無限城を揺るがす轟音が、幾度となく響き渡っていた。
上弦の肆・鳴女が討たれたことで、これまで鬼舞辻無惨の意のままに動いていた異形の城は、その構造そのものを維持できなくなり始めている。
床が波打つ。
壁がねじれる。
天井だった場所が、次の瞬間には床へと変わる。
その崩壊と変容を縫うように、一人の少女が疾走していた。
「……この先ですね」
蟲柱・胡蝶しのぶ。
その足取りに迷いはなかった。
これまで何度も鬼を討ってきた。
何度も死線を潜り抜けてきた。
しかし、今の彼女の胸中にある感情は、普段の任務とはまるで違う。
怒り。
憎しみ。
そして、決して消えることのない悲しみ。
やがて、しのぶの目の前に巨大な障子が現れた。
その向こうから漂ってくる異様な冷気。
「……」
しのぶは足を止める。
息を吸った瞬間、肺の奥まで凍りつきそうなほどの冷気だった。
それでも、彼女は怯まない。
静かに障子へ手をかける。
スッ――。
開いた。
「……見つけましたよ」
広大な御堂。
床も壁も天井も、すべてが氷で覆われている。
無数の氷の蓮華が咲き誇り、その中心には一人の男が座っていた。
虹色の瞳。
整った顔立ち。
そして、血に濡れたような鮮やかな扇。
「上弦の弐――童磨」
しのぶの声は静かだった。
あまりにも静かだった。
その声の奥に、燃え盛る憎悪があることを悟れる者は少ない。
「おや?」
童磨が顔を上げる。
「誰かと思えば……可愛らしい女の子じゃないか」
虹色の瞳が、しのぶを舐めるように見つめる。
「しかも鬼殺隊の隊服……もしかして柱かな?」
童磨は嬉しそうに笑った。
「へえ、すごいね。こんな可愛い子が柱だなんて」
「……」
「名前はなんていうんだい?」
しのぶは答えない。
童磨は構わず続ける。
「いやぁ、それにしても本当に綺麗だ。ボクは女の子を食べるのはあまり好きじゃないんだけど――」
扇を口元に当てる。
「君くらい綺麗な子なら、特別に食べてあげてもいいかな」
その瞬間。
しのぶの笑顔が、ほんの僅かに深くなった。
「……ふふ」
童磨が首を傾げる。
「どうしたんだい?」
「いえ」
しのぶは腰へ手を伸ばした。
「とても面白いことを仰る鬼だと思いまして」
しゅらり。
紫紺の日輪刀が鞘から抜かれる。
通常の刀とは異なる細身の刀身。
斬るためではなく、突き刺すために特化した特殊な刃。
そして、その刀には大量の毒が仕込まれている。
「私を食べる、ですか?」
しのぶは微笑む。
「でしたら――まず、ご自分が死ぬ覚悟をなさってください」
童磨の笑顔が僅かに止まった。
「……へえ」
彼は興味深そうに刀を見る。
「その刀、普通の刀じゃないね」
「ええ」
「なるほど。毒か」
「ご明察です」
「でもさぁ」
童磨が扇を広げる。
「毒なんて、鬼には効かないんじゃないかな?」
次の瞬間。
ゾクッ――。
御堂全体の温度が、一気に低下した。
「……!」
しのぶの足元が凍りつく。
空気そのものが白く染まる。
童磨の周囲から、凄まじい冷気が吹き荒れ始めた。
「ボクの血鬼術はね、氷なんだ」
童磨が楽しそうに笑う。
「ただの氷じゃない。吸い込めば肺を壊す。呼吸をすればするほど、君の身体は内側から凍っていく」
扇を振る。
「だから――」
パキィィンッ!!
巨大な氷の蓮華が、しのぶへ向けて一斉に咲いた。
「散り蓮華」
ドォォォォッ!!
猛烈な冷気と氷の花弁が、御堂を埋め尽くす。
しかし――。
「……遅いですね」
しのぶの姿が消えた。
童磨の瞳が僅かに動く。
「おや?」
ヒュンッ!
しのぶが童磨の側面へ回り込んでいた。
「蟲の呼吸――蝶ノ舞・戯れ!」
ズシュッ!!
刀の先端が童磨の肩へ突き刺さる。
毒が注入される。
「おっと」
童磨が後退する。
「刺すだけなんだね」
「ええ」
しのぶは距離を取った。
「私は鬼の頸を斬る力がありませんから」
その言葉とは裏腹に、瞳には一切の諦めがない。
「だからこそ――」
童磨の肩から紫色の煙が立ち上る。
「毒であなたを殺します」
「……へえ」
童磨は傷口を見つめた。
「本当に入ってるね」
肉体が僅かに変色する。
しかし、童磨は笑った。
「でも、これくらいなら――」
再生。
毒に侵された細胞を鬼の再生能力で押し流していく。
「すぐに治せる」
「そうですか」
しのぶは笑った。
「それなら、何度でも試すだけです」
ヒュンッ!
また消える。
童磨が扇を振る。
「凍て曇」
冷気が爆発する。
しのぶは紙一重でかわす。
「蟲の呼吸――蜻蛉ノ舞・複眼六角!」
六方向からの高速突き。
「おっと!」
童磨が扇で受け流す。
ズシュッ!
また一撃。
「うん。速いね」
童磨が笑う。
「本当に速い」
「ありがとうございます」
しのぶも笑う。
だが、その笑顔の奥では――。
(お姉さん……)
脳裏に浮かぶ。
優しい笑顔。
花のような声。
いつも自分を包み込んでくれた姉。
胡蝶カナエ。
そして、その命を奪った鬼。
(ずっと……この日を待っていました)
しのぶの指が刀の柄を強く握る。
(あなたに出会うために)
童磨が扇を開く。
「ところでさ」
「はい?」
「君、ボクのことを知っているよね?」
しのぶの笑顔が、一瞬だけ消えた。
「……ええ」
声が低くなる。
「よく知っていますよ」
童磨の虹色の瞳が細められる。
「そうかぁ」
「あなたは――」
しのぶの身体から、凄まじい殺気が迸った。
「私の姉を殺した鬼ですから」
空気が震える。
童磨は一瞬だけ黙り――そして。
「ああ」
何かを思い出したように笑った。
「もしかして、あの時の子の妹?」
「……!」
しのぶの瞳が鋭くなる。
「いやぁ、懐かしいなぁ」
童磨は悪びれる様子もなく笑う。
「君のお姉さん、最後まで立派だったよ」
その言葉を聞いた瞬間。
しのぶの笑顔が完全に凍りついた。
「……そうですか」
静かな声。
「でしたら――」
日輪刀を構える。
「その思い出ごと、私が地獄へ送って差し上げます」
「いいねぇ!」
童磨も扇を構えた。
「やっぱり、柱って面白い!」
極寒の氷が吹き荒れる。
紫紺の刀が閃く。
「蟲の呼吸――!」
「血鬼術――!」
二人が同時に踏み込んだ。
ズガァァァァンッ!!
氷の御堂全体を揺るがす衝撃。
蝶のように舞う蟲柱。
そして、氷を操る上弦の弐。
姉の仇を討つため、胡蝶しのぶは己の命すら惜しまぬ覚悟で、最強クラスの上弦へ挑みかかる。
その戦いの先に待つのは――勝利か、死か。
無限城の一角で、凄絶な死闘が始まった。