極寒の氷の御堂に、甲高い金属音が響き渡った。
童磨が振るう扇から放たれた冷気が床を這い、壁を凍らせ、空気そのものを白く染め上げていく。
「『凍て曇』」
ゴォォォォォッ!!
吹雪にも似た冷気が、一気に押し寄せる。
「くっ……!」
しのぶは身を翻し、紙一重でそれをかわした。
しかし、完全には避けきれない。
冷気を吸い込んだ瞬間、肺の奥が焼けるように痛んだ。
(この冷気……!)
呼吸をするだけで肺が蝕まれていく。
長期戦になれば、確実に不利になる。
それでも、しのぶは刀を握る手を緩めなかった。
「姉さん!」
しのぶが叫ぶ。
少し離れた場所で、カナエが童磨と対峙していた。
「大丈夫よ、しのぶ」
カナエは微笑む。
かつてなら、その笑顔はどこまでも穏やかなものだった。
だが――。
童磨を前にした今だけは違う。
静かな怒りが、その瞳の奥に宿っていた。
「私は……もう、あなたに殺されるつもりはありません」
「おやおや」
童磨は楽しそうに笑った。
「以前とは随分違うねぇ。君はあの時、僕に殺されたはずなのに」
「ええ」
カナエは刀を構える。
「ですが、私は生きています」
その理由を、カナエは知っている。
あの日。
自分を救ってくれた少年がいた。
命を賭けて童磨と戦い、自分を連れ帰ってくれた男。
そして今では――。
しのぶが心から愛している人。
カナエにとっても、実の弟のように大切な存在。
その男が――。
ドォォォンッ!!
突然、御堂の側壁が吹き飛んだ。
大量の氷片が宙を舞う。
その向こうから、一人の男が姿を現した。
手には日輪刀。
その身に纏うのは、雷の呼吸の使い手だけが持つ独特の気配。
そして、その眼差しには揺るぎない覚悟が宿っていた。
「――遅れてすまねぇ、カナエ」
その声を聞いた瞬間。
カナエの瞳が大きく見開かれた。
「……獪岳君」
「姉さん!」
しのぶの表情にも驚きが浮かぶ。
「獪岳……!」
「よう、しのぶ」
獪岳は振り返り、ほんの僅かに口元を緩めた。
「怪我は?」
「……ありません」
「そうか」
獪岳は安堵したように息を吐く。
その瞬間。
しのぶが眉を吊り上げた。
「あなたこそ、無茶をしていませんか?」
「してねぇよ」
「嘘ですね」
「してねぇって」
「顔に出ていますよ」
「……」
獪岳の耳が、僅かに赤くなる。
カナエはそんな二人を見て、思わず微笑んだ。
「ふふ……相変わらずね」
「姉さんまで……」
「だって、獪岳君がしのぶを心配しているのがよく分かるもの」
「……当たり前だろ」
獪岳は小さく呟いた。
「俺の恋人なんだからな」
「……っ」
今度はしのぶの頬が赤くなる。
「もう……こんな時に何を言っているんですか」
「事実だろ」
「そういうところです!」
緊迫した戦場。
それでも、ほんの一瞬だけ温かな空気が流れた。
しかし――。
「おやおや」
童磨が扇を口元へ寄せる。
「随分と仲が良いんだねぇ」
その声を聞いた瞬間。
獪岳の表情から、全ての温かさが消えた。
「……黙れ」
「おや?」
「お前が……しのぶやカナエさんを語るな」
獪岳が刀を構える。
「お前は、人の命も心も踏みにじった」
雷鳴のような闘気が御堂を震わせる。
「だから俺が――今度こそ、お前を倒す」
童磨が目を細めた。
「へぇ……」
初めて、その笑顔から僅かに余裕が消えた。
「君、随分と強くなったね」
「当然だ」
獪岳が答える。
「俺は――鳴柱だ」
次の瞬間。
「雷の呼吸・改――」
バチィッ!!
獪岳の身体から雷光が弾ける。
「『迅雷・閃々』!!」
ドンッ!!
一瞬で間合いを詰める。
童磨が扇を振り抜いた。
氷の蓮華が無数に咲く。
「『蔓蓮華』」
氷の花弁が獪岳を包み込む。
しかし――。
「遅ぇ!」
雷光が氷を切り裂いた。
「なっ……!」
童磨の頬を、獪岳の刀が掠める。
血が一筋、宙へ舞った。
「……僕に傷を?」
「まだ一発だ」
獪岳が踏み込む。
「次は――もっと深いぞ!」
その瞬間。
「獪岳!」
しのぶの声が響いた。
「無茶をしないでください!」
「無茶じゃねぇ!」
「あなたは昔からそう言うんです!」
しのぶが獪岳の横へ並ぶ。
「一人で全部背負おうとする」
「……」
「私は、あなたの恋人ですよ」
しのぶは真っ直ぐに獪岳を見る。
「頼ってください」
獪岳の瞳が揺れた。
「……分かった」
そして――。
「頼む、しのぶ」
「はい」
二人の間に、言葉以上の信頼が生まれる。
「おやおや」
童磨が扇を広げる。
「二人で僕を倒すつもりかな?」
「いいえ」
カナエが静かに答えた。
「三人です」
「……?」
その時だった。
ヒュッ――!
一輪の花びらが舞う。
童磨が僅かに目を動かした。
「そこです!」
鋭い斬撃が飛んでくる。
「っ!」
童磨が身体を反らした。
銀色の刃が頬を掠める。
氷の御堂の奥。
そこに一人の少女が立っていた。
黒髪を揺らし、刀を構える少女。
「……カナヲ!」
しのぶが驚きの声を上げる。
「どうしてここに……!」
「しのぶさん」
カナヲは静かに答えた。
「私も戦います」
カナエの表情が柔らかくなる。
「カナヲ……来てくれたのね」
「はい、カナエさん」
カナヲは頷く。
「二人とも、私の大切な姉さんですから」
獪岳が少し驚いた顔をする。
「カナヲ……」
「獪岳さんも」
「俺も?」
「はい」
カナヲは僅かに視線を逸らした。
「獪岳さんは……しのぶさんを守ってくれる人ですから」
「……」
獪岳の耳が赤くなる。
「そ、そうかよ」
しのぶが思わず笑う。
「ふふ……照れていますね」
「うるせぇ」
カナエまで微笑んだ。
「ふふっ。本当に仲良しね」
「姉さんまで!」
しかし。
童磨が扇を振る。
「仲良くお喋りしている暇があるのかな?」
ゴォォォォォッ!!
猛烈な冷気が襲いかかる。
「『凍て曇』!」
四人が同時に散開した。
氷が床を覆う。
呼吸をするだけで肺が痛む。
しのぶは僅かに顔を歪めた。
「……っ」
その瞬間、獪岳が気づいた。
「しのぶ!」
「大丈夫です!」
「無理するな!」
「あなたもです!」
「俺は――」
「無理して笑うな、ですよ」
「……!」
しのぶの言葉に、獪岳が固まる。
「あなたが苦しい時は、私には分かります」
「……」
「だから、一人で強がらないでください」
獪岳は黙っていた。
そして――。
「……分かった」
小さく頷いた。
「お前には、敵わねぇな」
「ようやく素直になりましたね」
「うるせぇ」
しのぶが微笑む。
その瞬間、獪岳の耳がまた赤くなった。
「ふふ」
「笑うな!」
「だって可愛いですから」
「……っ!」
カナエが呆れたように笑う。
「戦いが終わったら、ゆっくりお話ししましょうね」
「姉さん……!」
カナヲまで小さく笑った。
だが――。
「終わらせませんよ」
カナエが童磨へ向き直る。
「この戦いを」
優しい笑顔は消えていた。
「今度こそ、あなたを倒します」
カナヲが構える。
「私も行きます」
しのぶが前へ。
「獪岳」
「ああ」
獪岳が刀を握る。
「四人で行くぞ」
カナエが頷いた。
「ええ」
「はい!」
「もちろんです!」
「……行くぞ!」
四人が同時に駆け出す。
最初に飛び出したのはカナエ。
「花の呼吸――」
花びらが舞う。
優雅な軌道が、童磨の視界を覆う。
「『花霞』!」
「おや?」
童磨が扇で受ける。
その死角から、カナヲが飛び込んだ。
「花の呼吸――『彼岸朱眼』!」
視界を極限まで研ぎ澄ます。
童磨の動きが、遅く見える。
「そこ!」
カナヲの刀が閃いた。
童磨が僅かに身を捻る。
だが――。
「甘い!」
雷光が走った。
「雷の呼吸・改――『雷龍』!!」
巨大な雷のような斬撃が、童磨へ突き進む。
「これは……!」
童磨が扇を交差させる。
ドガァァァン!!
凄まじい衝撃が御堂を揺らした。
そこへ――。
「童磨!」
しのぶが懐へ潜り込む。
「蟲の呼吸――『蝶ノ舞・戯れ』!」
刀が閃く。
毒を仕込んだ一撃。
童磨が防ぐ。
「毒か!」
「ええ」
しのぶが微笑む。
「あなたが私のことをよく知っているように――」
カナエが踏み込む。
「私たちも、あなたを知っています」
花の刃が童磨の腕を斬り裂く。
「そして――」
カナヲが続く。
「一人ではありません」
童磨が後退する。
その先に――。
獪岳がいた。
「逃がすかよ」
刀身に雷光が集中する。
「雷の呼吸・改――」
御堂そのものが震える。
「『帝釈天』!!」
轟雷。
凄まじい雷撃を伴う斬撃が、童磨へ襲いかかった。
「ぐっ……!」
童磨の身体が吹き飛ぶ。
氷の壁へ叩きつけられた。
「……なるほど」
童磨が立ち上がる。
その顔から、完全に笑みが消えていた。
「君たちは……本当に面倒だね」
カナエが刀を構える。
「そうでしょうね」
しのぶが隣に並ぶ。
「私たちは、あなたに奪われるために生きているのではありません」
カナヲも並ぶ。
「守るために戦います」
そして獪岳。
三人の女性の前へ、一歩だけ出る。
「俺もだ」
刀を構える。
「強さってのは――」
一瞬だけ、かつての自分を思い出す。
強さに飢え。
弱い者を見下し。
誰にも頼れなかった自分。
だが、今は違う。
隣には大切な人がいる。
守りたい家族がいる。
背中を預けられる仲間がいる。
「誰かを踏みつけるためのもんじゃねぇ」
雷光が刀身を包む。
「誰かを守るためにある」
しのぶが微笑んだ。
「……それでこそ、私の恋人です」
「……っ」
獪岳の耳が真っ赤になる。
「今それ言うかよ……!」
「ふふ」
カナエが笑う。
「獪岳君、本当にしのぶのことが大好きなのね」
「姉さんまで!」
カナヲも小さく笑った。
「仲良しですね」
「カナヲ、お前まで……!」
童磨がその光景を見つめる。
理解できない。
なぜ、そこまでして互いを守ろうとするのか。
なぜ、死ぬほど苦しい状況で笑えるのか。
「……くだらないなぁ」
童磨が扇を開く。
「仲間だの、家族だの、恋人だの」
冷気が膨れ上がる。
「そんなもの、全部凍らせてしまえばいい」
四人の表情が変わった。
カナエが前へ。
しのぶが横へ。
カナヲが背後へ。
獪岳が中央へ。
四人の呼吸が重なる。
「――行きます!」
カナヲの声。
「ええ!」
カナエが応える。
「獪岳!」
「ああ!」
しのぶが叫ぶ。
「一緒に!」
「任せろ!」
雷鳴。
花吹雪。
蝶の舞。
そして、研ぎ澄まされた少女の剣。
四つの力が一つになる。
姉妹の絆。
恋人の想い。
継子の覚悟。
そして――。
誰かを守るために強くなると決めた、一人の鳴柱。
その全てが一つの刃となり、上弦の弐・童磨へ襲いかかる。
「さあ、童磨」
カナエが静かに告げた。
「今度は――私たちがあなたを追い詰める番です」
四人が同時に踏み込む。
氷の地獄を、花と蟲と雷が切り裂いていく。
そして――。
上弦の弐を討つための、本当の死闘が始まった。