上弦の陸が消滅した直後。
崩壊を始めた無限城の一室には、一瞬だけ不気味な静寂が訪れていた。
壁は大きく崩れ、天井からは瓦礫が絶え間なく落下している。
黒紫の雷光が消えた後に残されたのは、焼け焦げた床と、鬼の消滅を示す黒い灰だけだった。
獪岳は荒い呼吸を繰り返しながら、黒銀の日輪刀を杖代わりにして立っていた。
「……はぁ……はぁ……」
身体は限界だった。
肩から流れる血。
裂けた脇腹。
痺れる両脚。
それでも、獪岳は倒れなかった。
「……終わったな」
そう呟いた、その時だった。
「……アニキ!」
善逸の声が響く。
獪岳が振り返る。
「どうした、善逸」
「危ないッ!!」
善逸の表情が一変した。
耳を澄ませる。
獪岳には聞こえないほど微かな音。
瓦礫の下。
崩れた壁の向こう。
何かが這いずっている。
「……まだ何かいやがるのか?」
ズズ……。
ズズズ……。
瓦礫が動いた。
その隙間から、異形の腕が伸びる。
「グギィィィ……!」
上弦の陸が消滅したことで主を失った血鬼術の残滓。
それが無限城そのものに残された鬼の血と結びつき、最後の悪あがきのように異形の鬼へと変貌していた。
「アニキ、避けて!」
「チッ!」
獪岳が刀を構える。
しかし――遅い。
ザザザザザッ!!
瓦礫の奥から無数の刃が飛び出した。
四方八方。
逃げ場がない。
獪岳は瞬時に悟った。
(……受け切れねえ)
満身創痍の身体では、全てを斬り落とすことはできない。
その瞬間――。
ドンッ!!
「善逸ッ!?」
獪岳の身体が横へ吹き飛ばされた。
代わりに前へ出たのは善逸だった。
「ぐっ……!」
善逸の足元へ刃が突き刺さる。
あと僅かでも遅ければ、獪岳の身体を貫いていた。
「てめぇ……!」
獪岳が叫ぶ。
「何しやがった!」
善逸は振り返らない。
「アニキは……休んでて」
その声は震えていた。
足も震えている。
それでも、刀を握る手だけは決して離さなかった。
「俺がやる」
「ふざけんな! その身体で何が――」
「違うよ」
善逸が静かに遮った。
「もう、昔の俺じゃない」
獪岳が目を見開く。
善逸はゆっくりと目を閉じた。
すると――。
辺りから、音が消えた。
崩れ落ちる瓦礫の音。
遠くで鳴る琵琶の音。
異形の鬼が唸る声。
全てが遠ざかっていく。
善逸の意識が、ただ一つの音だけを捉える。
自分の心臓。
ドクン。
ドクン。
そして――。
遠い記憶の中から、懐かしい声が聞こえた。
『善逸、お前は壱ノ型しか使えん』
師匠――桑島慈悟郎の声。
『だがな……一つを極めるということは、決して恥ではない』
善逸の手に力が籠もる。
「……爺ちゃん」
獪岳が息を呑む。
善逸の身体から、黄金の雷光が漏れ始めていた。
「アニキが言ってくれたんだ」
バチッ。
「一つしかできないなら……その一つを極限まで磨けって」
バリッ……バリバリバリッ!!
黄金の雷が善逸の全身を包む。
「俺は、壱ノ型しか使えない」
善逸が目を開く。
その瞳から恐怖は消えていた。
「でも――」
腰を低く落とす。
「それなら、それだけでアニキの背中に追いつく!」
ドンッ!!
足元の床が陥没した。
「雷の呼吸――」
黄金の雷が一瞬で収束する。
「漆ノ型――」
善逸の姿が消えた。
「火雷神ッ!!」
轟ォォォォォンッ!!
次の瞬間。
無限城を一本の黄金の閃光が貫いた。
それは雷というより、天から舞い降りた巨大な神龍。
金色の龍が無限城の闇を駆け抜け、襲い掛かってきた異形の鬼を正面から呑み込んでいく。
「ギィィィィィッ!!」
ズバァァァンッ!!
一閃。
それだけだった。
鬼の頸が斬り落とされる。
いや――。
頸だけではない。
全身が黄金の雷に包まれ、血鬼術の残滓ごと消滅していく。
やがて光が収まった。
「…………」
善逸が立っていた。
しかし、その身体はすでに限界を超えていた。
「……終わっ……た……」
膝から力が抜ける。
「善逸!」
獪岳が駆け寄る。
倒れ込んできた善逸を、獪岳が両腕で受け止めた。
「……バカヤローが」
獪岳の声は低い。
「無茶しやがって……」
「へへ……」
善逸が薄く笑う。
「アニキ……俺……ちゃんと……」
「ああ」
獪岳は短く答えた。
「見てた」
善逸の顔が少しだけ緩む。
「……強くなった?」
「生意気なくらいにな」
「そっか……」
善逸は安心したように目を閉じた。
獪岳はそんな弟弟子をしっかりと抱え直す。
かつては、泣いてばかりだった。
何かあれば逃げていた。
自分には何もできないと怯えていた。
だが今は違う。
一つの技だけを、誰よりも深く、誰よりも鋭く磨き上げた。
「……立派になりやがって」
獪岳は誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
そして、善逸を背負い直す。
「行くぞ」
「……アニキ……?」
「まだ戦いは終わってねえ」
獪岳は無限城の奥を睨みつける。
「無惨の野郎をぶっ殺すまで、寝てんじゃねえぞ」
「……うん」
背中から聞こえる小さな返事。
その直後、二人の間を――。
黒紫と黄金。
二色の雷光が、静かに走り抜けた。
兄弟弟子。
かつては互いを認められなかった二人が、今では同じ師の技を背負い、同じ敵へ向かって進んでいる。
そしてその先には――。
鬼舞辻無惨との、最後の戦いが待っていた。