蝶屋敷での薬学訓練、獪岳の迅雷稽古、水柱・冨岡義勇との実戦形式の手合わせ――柱稽古は日を追うごとに苛烈さを増していた。
そして、隊士たちが次に案内された場所。
そこは、恋柱・甘露寺蜜璃の屋敷だった。
「みんなー! 今日は私と一緒に、身体をいっぱい柔らかくしましょうね!」
「…………」
隊士たちは一斉に固まった。
満面の笑みを浮かべる蜜璃。
その背後には、畳の上に並べられた大量の座布団と、なぜか異様に頑丈そうな木製のストレッチ器具。
「本日の稽古は、『柔軟性強化訓練』です!」
「柔軟……?」
「そう! 身体が柔らかくなれば、関節の可動域が広がります! 敵の攻撃を紙一重で避けたり、普通なら届かない角度から斬り込んだりできますから!」
蜜璃は楽しそうに説明する。
「それに、皆さんは普段から刀を振っていますよね? 筋肉が固まってしまうと動きが悪くなっちゃうんです。だから今日は、しっかり伸ばして、しっかりほぐして、しっかり強くなりましょう!」
「なるほど……理屈は分かりました!」
「じゃあ、まずは前屈からいきましょう!」
隊士たちが一斉に前屈する。
「いちー!」
「にー!」
「さんー!」
「よんー!」
蜜璃の明るい掛け声が響く。
最初は和やかな空気だった。
しかし――。
「はいっ、もう少し!」
「え?」
「もっともっと!」
「え?」
蜜璃が隊士の背中を、ぐいっ。
「ぎゃああああああっ!?」
「大丈夫ですよー! 力を抜いてくださーい!」
「無理ですぅぅぅっ!」
「あと少しですよ!」
「その『あと少し』が怖いんですぅぅぅっ!」
次々と悲鳴が上がる。
「待ってくれ! 俺の股関節が限界だ!」
「隊士としての限界じゃなくて、人間としての限界が来てるぅ!」
「助けてくれぇぇぇ!」
蜜璃は心底楽しそうだった。
「ふふっ。みんな頑張って! 身体が柔らかくなれば、もっと生存率が上がりますから!」
その純粋な善意こそが、隊士たちには恐ろしかった。
そして――。
稽古場の隅。
壁に背を預け、腕を組んでその光景を眺めている男がいた。
鳴柱・獪岳である。
「…………」
隊士たちの絶叫を聞きながら、獪岳は額に青筋を浮かべていた。
「……おい、甘露寺」
「なあに、獪岳さん?」
「それは稽古か?」
「もちろん!」
「どう見ても拷問だろうが」
「ええっ!?」
蜜璃が目を丸くする。
「だって、みんなちゃんと柔らかくなってるわよ?」
「そういう問題じゃねえ。今にも何人か足腰を壊しそうじゃねえか」
「大丈夫、大丈夫!」
「お前の『大丈夫』ほど信用できねえ言葉はねえんだよ!」
獪岳が吐き捨てる。
その直後だった。
蜜璃が何かを思い出したように、ぽんと手を叩いた。
「あっ、そうだ!」
「……なんだ」
「獪岳さんも柔軟しなくちゃ!」
「は?」
「しのぶちゃんから頼まれてるの!」
「…………」
獪岳の笑顔が引きつった。
「なんて言った?」
「『獪岳さんは身体を酷使しがちなので、しっかり身体をほぐしてあげてください』って」
「…………あの女ぁ……」
蝶屋敷の方角を睨みつける獪岳。
しかし蜜璃はすでに獪岳の腕を掴んでいた。
「さあ、獪岳さん! まずは前屈から!」
「待て。俺は遠慮――」
「よいしょ!」
「ぬおおおおおおおっ!?」
獪岳の身体が一気に前へ倒される。
「お、おい! 押すな! 話を聞け、甘露寺ァッ!」
「まだまだですよー!」
「やめろォッ! 俺の背骨を殺す気かァァァッ!」
「獪岳さん、身体硬ーい!」
「うるせえ! 剣士なんだからこれくらい普通だろうが!」
「普通じゃありません!」
「断言すんな!」
周囲で見ていた隊士たちは、恐怖に震えながらも思わず顔を見合わせた。
「……鳴柱様が……」
「押さえ込まれてる……」
「俺たちも、あんな目に遭ってたのか……」
「柱って……大変なんだな……」
獪岳は必死に抵抗する。
だが、蜜璃の怪力は尋常ではなかった。
「はい、もうちょっと!」
「これ以上やったら関節が外れるッ!」
「大丈夫ですよ!」
「だからその言葉を信用できねえって言ってんだろうがァァァッ!」
屋敷中に獪岳の絶叫が響き渡った。
しばらくして――。
「…………」
稽古終了。
隊士たちは畳の上に転がり、完全に力尽きていた。
獪岳もまた、壁にもたれながら荒い息を吐いている。
「……くそが……」
「獪岳さん、大丈夫?」
「大丈夫なわけあるか……」
「でも、ちゃんと前より身体が柔らかくなってますよ!」
「……」
獪岳は自分の身体を動かしてみる。
確かに、普段よりも関節の動きが軽い。
刀を振る際の肩や腰の可動域も広がっている。
「…………チッ」
「どうですか?」
「……効果があるのは認めてやる」
「やったぁ!」
蜜璃が嬉しそうに両手を上げる。
「やっぱり柔軟は大事なのよ!」
「だがな……」
獪岳は腰を押さえながら睨みつける。
「次からはもう少し加減しろ」
「はーい!」
「……本当に分かってんのか、お前」
その時。
「皆さーん! お疲れ様でした!」
屋敷の奥から、蜜璃が用意していた料理が運ばれてきた。
「わあっ!」
「甘い匂い……!」
「パンケーキだ!」
山盛りのパンケーキに、果物、蜂蜜、そして温かな紅茶。
限界まで鍛えられた隊士たちは、先ほどまでの悲鳴が嘘のように食事へ飛びついた。
「おいしい……!」
「生きててよかった……!」
「甘いものが身体に染みる……!」
「いっぱい食べてね!」
蜜璃が嬉しそうに笑う。
その隣では、獪岳も黙々と紅茶を飲んでいた。
「……」
「獪岳さん?」
「……なんだ」
「パンケーキ、もう一枚いります?」
「…………もらう」
「ふふっ!」
蜜璃が嬉しそうに皿へ追加する。
獪岳はそれを受け取りながら、ふと自分の手を見つめた。
遊郭。
刀鍛冶の里。
幾度となく死線を越えてきた。
無惨との決戦では、今まで以上の強さが必要になる。
そして、そのためには単純な剣技だけでは足りない。
速さ。
柔軟性。
持久力。
反射。
身体を限界まで使いこなす技術。
「……身体の使い方一つで、まだ伸びる余地があるってことか」
獪岳が小さく呟く。
「そうですよ!」
蜜璃が笑顔で頷いた。
「獪岳さんは強いけど、もっともっと強くなれると思います!」
「……ハッ」
獪岳は鼻で笑う。
「俺がこれ以上強くなるのは当然だ。無惨の首を獲るまで、俺は止まらねえ」
その言葉に、蜜璃は嬉しそうに目を細めた。
「うん! 一緒に頑張りましょう!」
「……ああ」
珍しく素直な返事。
その光景を、少し離れた場所から見つめるしのぶがいた。
「ふふ……」
獪岳が気づき、眉をひそめる。
「……おい、しのぶ。見てたのか」
「ええ。とても楽しそうでしたね」
「……余計なこと言うな」
「でも、身体が軽くなったのでしょう?」
「……まあな」
「それなら蜜璃さんに感謝しないといけませんね」
「……チッ」
獪岳はそっぽを向く。
だが、その口元にはほんの僅かな笑みが浮かんでいた。
地獄の柔軟稽古。
その過酷さとは裏腹に、恋柱・甘露寺蜜璃の稽古は、隊士たちの身体だけでなく、柱たちの心にも温かな活力を与えていた。
そして彼らはまだ知らない。
この先に待つ無惨との決戦が、これまでのどんな戦いよりも苛烈なものになることを。
だからこそ――。
一日でも長く生きるために。
一秒でも速く動くために。
柱稽古は、さらに激しさを増していくのだった。