「絶対に、最後まで諦めない」
これが。
転生した獪岳の新しい決意だった。
運命は変えられる。
未来は変えられる。
そのために。
何度でも立ち上がる。
たとえ何度倒されても。
心だけは。
決して折らない。
【大正コソコソ噂話】
獪岳が「折れない心」を身につけ始めた頃。
善逸にも変化があった。
以前なら修行中に、
「もう無理!」
「死ぬ!」
「逃げたい!」
と泣き叫んでいた善逸が。
ある日。
転んでも立ち上がり、
「……もう一回」
と呟いた。
獪岳は少し驚いた後。
「そうだ。それでいい」
と頭を撫でたという。
ところが。
その直後。
善逸は嬉しそうに、
「兄貴に褒められたぁぁぁ!」
と泣き出した。
獪岳は頭を抱え、
「お前は結局泣くのかよ!」
と叫んだそうだ。
桑島はその様子を見ながら、
「……二人とも、良い弟子になったのう」
と笑っていたという。
――大正コソコソ噂話・終。