――ビィィィン。
遠くで鳴女の琵琶が鳴った。
その音が止んだ瞬間、獪岳の身体が床へと叩き落とされる。
ドガァンッ!!
「ぐっ……!」
獪岳は受け身を取り、片膝をついた。
周囲を見渡す。
そこは、無限城の中でも特に異様な一室だった。
壁には乾いた血がこびりつき、畳はところどころ黒く変色している。
天井から吊り下がった無数の灯籠が、不気味な赤い光を落としていた。
そして何より――。
「……この気配」
獪岳の顔から、戦いの余裕が消える。
濃密な鬼の臭い。
それだけではない。
どこか懐かしく、そして何よりも忌々しい。
「誰だ……」
獪岳は黒銀の日輪刀を抜いた。
バチッ……!
黒紫の雷が刀身を走る。
静寂。
返事はない。
獪岳はゆっくりと周囲を見回した。
「出てこい」
「……」
「隠れてコソコソしてんじゃねえぞ」
その瞬間。
スゥ――。
背後の障子が、ひとりでに開いた。
「――よお」
低い声。
「久しぶりだな、獪岳アニキ」
「……ッ!」
獪岳の瞳が見開かれる。
そこに立っていたのは、一人の鬼だった。
人間だった頃の面影は残っている。
だが、その姿はもはや完全な異形。
額から伸びる禍々しい角。
鋭く裂けた瞳。
身体中には無数の傷跡。
そして何より――。
その身体には、幾本もの日輪刀が突き刺さっていた。
まるでそれらを喰らい、自らの肉体へ取り込んだかのように。
鬼は口元を歪める。
「随分と偉くなったじゃねえか」
「……テメェ」
獪岳の刀を握る手が震えた。
「柱にまでなったんだってな?」
鬼は愉快そうに笑う。
「鳴柱……だっけか?」
「……誰に聞いた」
「さあな」
鬼は肩をすくめる。
「無限城に落ちてきた連中の話を聞いてりゃ、嫌でも耳に入るんだよ」
獪岳は目を細めた。
その声。
その顔。
そして、記憶の奥底に刻み込まれた忌まわしい存在。
「……黒死牟に血を分けてもらったのか」
「ご名答」
鬼が笑う。
「俺は選ばれたんだよ」
その言葉を聞いた瞬間。
獪岳の中で、何かが弾けた。
「……選ばれた?」
「そうさ」
鬼は胸を張る。
「同じ雷の呼吸を使ってたのに、俺はお前みたいに人間のまま強くなる道なんざ選ばなかった」
「……」
「鬼になればいい。そうすりゃもっと強くなれる」
口元が吊り上がる。
「その結果がこれだ」
鬼の身体から、禍々しい黒紫の血鬼術が噴き出した。
バチバチバチッ!!
獪岳の黒雷とよく似た色。
だが、その性質はまるで違う。
「どうだ?」
鬼が笑う。
「俺の力は、お前の雷より遥かに上だぜ?」
「……ふざけんな」
獪岳が低く呟く。
「お前は……」
刀を構える。
「何も分かっちゃいねえ」
「何だと?」
「雷の呼吸ってのはな」
黒雷が獪岳の全身を包む。
「強くなりてえから鬼になるような、安っぽい力じゃねえんだよ」
「ハッ!」
鬼が鼻で笑う。
「じゃあ何だ? お前は人間のまま、俺より強くなったとでも言いたいのか?」
「当たり前だろうが」
獪岳の眼光が鋭くなる。
「俺は鬼にならなくても上弦を殺した」
「……!」
「遊郭で上弦の陸を殺した」
一歩。
「刀鍛冶の里で上弦の伍を殺した」
さらに一歩。
「俺は鳴柱になった」
黒雷が激しく膨れ上がる。
「そして――」
獪岳は刀を鬼へ向けた。
「これから無惨の首も獲る」
「……!」
鬼の表情から笑みが消えた。
「テメェがどれだけ鬼の力を手に入れようが知ったこっちゃねえ」
獪岳の声が、冷たく響く。
「俺はテメェを認めねえ」
「……獪岳ェ」
鬼の瞳が血走る。
「昔からそうだ」
身体中の日輪刀が、ガチャリと音を立てた。
「いつもいつも……俺を見下しやがって!」
「見下されるような真似してたのはテメェだろうがッ!」
「黙れェェェッ!!」
ドォォォンッ!!
鬼の身体から凄まじい衝撃波が放たれる。
獪岳は即座に跳び退く。
畳が吹き飛び、壁が粉砕される。
「ハッ!」
獪岳が空中で身体を捻る。
「雷の呼吸――肆ノ型!」
バリバリバリィッ!!
「遠雷ッ!!」
黒紫の斬撃が飛ぶ。
しかし鬼は腕を振るった。
「遅ぇんだよッ!」
ガキィィン!!
黒雷と鬼の爪が激突する。
火花が散る。
二人の顔が、至近距離で睨み合った。
「昔と変わらねえな、アニキ」
「その呼び方をやめろッ!」
「嫌だね」
鬼が笑う。
「俺たちは兄弟弟子だろ?」
「だったら――」
獪岳の雷がさらに膨れ上がる。
「その兄弟弟子としての腐れた因縁、今ここで終わらせてやるよォッ!!」
「上等だァァァッ!!」
ドォォォォン!!
雷鳴と鬼の咆哮が無限城を震わせる。
二人が同時に踏み込む。
黒紫の雷と血鬼術が真正面から激突し、部屋そのものが崩壊していく。
かつて同じ師のもとで雷の呼吸を学んだ兄弟弟子。
一人は人間として柱へ。
もう一人は鬼となり、上弦の陸へ。
決して交わることのなかった二つの道が――。
今、無限城で再び交差した。
「俺は誰にも負けねえッ!」
獪岳の咆哮が響く。
「テメェにも――鬼にも――無惨にもだッ!!」
その声と同時に、無限城の奥底で巨大な雷光が炸裂した。
因縁の兄弟弟子。
鳴柱・獪岳と、新たなる上弦の陸。
互いの誇りと存在を懸けた死闘が、ついに始まった。