蝶屋敷。
普段なら薬草の香りと小鳥の囀りに包まれている広大な庭が、この日ばかりは鬼気迫る訓練場へと変貌していた。
「はい、次の方。姿勢を崩さずに、もう一度お願いしますね」
柔らかな春風のような声。
その声の主は、蟲柱・胡蝶しのぶ。
白い羽織を翻しながら、彼女は笑顔を絶やすことなく隊士たちの動きを見つめていた。
しかし、その笑顔とは裏腹に、課されている訓練は決して生易しいものではない。
「壱、弐、参、四……!」
「もっと速く!」
「は、はいっ!」
隊士たちが一斉に木刀を突き出す。
ズッ、ズッ、ズッ、ズッ!!
軽量化された木刀による高速連突き。
さらに、ただ回数をこなすだけではない。
狙う場所は鬼の急所。
相手の動きを見て、一瞬の隙に正確な一撃を叩き込む。
「鬼の首を斬れないからといって、何もできないわけではありません」
しのぶは一本の木刀を手に取り、隊士たちへ説明する。
「鬼の動きを止める。視界を奪う。味方を逃がす時間を作る。そして負傷者を救う。柱でなくても、仲間を守る方法はいくらでもあります」
「なるほど……!」
「ですが」
にこり。
しのぶの笑顔が深くなる。
「実戦で一度しかない機会を掴むには、この程度では足りませんよ?」
「えっ?」
「もう一周です」
「えええええっ!?」
悲鳴が蝶屋敷に響き渡った。
そこから始まったのは、さらなる地獄だった。
高速連突き。
足運び。
回避訓練。
そして薬学の基礎。
「これは藤の花を利用した薬です。こちらは止血用。そしてこちらは毒を受けた際の応急処置に使います」
「覚えることが多すぎる……!」
「戦場では『知らなかった』では済みませんからね」
しのぶは優しく説明していく。
鬼との戦いでは、刀だけが武器ではない。
薬の知識もまた、命を救うための力なのだ。
「うぅ……しのぶ様、笑顔なのに怖い……」
「聞こえていますよ?」
「ひっ!」
隊士が青ざめる。
その様子を少し離れた木陰から眺めている男がいた。
腕を組み、壁に背を預けている鳴柱・獪岳である。
「……チッ」
しばらく黙って見ていた獪岳が、ついに口を開いた。
「おい、しのぶ」
「はい?」
「いくら何でも、あれじゃ実戦で使い物にならねえだろ」
「まあ」
しのぶが振り返る。
「では、獪岳さんならどうします?」
「簡単だ」
獪岳が木刀を拾い上げる。
「俺の雷撃を避けさせる」
「……」
「避けられなかった奴は吹っ飛ぶ。立てた奴はもう一度。簡単だろ?」
隊士たちの顔から血の気が引いた。
「簡単じゃないですよ!?」
「うるせえ。戦場はもっと酷えぞ」
獪岳は鼻を鳴らす。
「上弦の鬼は、こっちの都合なんざ待ってくれねえ。敵の攻撃が速いなら、それ以上に動けるようになれ。毒を受けたなら、それでも動けるようになれ。死にたくなけりゃ身体に叩き込め」
「ふふ……」
しのぶが小さく笑う。
「やはり獪岳さんは厳しいですね」
「お前が甘すぎるんだよ」
「あら。では、私の稽古が本当に甘いのか、確かめてみますか?」
「……あ?」
しのぶが木刀を構えた。
「お手合わせ、お願いできますか?」
一瞬。
獪岳の口元が吊り上がった。
「ハッ……面白え。後悔すんなよ?」
「もちろんです」
二人が庭の中央へ進み出る。
隊士たちは自然と訓練を止め、二人の柱へ視線を集中させた。
「始め!」
誰かの声が響いた瞬間——。
バリィィッ!!
獪岳の足元から黒紫の雷気が爆発した。
「雷の呼吸……!」
獪岳の木刀が唸りを上げる。
しかし。
「ふっ」
しのぶの姿が消えた。
「なっ……!?」
獪岳の一撃が空を切る。
次の瞬間。
トンッ!
しのぶの木刀が獪岳の肩へ触れた。
「一つ」
「チッ!」
獪岳が振り返る。
しのぶはすでに数歩後ろへ下がっていた。
「今のは速ぇな……!」
「ありがとうございます」
「褒めてねえ!」
再び獪岳が踏み込む。
今度は真正面。
黒紫の雷が庭を走り、木刀が幾重にも迫る。
しかし、しのぶは真正面から受けない。
最小限の動きで身体を逸らし、刀身を滑らせ、獪岳の懐へ潜り込む。
「蟲の呼吸は、力で押し切るためのものではありません」
「知ってるよ!」
「ならば、こういう戦い方もあります」
「……!」
鋭い突き。
獪岳が身体を捻ってかわす。
そのまま反撃。
ガキィンッ!!
木刀同士が激突し、火花が散る。
「相変わらず嫌な軌道で攻めやがる……!」
「あら。褒めていただけたと思っておきますね」
「調子に乗るな!」
「ふふっ」
隊士たちは完全に言葉を失っていた。
速い。
あまりにも速い。
二人の姿を追おうとしても、目が追いつかない。
一方は雷のような爆発力。
もう一方は蝶のような身軽さ。
まったく異なる剣技が、互いの隙を探りながら激しく交錯している。
「これが……柱……」
「俺たちとは次元が違う……」
やがて、獪岳としのぶが同時に後方へ跳んだ。
二人の間に静寂が落ちる。
「……今日はこの辺にしておきましょうか」
「チッ。まだやれるだろ」
「獪岳さん」
しのぶが微笑む。
「隊士たちの稽古を忘れてはいけませんよ?」
「……ああ」
獪岳は木刀を肩に担いだ。
「おい、クソガキども!」
「は、はい!」
「今のを見て分かっただろ」
獪岳は隊士たちを睨みつける。
「俺たち柱だって、相手の力を真正面から受けてるわけじゃねえ。自分にできる戦い方を極限まで磨いてるんだ」
そして、しのぶを見る。
「力がねえなら速さを磨け。速さが足りねえなら知恵を使え。知恵が足りねえなら……」
「全部覚えればいいんですね」
しのぶが横から続ける。
「はい。その通りです」
「……お前、俺の台詞を取るんじゃねえ」
「ふふ、ごめんなさい」
隊士たちから、小さな笑い声が漏れた。
先ほどまでの恐怖に震えていた顔には、いつしか強い決意が浮かんでいる。
「もう一度お願いします!」
「僕も!」
「俺もやります!」
獪岳は一瞬だけ目を細めた。
「……ハッ」
そして背を向ける。
「最初からそう言えってんだ」
その背後で、しのぶも静かに微笑んでいた。
蟲柱・胡蝶しのぶの稽古。
それは単なる剣術の鍛錬ではない。
「弱い者には弱い者の戦い方がある」ということを教え、生き残るための知識と技術を叩き込む、命を繋ぐための稽古だった。
そしてその日、蝶屋敷には再び隊士たちの掛け声が響き始める。
「壱、弐、参、四——!」
「もっと速く!」
「はいッ!!」
その声を聞きながら、獪岳は小さく呟いた。
「……無惨の野郎に、誰一人殺させるんじゃねえぞ」
隣に立つしのぶは、その言葉を聞き逃さなかった。
「はい。私たちも、最後まで戦い抜きましょう」
二人の柱は並んで稽古場を見つめていた。
最終決戦の時は、確実に近づいていた。